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第7話
麻野が巡業公演を終えて帰ってきたあの日、ぼくは麻野に朝まで抱かれた。息が整わないぼくを放そうとせず、まるで二週間の穴を埋めるかのように、激しい行為が続いた。
あれから、一週間が経っている。ぼくはまだ、麻野が言っていた『大事な話』を聞いていない。本人がいう素振りを見せないから、ぼくも黙っていた。けれど煮え切らない麻野の態度に次第に焦れてきたぼくは、麻野の部屋に押しかけていた。
「おまえは人を欺くことに関しては、天才だな」
「なんだよ、いきなり」
麻野が眉をひそめる。ぼくにココアを勧めて、自分はコーヒーを啜る。エスプレッソのよい香りが漂うなか、ぼくは麻野を睨んだ。
「大事な話ってなんだ?」
麻野の眉間に皺が寄る。コーヒーを飲み下し、ふうっと一息ついてから、ベッドに凭れ掛かった。
「大事じゃなくなった」
「……はっ?」
「もういいんだ、忘れろ。それより、一昨日倒れたってのは本当か?」
「くそっ、成瀬め」
「答えろ、集」
麻野の目は真剣そのものだった。ぼくは麻野から視線を逸らしたまま、ココアを啜る。成瀬が麻野にリークするとは思わなかった。これはぼくに対する重大な裏切りだ。次に顔を見たら絶対に詰ってやる。
ココアを嚥下し、麻野を睨む。麻野はじっとぼくの言葉を待っている。
「ただの貧血だ、問題ない」
「食えよ、ばか」
「仕方ないだろう、ぼくはお前と違って貧乏学生なんだ。誰かさんがぼくの貴重な資金調達の方法を奪ったからな。家賃と光熱費、携帯代を除いて切り詰められるのは食費だけだ」
そう言ってのけたら、麻野がぼくの頭を叩いた。じろりと麻野を睨む。麻野は深く溜息を吐いて、腕を組んだ。
「底なしの馬鹿だな、おまえは」
「じゃあバイトを解禁させてくれ。成瀬は別として、結構貴重な資源だったんだ」
「それはダメだ」
「分からず屋」
「それはおまえも同じだろうが。俺は集がほかの男に奉仕するのが許せない」
「そこに気持ちがなければ、そんなものはただの性欲処理だ」
「それでも、俺は嫌だ」
ああ、こうなったらもう譲らないな。麻野の目を見て、ぼくは確信した。
「わかった、しない」
「それでいい」
麻野がぼくの頭をぽんぽんと叩く。きちんとしたバイトを始める。諦めたようにぼくが言うと、麻野はそうしてくれと言って、薄く笑った。
「佐和、お客さん」
麻野の部屋のドアをノックする音が聞こえて、お兄さんが顔をのぞかせた。また麻野のカーディガンを着ている。麻野はぼくにちょっと待ってろと言って、立ち上がった。
「誰?」
「知らない。スーツ着たおじさん。名刺もらった」
「もらうな、馬鹿」
麻野はお兄さんに軽く拳骨を落とし、名刺を引き取って部屋を後にした。
お兄さんと目が合った。ぼくが軽く頭を下げると、お兄さんはふらふらと部屋の中に入ってきた。下はなにも穿いていない。色白だといわれるぼくでも驚くほど白い、細い足がのぞいている。
お兄さんはぼくの前に腰を降ろすと、ずいっとぼくのほうに顔を寄せた。
「バイト、探してるの?」
「え?」
「話が聞こえたから。探してる?」
「あ、はい」
お兄さんの言葉に頷くと、お兄さんは嬉しそうに笑って、ぽんと手を叩いた。
「取り引きしようか」
「取り引き?」
「おれの相手をして」
「お兄さんの、相手?」
「暇なんだ。おれは家から出ないし、働いてもいない。ここのところだるくてね。体のためには部屋を掃除しないといけないけど、動くと息が上がるから、できない。佐和に頼んだら、殴られた」
ぼくは思わず苦笑した。麻野はお兄さんに対しても変わらない態度をとるようだ。
お兄さんはぼくのまえに両手を突いて、また顔を近づけてきた。
「どうする?」
少し視線をずらしたら、お兄さんの胸元が見えた。どうやらカーディガンの下にもなにも来ていないらしい。綺麗な胸が見えて、顔が赤くなるのを感じた。
「程度に、よります」
「来て」
お兄さんがぼくの手を掴んで、立ち上がる。ぼくはお兄さんに促されるままに麻野の部屋を出て、階段を挟んだ向かいの部屋に案内された。
お兄さんが部屋を開けたとき、ぼくは目の前の光景に開いた口がふさがらなかった。見事な汚部屋だ。いや、汚部屋なんてまだかわいい。ここはカオスだ。床が見えず、いくつもの層ができている。なんでお兄さんが麻野のカーディガンを着ていたのか、その理由をぼくは誤解していた。
「佐和は潔癖だから、おれがドアを開けると怒るんだ」
そりゃそうだろう。麻野の部屋は男の部屋とは思えないほど片付いているし、綺麗だ。第一、ぼくがバイトに行っていた男たちの部屋とは違い、男くさいにおいがしない。ぼくは溜息を吐いたあと、ぐいっとカーディガンの袖をめくった。
「ゴミ袋、どこですか?」
「交渉成立だね」
お兄さんが嬉しそうに笑う。
「前金に5万円あげる」
「……5万!?」
「そうだなあ。成功報酬は20万でどう?」
お兄さんはもしかして、金銭感覚がおかしいんじゃないだろうか。掃除なんてハウスキーパーに頼んでも2,3万で済むはずだ。
「そんな」
「じゃあ30万」
「ちょっ、お兄さん、それは多すぎ」
ぼくが抗議したとき、いつの間にか戻ってきていた麻野が、またお兄さんの頭に拳骨を落とした。
「雪弥、集になにやらせてるんだ!」
「取り引きだよ」
「はあっ? またろくでもない言葉を覚えてきやがって」
麻野が大きな溜息をつく。ぼくは麻野とお兄さんとを交互に見て、メガネの位置を直した。
「さすがに30万はもらえません。でも、やらせてください」
「集!」
「別にいいだろ。お兄さんだって困ってるんだ」
「じゃあ間を取って15万だね」
「えっ!? そ、それも多すぎる気が‥‥」
「ぼくの相手は、掃除だけじゃないから」
お兄さんが屈託のない笑顔を浮かべて言う。麻野はどこか諦めたような溜息を吐いて、頭をガシガシと掻いた。
「集、その部屋に入ったあとはシャワー浴びて来い」
「‥‥おまえひどいヤツだな。大体こんなカオスになる前に、おまえが手伝ってやれば済んだことなんじゃないのか?」
「ぜっっっっったいに嫌だ!」
麻野はそこまでするかと思うほど子供じみた否定をして、部屋に帰って行った。確かに麻野は潔癖だが、腹違いとはいえ実の兄の部屋をここまで汚いものと見ているなんて、普通じゃない。ぼくはお兄さんが持ってきたゴミ袋を受け取って、カオス部屋に戦いを挑んだ。
* * * * *
お兄さんの部屋の掃除は、夜になっても終わらなかった。埃が舞って視界が悪くなるわ、異臭がするわ、窓周辺もなにかが積まれていて開かないから光が入らず、常に暗闇だわ、途中から気分が悪くなるほどのカオスぶりだ。
そうこうしている間にいつのまにか麻野のお母さんが帰ってきていて、ぼくと遭遇した瞬間、ものすごく喜ばれてしまい、夕飯をご馳走になることになった。
さきにシャワーを浴びさせてもらい、麻野に借りたブカブカのシャツを着てリビングに下りると、お母さんが嬉しそうに話しているのが見えた。
「雪弥くんと佐和くんの友達なんて、初めてだわ。お母さん、張り切っちゃった」
「正確には俺の友達。雪弥が利用してバイトさせることにしたんだよ」
「利用じゃないよ、取り引きだよ」
「人にばっか頼ってないで自分でやれ、どら息子」
「そういう言い方やめろよ、麻野」
なんだかムッとして麻野を諌めると、麻野は不満そうに眉をひそめて、お兄さんに視線をやった。
「部屋が綺麗になったら引っ越せよ、雪弥」
「うん、そのつもり。だから集くんに頼んだんだ」
「……どういう風の吹き回しだよ。いままで何度言っても俺の部屋のクローゼットを住処にしていたくせに」
麻野が言ったら、お兄さんは得意満面の笑みを浮かべた。そしてお母さんがキッチンに入ったのを見届けて、ぼくと麻野に近づいてきた。
「エッチしてた」
ぼくは血の気が引いていくのを感じた。
「だから」
端的に答えるお兄さん。特に他意がないようだったが、麻野は不満そうにお兄さんを睨んで、頭をガシガシと掻いた。
「邪魔するなよ、雪弥」
「うん、しない。だから部屋を出てあげる」
「……って、え? もしかして、あのとき、お兄さん」
まさかと思って尋ねると、お兄さんはぼくの想像どおりに頷いた。
「クローゼットにいたよ」
ぼくは顔から火が出るほど恥ずかしくて、卒倒しそうだった。その様子を見て、麻野がクックッと笑う。最初から全部確信犯だったのか。麻野がなぜ最後までしなかったのかに気付いて、あれは麻野なりの優しさなのだと錯覚した自分を恨んだ。
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