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第22話

城門前。モーリス大公の馬車が、すでに出発の準備を終えていた。荷物の積み込みも済み、あとは本人が乗り込むだけ。 「……ふむ。わしもそろそろ戻らねばのう。政の席を長く空けておると、あれこれ口のうるさい連中が出てきよる」 そう言いながらも、モーリスはちらちらと名残惜しげに後ろを振り返っている。 「チルや……本当に、もう行ってしまうのかの?」 「いやいやいや、行くのはモーリス様のほうですからっ!」 咄嗟にマイロが突っ込んだ。鋭い指摘に、周囲の騎士や侍女たちから小さな笑いが起こる。 チルは唇をきゅっと尖らせ、目元を赤く染めていた。寂しさはもう、隠しようがない。 「……モーリス様、明日から図書室に来ないんですよね……? 朝食も、一緒じゃなくなるの? もっと教えてほしいこと、たくさんあるのに……」 その言葉に、モーリスの眉がみるみる下がっていく。 「うぅ……チルや、そんな顔をするでない。わしまで泣きそうになるではないかっ!」 たまらず両手を広げて、チルをぎゅうっと抱きしめる。 「わしの孫は、ほんにかわいいのう……ああ、連れて帰りたい……政務机の隣に座らせて、毎朝お茶を飲ませたい……いいかのぅ?」 「だ、だめです! こっちには陛下がいますからっ!」 またしてもマイロがモーリスに突っ込む。 「むぅ……ジーク坊やめ、独占とは生意気な……」 モーリスがぶつぶつと恨めしげに呟いていると、少し離れた場所で見守っていたジークとカイルが目を合わせて、笑っていた。 まだモーリスの腕の中に抱きしめられたまま、チルはそっと顔を埋めた。モーリスのひげが頬にくすぐったく触れる中、ぽつりと呟く。 「……お別れするの、寂しいです。……また、来てくださいね……モーリス爺」 「なななっ……! チルや〜〜〜!!」 抱きしめる腕にぐっと力がこもる。モーリスは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。 それは、かつてモーリスがチルに伝えた大切な教えだった。「呼び方ひとつで、人の距離は近づいたり、遠ざかったりするものだ」と。 『ジーク様と呼んでいるうちは、本当の意味で寄り添えておらんのだな。王である前に、おぬしの夫だろう?名で呼べ。そうせぬと、本当に心を許したことにはならん』 あの言葉を胸に、チルは少しずつジークを名前で呼ぶようになっていった。 そして今、別れの間際に「モーリス爺」と自然に口にしたその一言は、モーリスにとって何よりも誇らしく、嬉しい贈り物になった。 それは、ふたりの間に確かに絆が育まれていた証だった。 「もちろんじゃとも、チルや……何度でも会いに来るぞ」 「……待ってます……う、うぅ……モーリス爺……!」 ふたりのやり取りに、そばにいた騎士たちや侍女までもが、思わず頬を緩めていた。 そして、馬車がゆっくりと動き出す。 「チルやぁあああああああああ!!! 元気でのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」 「モーリス爺ぃぃぃぃぃぃ!!! また絶対来てくださぁぁぁあい!!!」 互いに両手をめいっぱい振りながら泣きじゃくるその姿に、後方で見守っていた騎士たちが小さく呟く。 「あれ見ろよ……もう永遠の別れみたいだ」 「モーリス大公ってどこに住んでるっけ」 「…そんなに……遠くないだろ?」 「ああ…馬車で1時間くらいだよな…確か」 「いやいや、1時間もかからないぜ…」 城門をゆっくりと越えていく馬車。陽だまりの中、マイロは少し眩しそうに空を仰いだ。ほんの少し前までは、同じ場所にいても、違う景色を見ていた気がする。 何かを守らなきゃ、役に立たなきゃ。 そんなふうに肩に力が入っていた日々。 でも今は違う。誰かの隣に立つことは、背負うことじゃなくて、分かち合うことなんだと知った。 「おい、ぼんやりするな。転ぶぞ」 背後から聞こえてくる、低くて落ち着いた声。振り向けば、カイルがいつものように不機嫌そうな顔で立っている。 「うるさいな、転ばないって…あっわっ!」 歩き出そうとして、石畳につまづいたマイロの腕を、すかさずカイルが引き寄せる。 「……言っただろ」 「うるさい…」 けれど、引き寄せられた手を振り払う気はなかった。その手が、ちゃんと自分を受け止めてくれるとわかっている。 ふたりの歩幅は、まだ時々ズレることもある。でもそれを、少しずつ合わせていけるのが嬉しい。 「なあ、カイル」 「ん?」 「俺さ。これから先も、ちゃんと並んで歩くから。ちょっと不器用だけど、覚悟しててよね」 「……お前が言うと、口説きに聞こえるな」 「えっ……ちょっ、なにそれ…!えっ、照れた?うそ、カイル照れてる?」 「黙れ。さっき転びかけた罰として、今夜はキス100回な」 「どんな理不尽!? それ罰っていうより、甘やかしだろ!」 笑いながら手を引かれて、マイロはふっと息をつく。ほんの少し前まで、こんなふうに笑い合える日が来るなんて思いもしなかった。 「……じゃあ今夜、甘やかしの準備、しておけよ?」 低くて、やけに優しい声。その響きに、マイロの肩がぴくりと震える。 「なっ……ちょ、言い方……ずるいって……」 顔が熱くなるのを止められなくて、マイロは目をそらすしかなかった。 王宮の中で、今日も変わらない日常が流れていく。 でも、マイロにとっては、すべてが少しだけ、やわらかくなった気がしていた。 隣には、いつもカイルがいる。 歩くときは手をつないで、笑うときも、怒るときも、ちゃんと隣にいてくれる。その手は、照れくさくなるほど甘やかしくて、でも、とてもあたたかい。 「……ほら、油断してると置いていくぞ」 「うるさい、ちょっと待って!」 何気ない会話の中に、ふたりだけの秘密がいくつも散りばめられている。きっと、これからも喧嘩して、笑って、照れて、またくっついて……そんなふうに、毎日を重ねていくのだろう。 日常は変わらず、でも確かに甘くなった。 それだけで、世界はちょっとだけ優しくなる。 end

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