22 / 28
第22話
城門前。モーリス大公の馬車が、すでに出発の準備を終えていた。荷物の積み込みも済み、あとは本人が乗り込むだけ。
「……ふむ。わしもそろそろ戻らねばのう。政の席を長く空けておると、あれこれ口のうるさい連中が出てきよる」
そう言いながらも、モーリスはちらちらと名残惜しげに後ろを振り返っている。
「チルや……本当に、もう行ってしまうのかの?」
「いやいやいや、行くのはモーリス様のほうですからっ!」
咄嗟にマイロが突っ込んだ。鋭い指摘に、周囲の騎士や侍女たちから小さな笑いが起こる。
チルは唇をきゅっと尖らせ、目元を赤く染めていた。寂しさはもう、隠しようがない。
「……モーリス様、明日から図書室に来ないんですよね……? 朝食も、一緒じゃなくなるの? もっと教えてほしいこと、たくさんあるのに……」
その言葉に、モーリスの眉がみるみる下がっていく。
「うぅ……チルや、そんな顔をするでない。わしまで泣きそうになるではないかっ!」
たまらず両手を広げて、チルをぎゅうっと抱きしめる。
「わしの孫は、ほんにかわいいのう……ああ、連れて帰りたい……政務机の隣に座らせて、毎朝お茶を飲ませたい……いいかのぅ?」
「だ、だめです! こっちには陛下がいますからっ!」
またしてもマイロがモーリスに突っ込む。
「むぅ……ジーク坊やめ、独占とは生意気な……」
モーリスがぶつぶつと恨めしげに呟いていると、少し離れた場所で見守っていたジークとカイルが目を合わせて、笑っていた。
まだモーリスの腕の中に抱きしめられたまま、チルはそっと顔を埋めた。モーリスのひげが頬にくすぐったく触れる中、ぽつりと呟く。
「……お別れするの、寂しいです。……また、来てくださいね……モーリス爺」
「なななっ……! チルや〜〜〜!!」
抱きしめる腕にぐっと力がこもる。モーリスは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
それは、かつてモーリスがチルに伝えた大切な教えだった。「呼び方ひとつで、人の距離は近づいたり、遠ざかったりするものだ」と。
『ジーク様と呼んでいるうちは、本当の意味で寄り添えておらんのだな。王である前に、おぬしの夫だろう?名で呼べ。そうせぬと、本当に心を許したことにはならん』
あの言葉を胸に、チルは少しずつジークを名前で呼ぶようになっていった。
そして今、別れの間際に「モーリス爺」と自然に口にしたその一言は、モーリスにとって何よりも誇らしく、嬉しい贈り物になった。
それは、ふたりの間に確かに絆が育まれていた証だった。
「もちろんじゃとも、チルや……何度でも会いに来るぞ」
「……待ってます……う、うぅ……モーリス爺……!」
ふたりのやり取りに、そばにいた騎士たちや侍女までもが、思わず頬を緩めていた。
そして、馬車がゆっくりと動き出す。
「チルやぁあああああああああ!!! 元気でのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「モーリス爺ぃぃぃぃぃぃ!!! また絶対来てくださぁぁぁあい!!!」
互いに両手をめいっぱい振りながら泣きじゃくるその姿に、後方で見守っていた騎士たちが小さく呟く。
「あれ見ろよ……もう永遠の別れみたいだ」
「モーリス大公ってどこに住んでるっけ」
「…そんなに……遠くないだろ?」
「ああ…馬車で1時間くらいだよな…確か」
「いやいや、1時間もかからないぜ…」
城門をゆっくりと越えていく馬車。陽だまりの中、マイロは少し眩しそうに空を仰いだ。ほんの少し前までは、同じ場所にいても、違う景色を見ていた気がする。
何かを守らなきゃ、役に立たなきゃ。
そんなふうに肩に力が入っていた日々。
でも今は違う。誰かの隣に立つことは、背負うことじゃなくて、分かち合うことなんだと知った。
「おい、ぼんやりするな。転ぶぞ」
背後から聞こえてくる、低くて落ち着いた声。振り向けば、カイルがいつものように不機嫌そうな顔で立っている。
「うるさいな、転ばないって…あっわっ!」
歩き出そうとして、石畳につまづいたマイロの腕を、すかさずカイルが引き寄せる。
「……言っただろ」
「うるさい…」
けれど、引き寄せられた手を振り払う気はなかった。その手が、ちゃんと自分を受け止めてくれるとわかっている。
ふたりの歩幅は、まだ時々ズレることもある。でもそれを、少しずつ合わせていけるのが嬉しい。
「なあ、カイル」
「ん?」
「俺さ。これから先も、ちゃんと並んで歩くから。ちょっと不器用だけど、覚悟しててよね」
「……お前が言うと、口説きに聞こえるな」
「えっ……ちょっ、なにそれ…!えっ、照れた?うそ、カイル照れてる?」
「黙れ。さっき転びかけた罰として、今夜はキス100回な」
「どんな理不尽!? それ罰っていうより、甘やかしだろ!」
笑いながら手を引かれて、マイロはふっと息をつく。ほんの少し前まで、こんなふうに笑い合える日が来るなんて思いもしなかった。
「……じゃあ今夜、甘やかしの準備、しておけよ?」
低くて、やけに優しい声。その響きに、マイロの肩がぴくりと震える。
「なっ……ちょ、言い方……ずるいって……」
顔が熱くなるのを止められなくて、マイロは目をそらすしかなかった。
王宮の中で、今日も変わらない日常が流れていく。
でも、マイロにとっては、すべてが少しだけ、やわらかくなった気がしていた。
隣には、いつもカイルがいる。
歩くときは手をつないで、笑うときも、怒るときも、ちゃんと隣にいてくれる。その手は、照れくさくなるほど甘やかしくて、でも、とてもあたたかい。
「……ほら、油断してると置いていくぞ」
「うるさい、ちょっと待って!」
何気ない会話の中に、ふたりだけの秘密がいくつも散りばめられている。きっと、これからも喧嘩して、笑って、照れて、またくっついて……そんなふうに、毎日を重ねていくのだろう。
日常は変わらず、でも確かに甘くなった。
それだけで、世界はちょっとだけ優しくなる。
end
ともだちにシェアしよう!

