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第5話

 あれから、ぼくは麻野のうちのリビングで、麻野と、お兄さんと一緒に、麻野が作った親子丼を食べた。たまねぎと鶏肉のきり方が思いの外乱雑ではあるが、ぼく好みの薄味でおいしい。カツオのだしがよくでている。  もそもそとそれを食しながら、ぼくは麻野とお兄さんの会話をBGMに、まったく別のことを考えていた。  麻野と付き合いはじめて、はじめて最後までしなかったからだ。そこに不満があるわけではない。麻野はぼくの体調を考慮し、自分を押し付けてこなかった。それは優しさなのか、ぼくに厭きつつあるのか、わからなかった。  とはいえ、麻野の態度はあまり変わらない。いつもどおり乱暴なくせにどこか優しい。けれど拭えない違和感が、妙に自分の心を波立たせていた。 「佐和の友達?」  突然、お兄さんが声を掛けてきた。よく聞き取れなかったため、ぼくは慌てて聞き返した。 「君だよ。友達?」  お兄さんはテーブルに伏せたまま、顔だけをこちらに向けている。庭で会ったときにおなじ会話をしなかったか? 「そう、です」  少しの間を置いて答える。お兄さんは「ふうん」とだけ言った。 「所謂セックスフレンドかと思った」  意表を突かれて、ぼくは麻野に助けを求めようとした。けれど麻野は食器を洗いに行ったらしい。キッチンから水音が聞こえてきた。リビングに残されているのは、ぼくとお兄さんだけだ。 「と、友達です。ただの」  ただのを強調する。するとお兄さんは吹き出して、静かに肩を震わせた。 「え、あ、あの‥‥」 「佐和の香水のにおいがする」 「あ、さ、さっきまで、部屋にいたから」 「初めて見る顔だね。佐和が友達を連れてくるなんて、思わなかった」  他意のなさそうな笑顔だが、その言葉は実に辛辣だ。ぼくと麻野の関係を探っているのか、天然なのかがわからない。ぼくが「庭で会いましたよね」と言うと、お兄さんは少し考えたあと、首を傾げた。「さあ、覚えていない」 * * * * * 「麻野、お兄さんは大丈夫なのか?」  ベッドの上で、ぼくの胸に顔を埋める麻野の髪を撫でながら問う。すると麻野は顔を上げて、「なにが?」と訊ねてきた。 「ぼく、庭で会ったよな? 夕食のときが初めてじゃないよな?」  麻野は面倒くさそうな顔をして、ぼくの横に転がった。 「健忘症?」 「人の兄貴を病気にすんな。違う。ただの天然だ。そしてあれは天然なりの推理だ」 「推理?」 「集、俺とおまえは友達か?」 「え?」 「答えろ、友達か?」  そう言われて、ぼくはどう答えるべきなのか、迷った。確かにはじめは友達だった。けれどいつの間にかセックスするような仲になり、付き合い始めた。いまは友達ではないかもしれない。とするとセックスフレンドか? いや、そこには一定の愛情があるから、そうではないのかもしれない。そこまで考えて、ぼくは首を横に振った。 「こ、恋人だと、思いたい」  搾り出すように言うと、麻野はぼくの横でくっくっと笑って、ぼくの頭を撫でた。 「そうだ。雪弥はそれを訊ねただけだ。天然なりに気になったんだろ、俺がいままでここに誰かを連れてくるなんてなかったからな」 「ぼくが、初めてなのか?」  そう訊ねると、麻野はふんと鼻で笑ったが、それ以上答えなかった。 「答えろ」  麻野に馬乗りになって、ぼく。麻野はぼくの下でにやにや笑っているだけで、なにも言わない。 「麻野」  焦らしているのがわかる。ぼくは麻野の腹の上から動かず、麻野の胸をドンと叩いた。麻野はぼくの顔をじっと見たあと、吹き出した。 「なっ、し、失礼だぞ! ぼくはまじめに聞いているんだ!」  麻野はあははと声を上げて笑う。なんだかその反応に腹が立ってきて、ぼくはもう一度麻野の胸を叩いた。 「もういい、帰る」 「おい、怒るなよ」 「いいや、怒った。麻野は馬鹿だ。人の気持ちも知らずに茶化してばかりいる」  言いながら厚手のカーディガンに袖を通す。ベッドサイドに置いていた、丸みを帯びた黒いトートバッグを手にして、そのまま部屋を後にしてやるつもりだった。それを阻止したのは麻野だった。ぼくを背中から抱きこんでいる。首筋にキスを落とし、体に回した腕を放そうとしない。  麻野はなにも言わずにぼくの体を後ろから抱き込んでいるだけだ。 「麻野?」  不安になり、麻野を呼ぶ。すると麻野はどこか諦めたような溜息を吐いた。 「わかった、認める」 「え?」 「俺は友達が割と多いし、集と違って社交的だ。だけどいままでここには誰も連れてきたことがない。雪弥を見せたくないからだ」 「じゃあ、どうしてぼくを?」  妙な期待が胸を叩く。言うつもりのない言葉が口から出て行ってしまった。麻野の表情は見えないが、笑っているのがわかった。 「集は世俗に興味を持たないから」 「……悪かったな、どうせ城オタクだ」 「いい意味で、だ。雪弥は昔、いろんな意味で世間を騒がせたんだよ。だからここに越して来ざるを得なかった」  ぼくは自分が懐いていた妙な違和感の正体に気付いた。ぼくは以前、お兄さんを見たことがあるような気がしていた。それはおそらく、あのニュースでのことだ。あの頃、連日その報道をしていて、嫌な思いをしたことがいくつかあった。特に、この国の法律は加害者を守り被害者を好機の目に晒すことに関しては、弁護団体とマスコミ各社に抗議の電話を入れてやったくらいだ。 「いまは、落ち着いているのか?」 「……まあ、な。でも時々思い出して、手が付けられなくなる。だから俺の母親が雪弥を引き取ることを決めたんだ。父は渋ったけれど、俺が論破した。自分がよそで遊んで作ってきた子供なんだ、責任取らせるのは当然だろ」 「そうだな」  たしかにそうだ。あの事件は悲惨極まりなかった。ぼくはその話を聞いて生まれた新たな疑問を飲み込んで、麻野に「もう帰らないから離してくれ」と告げた。  麻野はぼくを解放したあと、ベッドではなくソファに腰を下ろした。そしてぼくを見て、言った。 「予想通りだ」 「なにが?」 「おまえの反応。普通はもっと詮索してくるだろう。なにをされたのかとか、自分から誘ったんじゃないのかとか、痛くなかったのかとか」 「聞いてどうする? 実際被害にあったのは麻野じゃなくてお兄さんだ。ぼくは人の傷に塩を塗るような真似はしない。それに」 「それに?」 「当時の担任にキレたことがある。『気持ちを考えろ』なんて馬鹿の極みだ。そんなものはただの想像でしかない。わかりっこない」  そうだ、わかるはずがない。あの事件をきっかけに懐いた気持ちは人それぞれで、おなじわけではないのだ。  ぼくはずれたメガネの位置を中指で戻して、麻野のベッドに腰を下ろした。 「世の中、偽善者の集まりだよ。どうせみんな本気で誰かのことを考えていやしない。ティッシュペーパーよりも薄っぺらい、希薄な関係さ。だから俺もそれに乗じることにした」 「つまり、部屋に呼ぶほど深い関係を築きたいと思ったのは、ぼくだけ……と言いたいのか?」  麻野は満足げに笑って、足を組んだ。 「俺は意外に複雑なんだよ。セックスみたいに出して終わりなんて、そんな単純なものじゃない」 「でも麻野はモテるから、大体そういう対象として見られている」 「だから、遊んでやるまで。集は違うよ。遊びじゃない」 「……大体わかった。そんなぼくの唯一の友達が、麻野と遊びたがっているが」  「どうする?」と訊ねると、麻野はふうっと深い息を吐いて、前髪を掻きあげた。 「仰せのとおりに」  ぼくはホッとしたのと同時に、自分の口元が緩むのに気付いた。  麻野は派手な遊び人のイメージが強いけれど、その心の奥を誰も知らない。もちろん、ぼくだってすべてを知っているわけじゃない。けれど知り合った頃よりも、付き合い始めた頃よりも、麻野がぼくに心を開いているとわかる。ぼくはその気持ちに触れるのがなにより怖かった。あとで裏切られるのが、周りにそれ見たことかと笑われるのが怖かった。だから敢えて自分を出さないように、一定の距離を保つことをよしとしてきたが、麻野の気持ちに寄り添いたいと思い始めていた。

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