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第2話
無事退院後、約束通りに凪は迎えに来てくれて、地元の図書館で一緒に勉強する日々が始まった。
退院したらひたすら無の時間になる予定だったから。入院している時は朝から夜までの時間が長かったが勉強しているとあっという間だった。そしてしっかりお腹も空く。
中学生までは漢字に苦労したことは無かったが高校生のレベルになるとそれなりに難しい。
「今日はここまでかな」と凪に声をかけられ、机に上半身を寝かせて力尽きる。つ、疲れた……今日はよく眠れそうだ。
「久々に頭使って疲れたね。今日はもう帰ろうか」
「え。でもこの後どこか遊びに行くんじゃ……」
「元気が有り余ってたらのついでだったから。へろへろなら無理に付き合わせるつもりもないし」
凪は本当にタダで僕に勉強を教えてくれたようなものだ。どうして凪はそこまで献身的なのだろうか。僕にとっての空白の四年間を、勉強という知識で埋めようとしてくれている?
「……あの。あまり遠くへは行けないんですけど」
「うん」
「そこの……店でコロッケ買って一緒に食べませんか」
凪は僕の指差した方に目を向ける。「ああ、懐かしいね」と彼は呟き、目線をこちらに戻して「いいよ、行こうか」と身支度をしていく。
懐かしいって。僕と凪は過去に一緒に来たことがあるのかもしれない。僕には全くわからないが。
「付き合ってくれた礼だよ」と凪がコロッケを奢ってくれた。勉強に付き合ってくれたのは凪の方なのに。
熱々のコロッケを頬張りながら帰り道を歩いていく。
「高校生になったら、帰り道にコロッケ買って歩いて帰ることが密かな憧れでした」
「そうなんだ。……もう、とっくに年齢すぎちゃったね」
「はい。でも、今同じようなことをしてるからいいんです」
「相手が俺でよかったの?」
「どういう意味ですか?」
「ほら、そういうのって好きな子とかとしたかったりするじゃん」
「……僕にはそんな子いないし、恋愛する気もないし。今はとにかく、勉強に集中したい。……です」
「そう」
それきり、無言の時間。ひたすらコロッケに齧り付く。ほくほくで、美味しい。ずっと変わらない味。人間はどんどん変わっていく。四年も経っていれば、尚更。
凪は今日、どこに向かう予定だったのだろう。凪の予定に付き合えるように、僕ももっと体力をつけないと。
*
凪は仕事をしてるはずだけど長期休暇をとっているみたいで、ほぼ毎日図書館で顔合わせて勉強するようになった。僕も一日中家にいてもすることなかったし、丁度いい巡り合わせだった。勉強終わりに毎日遊びに行くのは少し大変なので、凪の気が向いた時に出かけることが多くなった。水族館とか、美術館とか。動物園、植物園。二人で一緒にいれば、たくさん会話もして自然と心の距離も縮まっていく。それまでは未だに人見知りを発揮してしまい凪の顔を碌に見れずに終わっていたが、春から夏に差し掛かる頃。多くの通行人が凪の顔を見ていることに漸く気付いた。
わかっている。凪はとても顔が綺麗だから。
だけど、なんか面白くない。
「凪さん」
声をかければ「ん?」と顔をこちらに向けて微笑んでくれる。大勢の人が行き交う中、この容姿端麗な人は僕にだけ微笑んでくれている。それだけで、優越感というものが生まれた。……なんて、堂々と言えることではない。このままでは、僕は凪の外見しか興味が無いみたいじゃないか。いや、実際そうなのだろう。記憶が無い僕は。……凪の中身を、知りたい。だなんて。
「僕と凪さんはどんな関係だったんでしょうか」
初めに会った頃にも何回か聞いていたけれど。「アパートの隣人だったんだよ」としか答えずそれ以上のことは話さなかった。それだけの関係だったら中学生の僕は大事な本をわざわざ他人に貸すなんてしないはず。だから、もう一度聞いてみる。
「そんなことは気にしなくていいんだよ」
彼は目を伏せて微笑む。水族館の青に照らされる顔。どんな仕草も綺麗で、見惚れて。きっと四年前の僕も見惚れていた。
「凪さんのこと、もっと知りたいです」
「じゃあ、今の俺だけを知っていて。過去は知らないでいて」
「……過去は思い出して欲しくない、ということですか」
「出来れば」
苦い思い出でもあるのだろうか。そんなに過去を知られたくないのなら、どうして今僕と一緒にいるのか。首を傾げることしか出来なければ凪はまた笑って「次の場所行こ」と先に歩き出す。その背中を追いかけて歩いて。
やっぱり知りたい、と思ってしまう。
*
夏から秋、冬。
ほぼ毎日凪は勉強に付き合ってくれた。毎日勉強していたこと、凪の教えもあったことで一年とはいえ膨大な知識が頭に入った。「今年の大学受験どうする?」と凪に聞かれたので「受けてみます」と答える。
「勉強が楽しいものになるなんて不思議でした。凪さんがわかりやすく教えてくれたからかも」
「なら良かったよ。俺の知識もここまでだから。だからそれ以上の学びを受けたいならやっぱ大学行ってみなよ」
「はい。凪さん、長い間ありがとうございました。ずっと付き合ってくれて。もし落ちちゃっても、今度からは一人で猛勉強しますから」
「うん。頑張ってね」
図書館からの帰り道。「凪」と声をかけてくる男がいた。凪はその声に振り返り目を見張ると、背を向けて早足で歩いていく。僕を置いて。逃げるように。
「おい、無視すんな。探すのに苦労したんだから」
「……」
「ったく、オレとはもう縁が無いってかぁ? 長年の仲じゃんかよ。今はこの兄ちゃんの相手をしてるのか?」
男が追いかけるから、凪は逃げていく。二人はどんな関係なんだ。疑問を抱きながら僕も凪に着いていく。
「なあ、また相手してくれよ」
「……俺はもうそんなことしないから」
「よく言うぜ。体で稼ぐことしかできなかったくせに」
体で稼ぐ。それは。凪が「過去を知らないで欲しい」と言ってた事と繋がるとしたら。彼にとって後ろめたい記憶なのだろう。
「オレの家に来てくれたら、またたっぷり報酬やるからさ」
「もう何も知らない俺じゃない。今の俺には戸籍がある。連れ去りでもしてみろ。この子が探してくれる。警察が動くからな」
この子、で一瞬僕に目を向けられる。
戸籍がある。前は戸籍が無かった。国に存在しないことになっていた凪は、学校にも通えず目の前の男たちから体で稼いでお金をもらっていた。外の世界を知らなかった凪は、それしか生きる術が無かった。無いと思わされていた。連れ去られて無理強いされる日が続いても、誰も探そうとしないから警察が動くこともない。
「全部この子が変えてくれた。俺に知識を与えてくれた。だから俺はもう惑わされない。汚いことはしないし、しっかり働いて稼いでいるから」
中学生の僕が、何も知らない凪に教えていた? 僕が眠っている間に猛勉強して、目覚めたら今度は逆に僕に知識を与えてくれていたとしたら。
なんて律儀で、愛情深い人なのだろう。
男はまだなんか文句を言っている。「下品だったくせに」とか「イイ体だったのに勿体ねえよ」とか。ああ、なんか聞きたくないな。凪を見れば男を睨みつけていたが、わなわなと手が震えている。過去の男に出会ってしまったから。知られたくない過去を僕に知られてしまったから。
「凪さん」
男を視界から遮るように目の前に立ち、両手で彼の耳を塞ぐ。
「帰ろう」
「……」
「大丈夫。一緒に帰ろう」
揺れている瞳に極力安心させるように微笑み、動かない凪の手を引いて歩いていく。まだ男は何か言っている。どんどん萎縮していく凪を抱き込み、振り返って男を一瞥して。真っ直ぐ前を向いて歩いていく。
「……知られたくなかった」
暫く歩いて。男の存在も消え静かな住宅街になった頃。凪はぽつりと呟く。
「記憶がない君の前でなら、俺は生まれ変われると思ってた。……ダメだったけど」
「あんな最悪なネタバレみたいなこと、実際あるんですね」
「ネタバレか。はは、そうだね。気になっていた過去を、あんな形で知っちゃったんだもんね」
まだ凪の肩を抱いたまま歩いている。ネタバレに苦笑した凪は、そのまま頭を僕の胸に預ける。
「……知らない方が良かったでしょ?」
静かに尋ねられるけど。まだ正直わからない。驚いてはいるけれど。距離を置きたい、とは思わなかった。凪はきっと苦労して生きていた。その生き様を否定したいわけではない。頭の中でぐるぐる考えて即答出来ずにいれば何を思ったのか凪は僕から離れて「受験、合格を祈ってるね」と微笑んで走り去ってしまった。
それきり、凪は僕の元へ現れることはなかった。
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