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番外編 モーリス
明日は、この城を発つ日だ。もうここで、モーリスに残された役目はない。
王宮の馬場では、チルがジルの背にまたがり、楽しげな笑い声を上げている。まったく、暴れ馬を手懐けるとは、チルらしい。
その姿を、目を細めて見つめる。
隣に立つのは、この国の王。昔は膝の上にちょこんと座らせて絵本を読んでやった。
今では、見上げるほど背が伸びおって……立派になったもんだ。
「……ジーク坊やも、よう育ったのぅ。おぬしが王になって、わしがこうして頭を下げる日が来ようとはな」
「爺…頭なんて、下げてないよね?」
いつものわかりにくいモーリスのジョークに、くくっとジークは笑う。つられて、モーリスも喉を鳴らして笑い返す。
「……じゃが、チルを得て、おぬしは人になったのう。王である前に、一人の男としてじゃ」
その言葉に、ジークは肩の力を抜くように微笑んだ。
色のない王と呼ばれてきた。
ジークは、成人を迎える頃から、徐々に色が見えなくなったらしい。今では完全にモノクロの世界で生きている。
本当は、少しだけ心配していた。
けれど、ジークはチルに出会ってから、変わった。いや、変わったというより、色を手に入れたのかもしれない。
チルと初めて会ったとき、頼りない…そう感じた。だが、それはほんの一瞬だった。
何事にも真面目で一生懸命。よく笑い、よく学び、そして、まっすぐジークを見つめていた。ジークも、そんなチルに色のことを尋ねる。堂々と、隠すこともせずに。
「チルに色を教えてもらうのが好きだ」と、まるで少年のように笑っていた。
歴代の王たちも、色を失った者はいた。だが、こんなふうに楽しそうに色の話をする王は、見たことがない。
ジークは……ようやく、人生の彩りを手に入れたのだなと、モーリスは思っていた。
「モーリス爺もさ、あんな面倒なことしなくてもよかったのに」
「なんじゃと!面倒とはなんたる言い草じゃ!」
「だって、馬に乗れ〜とか、舞を踊れ〜とか。正直、見てて笑っちゃったよ。でも……チルのことを思ってやってくれてたの、ちゃんとわかってる。…ありがとう」
返す言葉が、しばらく見つからなかった。
いつの間にかジークは、本当に立派な大人になっている。
あれはただの試練などではない。チルが誰よりも努力し、誰よりも王妃としての誇りを持てるようにと。
そして、周囲からとやかく言われぬよう、先回りして、老いたる外野が口を挟んだまでのこと。
世の中、文句を言う輩は必ずいる。『ならば先に、わしが盾になってやればよい』そうモーリスは思っていた。
「……ジーク坊や。チルには、言わんでくれよ。……なんとも、こそばゆいでな」
「ははっ、なにそれ。でもさ、チルなら…たぶん、もう気づいてると思うよ?」
「なにぃ!? 知られておるのか……だったらなおのこと、恥ずかしいわい…」
肩をすくめながら笑うジークの横で、モーリスは小さく呻くようにそう言った。
「爺…明日、帰るんだろ?」
「うむ。もう、わしの役目は終わった……そう思っておる。じゃがのぉ……チルと離れるのは、やはり寂しいもんじゃ」
「はははっ、それは大変だ。……でも、まぁ、また遊びに来ればいい」
「そうじゃな!では来週にでもっ!」
「早いって! もうちょっと帰ってから仕事してよ、モーリス爺!」
ジークの明るい声に、遠くでチルが「ジーク〜?」と小首をかしげながら呼びかける声が聞こえた。
「……ジーク坊や」
声を落として、モーリスはじっとジークを見上げた。
「これからは、ちゃんと幸せになってくれ。それが、わしの最後の役目じゃ」
その目は冗談ではなく、真剣だった。
ジークは少し目を見開いて、そして、まっすぐに頷いた。
「……ああ。約束するよ、モーリス爺。チルと、ちゃんと幸せになる」
静かに頷いたジークの横顔を見て、モーリスはふっと目を細める。
すると、そのとき
「モーリス様ぁ〜〜!」
風に乗って、馴染みの声が駆け寄ってくる。笑顔のチルが小走りで近づいてきた。
「チルや……!」
モーリスの顔がぐしゃっと崩れる。たちまち両手を広げて、チルを力強く抱きしめた。
「わしの孫は、やっぱり世界一かわいいのぅ……!離れとうない……連れて帰りたい……政務机の隣に座らせたい……!」
「あはははっ!何を言ってるんですか」
チルはくすくすと笑いながらも、モーリスの腕の中で名残惜しそうに目を伏せる。
「明日、帰るんですよね……それでも、またすぐに会いに来てくれますか?」
その言葉に、モーリスは涙をこらえきれず、鼻をすすりながら叫んだ。
「もちろんじゃとも、チルや……何度でも、会いに来るぞ!」
__翌日、遠ざかっていく馬車のなか、モーリスは窓越しに城門を見つめていた。
王妃にふさわしいかどうかなんぞ、もう誰にも言わせん。チルは堂々と王の隣に立っている。
「わしの誇りじゃ」と、小さく笑った。
やれやれ、次はどの顔で訪ねようか……
頬をくしゃくしゃにして手を振っていたチルの姿が、いつまでもまぶたに残っていた。
モーリスと、チル。このふたりの絆は、世代も立場も超えて、確かにそこに根づいていた。
end
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