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第13話

そのままカイルに連れられて、マイロはカイルの部屋に戻ってきていた。 シャワーを浴び終え、バスタオルで髪を拭いていたときだった。背後から、あの低く落ち着いた声が届いた。 「……マイロ」 「えっ、な、なに……? どうした? ていうか、なんでそんな急に真剣な…」 振り返ると、カイルは照明を落とした薄暗い部屋の中、静かに立っていた。その表情は穏やかだけど、どこか、何かを堪えるような強さを帯びている。 「最近……ずっと、避けてるよな」 「そ、そんなこと……ないし」 「嘘つけ、顔も逸らすし、俺は避けられてるんだろ…… 毎回バレバレだぞ」 「…………」 ごまかす言葉が見つからず、マイロは視線を泳がせた。するとカイルが、静かに歩を進め、マイロのすぐ前まで来た。 「また……どこかに行っちゃいそうで、落ち着かない」 ぽつりと漏れたその声で、カイルは大きな手でふわりとマイロの髪に触れた。まだ少し湿った髪の先を、そっと撫でるように指が滑る。 その優しさが、痛い。 まるで謝っているみたいな、でも、全部を許してほしいとでも言いたげな、そんな重くて苦しい気配が伝わる。 「……もうちょっとだけ、このままでいてくれ。俺のそばに」 静かに響いたその声は、怒鳴るでも、縋るでもなく。ただ淡々と、けれど真っ直ぐに胸の奥に届いた。 その瞬間、マイロの中で何かが決壊する音がした。 ずるい…カイルは、ずるいと思う。 言葉にならない思いが喉に引っかかって、うまく吐き出せない。 だって本当は、信じたかった。ちゃんと信じて、笑っていたかった。なのに、怖くて、ずっと不安だった。 「……な、なんで……」 声が震える。目の奥が熱くなっていく。 「なんでそんなに優しくすんだよ……!」 感情が限界を超えたように、マイロの声が跳ねた。抑えていた想いが、堰を切ったように溢れ出す。 「好きな人がいるくせに……! 俺じゃないくせに……!」 声が裏返った。息が詰まりそうになる。 喉の奥が焼けるように苦しく、心臓が暴れている。 わかってる、子どもじみた八つ当たりだって。でももう、止められなかった。 「だったら、そんな顔で、そんな声で、俺に触んなよ!!」 自分でも信じられないくらい大きな声だった。目の前がにじむのは、悔しさか、悲しさか、それとも怒りか…もうわからない。 マイロはカイルの手を振り払うと、肩を震わせながら一歩、後ずさった。 胸がぎゅっと縮こまる。後ずさったその一歩に、何もかもが詰まっている気がした。 「…なんで、俺の髪なんか触るんだよ。なんで、焼き菓子とか覚えてんだよ。…なんで、部屋に戻って来いとか、言うんだよ……っ!」 堰を切ったようにあふれてくる言葉。止まらなかった。 「俺、勘違いしそうになったじゃん…!」 その言葉と一緒に、涙がぽろりとこぼれ落ちた。それと同時に、カイルが好きだと、誤魔化せないほどにはっきり認めた瞬間だった。 「……ほんと、ひどいよ……」 自分が何を言ってるのか、もうわからなかった。ただ、胸の奥からあふれてくるこの苦しさだけは、どうしようもなく本物だった。 「……俺、もう……わかんないよ」 泣きじゃくるわけじゃない。ただ、どうしようもなく悲しくて、悔しくて、情けなくて、涙が勝手に落ちてくるだけだった。 静まり返った部屋に、マイロの嗚咽だけがかすかに響く。 それまで黙ってじっと見ていたカイルは、ようやく一歩、そっと足を踏み出した。 床が軋むか軋まないかの静けさの中で、彼は迷いも怒りも見せず、ただ静かにマイロの前に立った。 「……マイロ」 名を呼ぶ声は、低く、掠れていた。触れたら壊れてしまいそうなマイロを、どうすればいいのか、探るようにカイルの手が、そっとマイロの髪に触れた。 「俺は、お前の髪を触りたいって思ってる。お前の好きなもんを覚えてたのは、喜んでほしかったからだ。お前が戻ってきてくれて、心から嬉しい」 「……っ……カイル、好きな人いるって……それがひどいんだってばっ!」 マイロは声を荒げる。それでも、泣き顔を必死に隠そうとしている。 「お前以外に、いるわけないだろ」 マイロが顔をあげると、すぐそこにカイルがいた。逃げ道を塞ぐように、でも優しくそこにいる。 「お前が泣くの、俺は見たくない。でも……正直ちょっと、嬉しかった」 そう言って、カイルはそっとマイロの手を取った。 手を振りほどこうとした。でも、できなかった。その手が、熱くて…あまりにまっすぐで、力強くて。 「マイロ。俺、お前のことが好きだよ。ずっと、ずっとずっと」 その声に驚き、逃げようとしても、ただ見つめるだけで、目を逸らすことも許されなかった。 言葉の意味を理解しようとするのに、頭の中は真っ白だ。どうしたらいいのかなんて、わからない。わかるはずがない。 でも__涙も、言葉も、怒りさえも、その言葉で、すべてが消えていくようだった。 胸に渦巻いていたものが、音もなく、静かにほどけていく。 マイロが言葉を失っているあいだも、カイルはただ、まっすぐに、まるで揺らぎもなく、想いを伝えてきた。 『好きだ』って。 ありえないくらい、真顔で。 「……え、いや…カイル、好きな人いるって言ってたじゃん…」 「だから…それがお前だって言ってる。話聞いてんのか?」 そうぶっきらぼうに言うくせに、ちょっと満足げに口元をゆるませている。 その笑い方が、ずるいと思う。そんなの、反則だ。こっちは怒ったばっかりなのに。 それに…好きだって認めたばっかりだ。 「……じゃあ、じゃあさ…どうして、モーリス様からの縁談を……もっと早く、きっぱり断らなかったの?」 ぽつりと零れた言葉に、カイルが眉をひそめた。 「……断ったつもりだった。だが、お前にそれが伝わってなかったなら……それは、俺のせいだな」 「……もっと、ちゃんと、言ってくれればよかったのに。俺、ずっと勘違いして……胸が痛くて…バカみたいだった」 目に熱が戻ってくるのがわかった。怒っているのか、泣きたいのか、自分でももうよくわからない。 「マイロ……すまん。俺が、悪かった」 カイルの声は、まっすぐで、けれどどこか震えているような気もした。 「お前のことが好きだってことは、きっと伝わってると思い込んでいた。俺がもっと早く、はっきりとお前に気持ちを伝えるべきだったな」 またカイルの手が伸びてきた。髪を、そっと撫でられる。大きくて温かくて、なんかもう、泣いたばっかなのにまた泣きたくなった。 「……お前は、泣き顔も可愛いな」 「……っは!? ちょ、ちょっと待てバカカイル!! 今そういうのやめろっ!」 「やめない」 「やめろって言ってんだろ!」 「やめない。好きな人には、甘やかしたくなる。お前、ずっと俺に甘やかされてたのわかんないのか?」 いつも冷静で、無表情で、誰にもなびかないあのカイルが、今は信じられないくらい、俺だけを見てる。 「困るんだけど……そういうの……」 「困っても、やる。お前が、やっと俺のそばに戻ってきたからな」 そう言って、今度は額をコツンとくっつけられた。照明の落ちた部屋。距離はゼロだ。 「……好きだよ、マイロ。何回でも言う。お前が逃げなくなるまで、言い続ける」 心臓が、何度も跳ねた。 逃げたいくせに、この言葉を待っていたようで、そう気づいてしまって、もう気持ちが離れられない。 「……そんなの、ずるい」 そう言いながら、カイルの胸元にそっと額を預けた。文句を言ったくせに、自分から触れてしまうなんて。 「ずっと、そばにいてくれ。もう、どこにも行くな」 低くて、やさしくて、包みこむような声。 この人の腕の中が、一番安全だと、知ってしまった。

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