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第6話

 麻野は最近、舞台の稽古が忙しいと言って、大学に来ていない。もう二週間近く麻野の顔を見ていない。ぼくは大学の学食でカフェオレを飲みながら、なにも言わない携帯を睨んだ。  こんなに連絡をよこさないことは初めてだった。ぼくがメールをしても返事がない。家まで行ってみようかとも思ったが図々しいと自分を叱咤し、やめた。  つまらない。漸く和らぎ始めた表情筋がまた硬くなるような気がする。ぼくは自分の口角を指で上げたり下げたりしたあと、溜息を吐いた。  成瀬はまだ講義中だ。話す相手がいない。いままでは一人でいることも平気だったが、麻野と知り合ってからは常に麻野が周りにいた。妙に静かな空間に対して、なんともいえない感覚を懐く自分がいる。  つまらない。さびしい。麻野に会いたい。そんな言葉が頭を埋め尽くす。  自分の弱さを痛感させられたような気がする。ぼくは募り始めた気持ちを押し戻すように、マグカップの中に半分以上残っていたカフェオレを一気に喉の奥へと流し込んだ。 * * * * *  アパートに戻ったぼくは、セーターと靴下をランドリーに投げ込んだあと、ベッドに突っ伏していた。  麻野と顔を合わせばセックスしていたこともあり、なんだか下腹部が重い。とはいえ麻野に会うまでは、自分でするのは面倒だからと、限界まで放置していた。麻野がいつもしてくれていたような愛撫を思い出すと腰がうずく。これが正常反応なのだろうと自嘲した。  麻野は自分の舞台のことを話してくれたことがない。それはぼくがそういうものに興味を持たないことを知っているからなのだろう。ぼくと麻野は交じり合っているようで、ある境界線が存在している。干渉しない部分が幾つかあった。  麻野が女の子を抱いているのもそうだし、普段は成瀬といると嫉妬するくせに、ぼくが美術館に行くときだけは、成瀬の同行が許される。麻野はぼくが好きなロシア芸術に興味がない。そしてぼくも、麻野がやっているとはいえ演劇に興味がない。だからこれは自然だと思っていた。今日までは。  だが不自然だ。ぼくと麻野が本当に恋人同士なら、興味のないことに興味を懐こうとする、歩み寄ろうとするのがごく自然ではないのか。そう考えて、ぼくはガシガシと頭を掻いた。  いや、どうかしている。麻野に会えない不満が、有り得ない極論を展開しているだけだ。興味を持ってどうなる? 別れたら終わりだ。興味を持ち、歩み寄り、知ろうとした時間が無駄になるだけだ。そんなことを考えていたぼくの耳に、携帯の電子音が飛び込んできた。  麻野?  急いで携帯を開き、メールを確認する。それは携帯のフリーメールだった。 「くそっ、解約してやる!」  なんだか急激にイラついてきて、ぼくは携帯を投げた。ゴトンと重い音がする。まるでぼくの胸中を現しているかのような音だ。ぼくは何度もくそっとあてつけのように呟いて、頭まで布団を被った。  どのぐらい経っただろうか。ぼくは携帯が鳴っているのに気付いて、目を覚ました。  部屋の中は真っ暗だ。イルミネーションを頼りに、床に投げた携帯を拾いに行く。ディスプレイを確認すると、麻野の名前が表示されていた。 「麻野!」  慌てて電話に出ると、麻野が笑う声が聞こえた。ああ、麻野の声だ。まったりとしたそれが耳に絡んで、全身の力が抜けていく。ぼくは床に座り込んだまま、麻野を呼んだ。 『悪い、忙しくてメールが返せなかった』 「順調か?」 『ああ、おかげさまで。急な出演だったからな。明日で公演が終わるから、打ち上げが終わったら帰るよ』  「そうしたら」、と麻野が間を置いた。『大事な話をしたい』  ぼくはわかったと呟いた。大事な話? 別れ話か? 嫌な言葉しか頭に浮かばない。ぼくは自分の性格の悪さに辟易し、自分の腿を殴った。 『やっぱ、おまえの声を聞くとホッとする』  麻野の声が少し疲れているように聞こえた。舞台がハードなのだろう。二週間もいないなんてことはないと、成瀬も言っていた。 「体調は大丈夫か?」 『喉が痛い』 「喉?」 『いままで、巡業公演に参加したことはあまりなかったからな。学校もあるし。代役とはいえ主役だぞ、しゃべりっぱなしだ』 「すごいな。麻野の舞台、見てみたい」 『え?』  麻野の声色が急に変わった。 「麻野がどんな風に演技をするのか、この声でどんな言葉を紡ぐのか、見てみたい」  おまえに会いたいんだ、麻野。その言葉を飲み込んで、ぼくは続けた。 「責任を取れ」 『責任?』 「ぼくを、こんなふうにした責任だ。有り得ない。こんなことは有り得ないんだ」  ぼくの頬を涙が伝いおちる。麻野に対する思いが、切なさがとまらない。拭っても消えないそれをそのままに、ぼくは鼻を啜った。  電話越しに、麻野が笑う声がする。ぼくが「笑うな」と一蹴すると、「怒るな」と返ってきた。その声はとても穏やかで、麻野が微笑んでいるときのものだ。 『好きだ、集』 「……足りない」 『愛してる』 「もっとだ」  自分の声が切羽詰ったものに変わる。麻野が足りない。苦しい。 『帰ったら、めちゃくちゃ乱れさせてやるよ』  麻野の甘い声が鼓膜に響き、脳を刺激する。ぼくはごくりとつばを飲み込んで、「馬鹿か」と詰った。 「好きだ、愛している以外の語彙はないのか?」  麻野が笑う。 『俺を満たせ』 「……ああ」 『もっと俺を求めろ』 「求めている」 『好きだと言え』 「……はっ?」  思いがけないセリフに、ぼくは思わず聞き返した。 「な、何度も言っている」 『いいから。好きだと言え』 「……好きだ、麻野」 『いいね、その声。興奮する』 「……おい、麻野。おまえ、なにして」  電話越しに聞こえた、有り得ない音に、ぼくは動揺して尋ねた。麻野の荒い息遣いが耳に届く。ぼくは自分の顔が一気に赤くなるのを感じた。 「ばっ、馬鹿じゃないのか!? 有り得ない、最低だ!」 『っくそ、溜まってんだよ。二週間だぞ、二週間。二週間もおまえに触れてない』 「だからって電話しながらンなことするか!?」 『ああ、いいね』 「……っ! 馬鹿、その声、やめっ」  麻野の吐息交じりの声のせいで、さっきから腰が疼いてやまない。ぼくの罵倒など聴く耳持たず、麻野の自己行為が激しくなるのが音でわかる。ぼくは思わず口元を塞ぎ、視線を逸らした。目の前にいるわけではないのに、妙にリアルに伝わってくる音が、ぼくの中に眠るなにかを刺激する。ぼくは何度もつばを飲み込んだ。 『はあっ、集っ』  麻野の鼻にかかった声が聞こえた。小さなうめき声がする。ぼくはまたつばを飲み込んで、自分の身に起きた変化に、愕然とした。 『あは、すっげー出た。やっぱおまえ、最高だわ』 「……っ」  麻野の声が耳に纏わりつく。ぼくは終話ボタンを押して、また携帯を床に投げた。  最悪だ。麻野の声に反応した。ぼくはカーゴパンツを脱ぎ捨て、蹲った。  股間が熱い。鼓膜に残る麻野の声は、麻薬だ。ぼくは震える手で下着ごしに自身に触れた。いままでこんなことはなかった。どんなに好みの男優が出ているビデオを見ても、こんなふうになったことはなかった。ぼくはガチガチに固くなっている自身と掴み、麻野の声を反芻した。  その日ぼくは、初めて麻野を思い出して、抜いた。

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