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第2話 雨脚に触れる
あれから1週間が経とうとしていた。
変わらず大学があって、講義を受ける。電車に乗って、歩いて、家に戻る。
工事はすでに終わっていて、いつも使う道路が使えるようになった。
静也は1週間前に来ていた男の存在を忘れはしないが、大学の授業や帰ってからのレポート作成で、その存在のことを考える暇もなく過ぎていった。
初めの数日は何も変わらない日常に戸惑っていた。気にしてつけてる朝の報道番組、帰ってからいつも観るバラエティ番組のCM中に観るニュース。どれにもあの夜のことを話すアナウンサーはいなかった。
静也は気にしすぎる自分がおかしいのか、普通なのか、他人に相談することもできず時間が過ぎていった。
「いらっしゃいませ」
夜8時過ぎ、静也は家から徒歩5分ほどのコンビニの自動扉を潜る。
入店とともに店員のやる気のない乾いた声が聞こえる。外では考えられないほど、冷えて湿度を失った空気が迎え入れてくる。
(どれがいいかな)
静也は冷気の誘われるままに、冷蔵コーナに並ぶ酎ハイの鮮やかなデザインを目に映す。
今日はどれにしようか、週に一回、こうして静也は酒を選んでいる。別段強いわけじゃないので大した量は飲めない。
成人になった時、周りのノリで飲んだ酒。初めは美味しさなんてさっぱり分からなかった静也だった。それでも周りと合わせたり、なんとなく興味が湧いて飲んでいるうち、週に一回以上こうして飲みたいと思うようになった。
静也は6月限定、と書かれたパッケージの酎ハイを手に取った。
レジに向かおうと屈めた腰を起こし、周りを見渡す。店内には自分以外の2人の客とバイトらしい店員が1人。
そのお客の2人中1人、どこかで見覚えがある顔な気がした。
話しかけようかどうしようか、静也は気にせず通り過ぎようか迷った。そうしているうちに向こうがこちらに近付いてきた。
「……あれ、君、この前の」
その姿は静也を認識すると声をかけてきた。
「こんばんは」
何を話せばいいか分からない静也は無難に挨拶を交わす。この独特な雰囲気、自分よりやや低い背、黒髪で独特な視線を送る男、ニルスで間違いなかった。
「そっか、君ここから近いから会うのも当然だよね」
偶然と言いたいんだろうその男、ニルスは目を細めて愛想の良い笑顔を向けてくる。
あれは夢みたいなもので、考えるだけ無駄、どうせ二度と会わないんだろうと思って記憶から消そうとしていた脳みそが警告を告げる。目の前にいるのはそいつだと。
「へえ、お酒飲むんだね」
ニルスは静也のカゴを見るなり意外だね、というふうに会話を続ける。
「ああ、週に一回くらいは」
己の心臓が密かに忙しなく動くのに静也は不思議だった。何を焦ってる?怖がってる?期待している?自分の感情がぐるぐる回る。そこで冷静な自分が外野から話しかけてくる、ここで引き止めれば何か変わるかもと。
目の前の男は目に映った知り合いに声をかけただけ、多分それだけで特に用はないだろう。会話が続かなければコンビニで買い物を済ませば静弥の元から去って行くはず。
「あ、よかったら、うちで飲まないか?」
自分でもよくわかっていない。
静也は目の前の男に聞きたいことがないわけじゃない、でもそれ以上に関わらない方が自分の為だと知っている。それでも何故か目の前の存在が気になってしまった。
「覗くな」と言われれば言われるほど見たくなる。絶対関わったらいけないーー分かっている。頭で響く警報音が酷く遠くなって、自分の中の何かが微笑んでくる。
自分で言ったことだが、内心断ってくれと静也は思ってた。
「君から誘ってくれるなんて思わなかったよ、嬉しい。いいよ、今日は仕事がないからね」
「よかった」
全くよかったなんて思ってない。それでも口から出たよかったは一体なんだったんだろか。
自分で言い出したのは重々承知、それでも断ってくれなんて酷い話だ。
カゴに追加する酒とつまみ、ニルスの好みってこれなんだなって別に覚える必要のない情報を脳が嫌でも記憶していく。
「ありがとうございした」
バイトのやる気のない声が背中から聞こえる。
レジに向かえば、当たり前のようにカードを取り出したニルスに一回は表面上断るが「俺の方が邪魔するんだから」って言われ、「ありがとう」と返す。
外に出れば梅雨特有の湿度の高い嫌な空気がまとわりついてくる。それに加え、先ほどまで降ってなかった雨がしとしと降り始めていた。
すぐに帰るからと傘なんて持ってきてない静也はため息をつく。
「降ってきちゃったね、一緒に入る?」
ニルスが傘をかざして静也の顔を覗く。
ポンッと藍色の傘が夜の暗闇に広がる。
荷物を真ん中に2人で傘に入る。そこまで強い雨ではないが、傘から出ている肩はゆっくり湿っていく。
「梅雨、早く明けてくれねぇかな」
静也がポツリと呟く。
独り言のように呟いたつもりだったが、隣を歩く男に向けた言葉だった。けれど、ニルスからの返答はなかった。チラッと見た視線もまじ合うことはなく、まっすぐ前を見てやや機嫌が良さそうなニルスの横顔があるだけ。
会話は特に交わされることはなく、雨と相傘で少し遅くなった歩みを進めていった。
玄関の傘立てにニルスの傘を差し込み、靴を脱いで上がっていく。急に降り出した雨は家に着く途端に強くなり、ザーザーと音を立てて本降りになっていた。
「今日こんな降るって言ってなかったよな」
静也はタオルをニルスに渡しつつ、自分の肩も軽く拭き今の天気に文句を言う。今日の天気予報では雨は降らないだろう、降っても小降りですぐに止むとのことだった。
あいにく洗濯物を干してるわけでも、濡れて困るものが外にあるわけでもないがなんとなく裏切られた感じがあった。
「そうだね、でも、梅雨だから仕方ないよ」
ニルスは和かな表情で雨を拭き取ったタオルを静也に渡す。静也は受け取ると乱雑に洗濯機へ2枚のタオルを投げ入れる。
そして買ってきたものをテーブルに並べる。酒と多少のつまみ、すぐに飲まないものは冷蔵庫へしまう。
静也はやっとこさソファに座るとテレビのリモコンへ手を伸ばす。スイッチを押すと何やらドラマがやっていた。別に追ってるわけじゃないが、音になればと選局するわけもなくそのままにドラマを流す。
「これ、街中でもCMしてるやつだね」
ニルスが隣に座りながら明るい画面に話しかける。静也は「そうなんだ」って返すだけ返して興味のない画面を観ずに缶のプルを開ける。
「興味ないの?これ、一応ノアも出てくるやつだけど」
「あれ、俺、ノア好きだって言ったっけ?」
丁度画面に映った整った顔に手足の長いスラリとしたスタイル、ちょっと映っただけでそいつだと分かるシルエット。静也は観る気のなかったドラマを観る。
「いや、聞いてないけど、君が買ってる雑誌や前に観てたバラエティ番組がノア特集だったから」
「ああ、そういうことか」
ニルスに“ノアのファン”と言った覚えはなかった。そして別段ファンというわけではない、ただ、綺麗な様子やカリスマ性が気になって観ているだけ。好きとか追ってるとか、絶対に観ていると言われればそこまでではない。
雑誌に限っては毎月購読してるファッション誌で、時折出る特集号を買っただけ。買わない時もあるが、ノアならいいかと買っただけである。
「別に、そこまでファンって訳じゃない、顔が綺麗だし背も高くて……見てて浄化される感じがする」
「それって“ファン”って言うんじゃないの?」
ニルスは静也の発言にケラケラ笑い出す。それがファンじゃなかったらなんだろうねっていいながら笑ってくる。確かに、そうかもしれないと静也は開けた缶に口をつけながら他人事のように思っていた。
「まあ、いいや、そういえばこの前はありがとう助かったよ」
ニルスは笑い終わると、ふと思い出したように話を変えた。この前、これを指すのは1週間前の出来事。静也はチラッとニルスの方を見据える。
(これは、聞いてもいいっていうフリか?それともただのお礼?)
静也は振り返される1週間前に、何かを聞こうとそもそもニルスを飲みに誘ったのだ。
手に握る缶の温度が指先に伝わって冷えていく。
「なあ、この際だから聞くけど……お前ってなんなの?」
静也はテレビを観たままニルスに訪ねる。テレビでは恋愛ドラマなのか、男女がいい争っている風だった。
ニルスはニヤリと口角を上げて静也を両目に映す。
「そうだね、君が見た通り俺は人間じゃない」
そんなこと知ってる、知ってるけど本人から直接言われることが、こんなに恐ろしいことかと静也はニルスを見れないでいた。ニルスはそれを知ってか知らずか話を続ける。
「俺が殺した人間、あれは元恋人、俺が人間じゃないって知った瞬間逃げたんだ……酷いよね」
「だから……殺したのか?」
静也はあの時の光景を思い出して冷や汗をかく。もしあの時自分も走って逃げたり、叫んでいれば本当に殺されたんだろうと思い返す。
ニルスの表情がふざけた笑みから何かを含んだ笑みに変化していた。
静也は色々気になったが、真っ先に気になった“殺した理由”について言及したくなった。これに関しては人間でも同じだ、裏切られた人を殺してしまう人は数少ないがいないことはない。
「そう、裏切られたからね。秘密の一つや二つ教えてくれと言ったのは向こうだったんだけどね……ああ、それから俺が人間じゃないってとこを知っている人間がコントロールできないんじゃ、生かしてはおけないのも確かだけど」
それは俺に向けて言ってるのもあるよなと、静也は静かにニルスの話を聞く。テレビを観ているようで全く観ていない静也はドラマが終わりかけになっているのも気付いていない。
「それから、俺はある一定人間の細胞情報を摂っていないと人間の形を保てない。それの糧になってもらった、仕方ないよね、俺と一生一緒にいるって約束したのは向こうなんだから」
淡々と事実のように話すニルス、その表情は相変わらず笑っていて場の空気には不釣り合いである。この事実を真っ当に受け入れて聞いてる自分も静也は段々怖くなってくる。
裏切られたから、逃げられたから、自分から一緒にいるって言い出したから殺した。これが静也には他人事に思えなくなってきたのだ。それは自分に向けられてる、と言うより自分が殺す側に周りそうな要素を含んでいることに。
「……ああ、安心して。人1人取り込めば暫く俺は何もしなくても生きていける。君が俺を警察に突き出そうとか、研究機関へ送ろうとか、他人に言いふらしたりしなければよっぽど手を掛けることはないから」
「そうか」
缶の中の酒はとうになくなっていた。だが、手持ち無沙汰な状況で、乾くのどに飲み物を流すふりをする。
「これを聞いて、君は俺をどうしたい?」
ニルスが静也の視界に無理やり入ってくる。静也は驚いてソファの背にグッと自分の背中を押しつける。
別にどうもしたいなんて思わない、これが静也の本音である。むしろ何をどうすればいいとすら感じている。そもそも普通だったらこう言う場合どうするんだ?と頭をフル回転させる。
「お、俺は別に……何も、俺には関係ない」
「そいつの家族でもなければ知り合いでもない」
「あ、あんただって別に、たまたま先週会っただけで俺には関係ない」
関係ない。これはニルスに向かって言ったのか、関係ないことにしたくて言ったのかよくわかってない。自分でもこれらを聞いて何を思ったのかよくわかっていない。怖いと思った、恐ろしいと思った、けれどそこから何がしたいとか何かしなきゃいけないと言うのが出てこない。
これが普通なのか、異常なのか、静也には指標がない。
「そっか、確かにそうだね……君には関係ない話だね。でもね、聞いたからには関係ないことはない……」
この男が何を考えているかなど、静也は知りはしない。どうにかして欲しいのか、して欲しくないのか分からない。
生存本能が警告しているのは分かっている、無駄なことをしたら殺される。それ以外分からない。
「殺されたくないって命乞いをするほど死にたい訳じゃない、あんたを警察に言うほど正義感がある訳じゃない、言いふらしたってどうせ誰も信じないだろうから言いふらす必要もない」
「俺は別に今の生活が送れるならどうでもいい」
どれも静也の本音、嘘はない。ニルスはそれを聞くと「君、やっぱり好きだなぁ」と目を細める。そして静也の視界から退くと隣に座り直す。
「ここまで脅して正気なやつ、あんまりいないと思うよ。普通なら多分今すぐ追い出して二度とくるなって言うだろね」
ニルスがこぼした独り言のような呟き、静也は返事をせず耳に入れる。
「今日も泊めてくれるよね?」
「……好きにすれば」
静也は当たり前のように聞いてくるニルスに返答も面倒で吐き捨てる。
ーー
雨脚は強く、夜中ずっと降っていたらしい。
朝の天気予報番組が昨夜の情報を発信していた。
「まだ、降ってるな」
窓の外を見る静也はため息を一つ溢した。
雨はまだ止んでおらず、雨音は小さいものの空からしとしと降ってくる。
振り返れば昨日の散らかった机、はなく片付いた部屋が静かに朝を迎えていた。
ゴミはゴミ箱に入っていて、洗い物は水切りネットでひっくり返して置いてある。雨で濡れたジャケットはハンガーにかかっていて、昨日雨を拭いたタオルと着替えた服が2回の洗濯干しにかかっている。
誰が片付けてくれたのか、考えなくても静也にはわかる。自分がやってないのだから、昨日いたニルスの仕業。しかし、片付けた張本人の姿はない。
「いない……」
もぬけの殻の客室の布団はしっかり畳まれていて、着替えに渡した寝巻きは着ていないのかそのままだった。
泊めてくれって言ったやつは誰だったか、静也が寝ている間にニルスは出ていったようだ。
仕事がないからいいよって言ってたけど、実際あったのか?それとも別用か、静也に知る余地はないが、実際いないと言う事実だけは目の前にある。
(まあ、俺には関係ないか)
ニルスがいないところで静也には何ら変わりはない、これで問題ない。
静也は片付いた部屋を再度見た後、またキッチンのカウンターに置いてある皿の前に立つ。
焼いたパンに目玉焼きが載っている。
その皿の下には小さい書き置きが一枚『じゃあ、またね』と書かれていた。
特徴のある走り書き、ちょっと端が水に濡れたのかクシャッとしている。
静也は見つけたそのパンを口に運ぶ。美味しくも不味くもない。
「今日は……特に何もなかったよな」
静也がスマホの画面を起動させる。その画面には特に通知もなく、時間と日付だけが書かれていた。今日は講義がなく、静也には予定がない。友人が少ない上に平日、バイトもしてないので特に予定を詰める理由がない。研究室へ行ってもいいが、電車に乗らなければいけないのが憂鬱である。
雨も降ってるし、今日は出かけなくていいだろうと静也はソファに座ってテレビをぼーっと眺めることにした。
平日の昼間のテレビの退屈さに嫌気がさした頃、静也のスマホが通知音を鳴らす。
何だろうと覗くとそこには『今週実家に帰るから会えない』と言う一文、宛先はー静也の彼女、美咲からだった。静也は『わかった』と軽快なスタンプを送る。すぐに既読がついて、大学前で可愛く自撮りをする美咲と、その友人と思われる女の子が映る写真が送られてきた。
「最近、この子とよくいるな」
静かな部屋に静也の独り言が響く。楽しそうな写真に頬がやや緩む。
静也には一個下の彼女がいる。静也と同じ学部の後輩、ゼミの仲間に紹介されて付き合うことになった。
付き合い始めはよく一緒に大学に行ったり、遊んだりしていたが、最近彼女の方が忙しかったり、静也の方が時間を合わせれなかったりとあまり会っていない。
そのため彼女はこうして度々自撮りを送ってくる。静也に浮気じゃないよって言うためらしい。
最初のことを考えると寂しいような、悲しいような、無理くり時間を作って会うのはお互いしんどくなってくるだろうと言うのは分かってるので、静也は何も言わないようにしている。
静也はスマホの画面を消すと、机にそれを伏せる。一つ伸びをし、立ち上がる。
スマホを開いたことで昼が過ぎていたのを知ったのだ。流石に何か食べるか、と冷蔵庫を覗く。
「何もないな」
そこは相変わらずものが少ない。水と昨日飲み損ねたもう一本の酒缶、残ってる卵が2個と調味料。
外の天気は小雨、静也はため息をつくと財布をカバンから取り出し、スマホをポケットに突っ込む。
傘を持とうと傘立てに手を伸ばすとそこには見知らぬ、いや一回は見たことのある紺色の傘が置いてあった。
(忘れてる……)
それは昨日ニルスがさしていた紺色の傘。雫が落ちて下に小さな水たまりができていた。
静也は一瞬動きを止めたが、すぐに自分の傘を手に持つと外へ出ていった。
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