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第9話

晩餐会が始まり、金色の燭台に照らされ、きらびやかな食器が並ぶ中、チルとジークは楽しげに談笑していた。 マイロはワイングラスを片手に、会場の端の席でほっと息をつく。ここまでの混乱を思えば、今が夢のようだ。 __そう思った矢先だった。 ドンッ!! 会場奥の扉が大きな音を立てて開く。 「……え?」 次の瞬間、会場中が悲鳴に包まれた。 「う、馬だーっ!」 「へ? ジ、ジル!? なんでここに!?」 突如、蹄の音とともに、暴れ馬ジルがホールに乱入してきた。 高級料理が宙を舞い、貴族たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。皿が割れる音、蹄の激しい響き、飛び散るグラスの水滴。 歓談の空気は一瞬で掻き消え、場内は修羅場と化した。 装飾の花を引きずりながら、暴れ馬ジルがホールの中央に突っ込んでくる。派手に頭を振り、角にはリボンが絡まり、まるで花冠のようになっていた。 悲鳴と怒声が飛び交い、誰もが動揺する中 「マイロ、下がれ」背後からカイルの低い声がした。振り向く間もなく、腕を取られる。 「お、おいっ!」 「ここから動くな」 そう囁くと、カイルは迷いなくマイロを柱の陰へと誘導した。 騎士たちが右往左往して混乱する中、ただ一人、カイルだけが冷静だった。 その奥ではジルが目を見開き、何かを探しているように首を振る。 「ジルさん!」 チルがジルに向かい叫んだ。その声に、ジルの動きがぴたりと止まる。 チルが、ゆっくりと、しかし迷いなくジルに近づいていく。 その瞬間、ジークがすっと前に出て、無言でチルの前に腕を伸ばした。護るように立ちはだかるが、チルが首を横に振ると、すぐにその意思を受け取り、今度は寄り添うようにその横に立った。 「無理はするな。危なくなったら、俺が止める」 低く静かな声でそう囁くジークに、チルは小さくうなずく。 そして再び一歩、ジルの前へ。 手を伸ばすと、ジルは鼻面をふっとすり寄せた。 その足元に、何かがぽとりと落ちる。 「これ……王妃のブローチ……?」 拾い上げたチルの手の中には、式で身に着ける予定だった装飾品。さきほどの控室で落としたようだ。 「ジルさん、……届けに来てくれたの?」 チルの問いかけに、ジルはふん、と誇らしげに鼻を鳴らす。 「そっか……私が落としちゃったんだね。ありがとう、届けてくれて。ジルさんは、ほんとにすごいね」 チルの声は、やわらかく、優しさをたっぷりと含んでいた。手のひらでジルの鼻面をそっと撫でると、ジルはくすぐったそうに目を細める。 「よく気づいたね。こんな人の多い場所なのに、怖くなかった?」 問いかけに応えるように、ジルはふんっと小さく鼻を鳴らし、どこか誇らしげに胸を張っているようだ。 チルは思わず微笑み、そっとジルの首元に顔を寄せた。たてがみに頬を当て、その柔らかな感触を確かめるように、静かに撫でていく。 「……ありがとう、ジルさん。あなたはやっぱり、誰よりも優しくて、賢いね」 その声は、誰にも聞こえないほどの小さなささやき。ジルは大きな瞳でチルをじっと見つめると、すぐに安心したように目を細めた。 ジークがそっとチルの肩に手を添え、隣で微笑む。 「……さすが、チルの相棒だな。ちゃんと、君を一番に見てる」 会場内には、ただただ唖然とする空気が広がっている。 「……馬が、届けに来た?」 「……すごすぎる……」 「あれ、暴れ馬のジルだろ?!」 ひそひそとざわめきが広がるなか、貴族たちは目を見開いたまま言葉を失い、腰を抜かしかけた者もいた。 料理人はひとまず破壊された料理の山に唖然とし、衛兵たちはようやく腰の剣に手をかけかけて、状況を見守っている。 その中で、ひとり微笑んでいるのはチルだけ。ジルのたてがみに顔を寄せて撫でながら、何もなかったかのように落ち着いていた。 ジークはそんなチルの姿に肩をすくめて小さく笑い、周囲に目を配りながらそっと言った。 「……騒がせてすまない。式は予定どおり進める。さあ、みんな戻ってくれ」 カイルが衛兵たちに目配せすると、騒ぎの収拾に向けて即座に動き出す。マイロもほっと胸をなでおろす。隣では貴族のひとりが小声で呟いている。 「……すげぇな……王妃のペットって、あんなことまでできるんだ……」 やがて会場に静けさが戻り、ジルはチルとジークに付き添われながら、誇らしげにホールを後にした。 「ぬはははは!! 見たか! 馬にまで慕われる王妃とはこのこと!!わしの孫、チルじゃ!」 モーリスは胸を張って大笑いしている。 一方で、残されたカイルは、即座に対応を開始していた。 「会場の整備を急げ。動ける者は、被害箇所の確認を。そちらの方は、案内を__」 的確に、速やかに、誰よりも冷静に。 彼の言葉一つで、人々は動き始める。 泣いていた貴族婦人にも声をかけ、空気が少しずつ戻っていく。 マイロはただ、その背中を呆然と見つめていた。 「……すげぇな……」 あの短時間で、場を治め、気遣いも怠らない。それでいて、最初に守られたのは自分だった。 「なんであんなに冷静でいられるんだよ」 胸の奥で何かが鳴る。 そのとき、カイルがふっと振り返った。 「無事か?」 低く落ち着いた声と、まっすぐに向けられる視線。そのたった一言で、マイロの心臓がまたズキンと脈打った。 「……うん。大丈夫」 とっさに返したその声は、思ったよりもかすれていた。 カイルは一瞬だけマイロをじっと見つめ、それから小さく頷く。 「ならいい。……ロルフ、扉の警備を増やせ。中庭には念のため補助要員を回しておけ」 指示を飛ばす声は冷静で、無駄がない。騎士として、側近として、完璧すぎるほどの立ち回り。 けれど、マイロに向けられた一言だけが、なぜか胸にずっと残っていた。 「……人を守り、人を動かす。しかも顔も悪くない! いい男だ!」 「うわっ!び…っくりした…」 隣で、モーリスがぶつぶつと唸っていた。急に大声を上げたかと思うと、 「よし、決めたぞ!」 ガタッと立ち上がる。 「え、ええ!? モーリス様!?な、な」 「カイルよ! そなたには、嫁を探してやらねばなるまい!」 マイロは隣で口をぱくぱくさせた。 「え、えっ!? な、なに!? ちょ、モーリス様っ!?」 「この国において、あのような若者を独り身にしておくのは損失じゃ!よい縁談を。いや、婿でも可!可じゃ!」 「ちょっ、待って!? なんの話してんの!?」 マイロの叫びもむなしく、隣にいるモーリスはすでに鼻息荒く候補者を頭の中でリストアップしているようだ。 そして、マイロの心臓は、暴れ馬ジルの足音よりも、大きく、熱く、鳴り響いていた。

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