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第8話
お母さんが作ってくれた夕飯はとてもおいしかった。食べきれない分は持って帰りなさいとタッパーに詰めてくれた。麻野のお母さんはとても美人で、ぼくの母親より若い。色白で、髪が長くて、華奢な人だ。目鼻立ちがはっきりしていて、麻野が母親似なのだと伺わせた。
夕飯を食べてからも、ぼくはお兄さんの部屋の掃除に没頭した。別に早くクローゼットから出て行って欲しいわけじゃない。このカオスを片付けてしまえば、なにか別のものがみえてくるような、そんな気がしたからだ。
「気持ちよかった?」
不意に、お兄さんが話しかけてきた。気配を感じなかったから、ぼくは驚いて振り返った。お兄さんはお風呂あがりのようで、上気した肌が扇情的だった。濡れた髪をタオルで拭きながら、お兄さんがもう一度言った。
「気持ちよかった?」
「なにが、ですか?」
「エッチ。してたでしょ、佐和と」
君はとても色っぽかったとお兄さんが言う。ぼくはなんだか恥ずかしくなって、紙くずの塊をゴミ袋に突っ込んだ。
「なんで、そんなことを聞くんですか?」
がさがさと音を立ててごみを拾い集めながら、お兄さんに問う。
「うらやましいんだ」
お兄さんが少し考えて、言った。
「うらやましい?」
「おれはぜんぜん気持ちよくなかった。痛いし、怖いし、最低の行為だと思う」
「だってぼくと状況が違うじゃないですか」
「状況?」
きょとんとした表情でお兄さんが尋ねてくる。ぼくははっきり言おうか悩んだが、きっとお兄さんの前で言葉を濁しても通用しないと思い、口を開いた。
「ぼくは麻野が好きです。だから、痛くても我慢できる。ぜんぜん痛くないわけじゃないです。でも、麻野としたい。
お兄さんの場合は、虐待、ですよね。ぼくも、似たようなことをされたからわかる。あのときはただ、苦しいだけだった」
そう答えたら、お兄さんはどこか困ったように笑って、漸く見えたベッドに腰を下ろした。
「気に入ったよ」
言って、お兄さんがぼくの腕を引いた。
「君はとても可愛い」
ぼくの頬に手を当てて、お兄さんが言う。戸惑っていたぼくの頬に、お兄さんの唇が触れた。
「ちょっ……!」
慌ててお兄さんを突き放した。弟の友達にキスするなんて、この人はどういう神経しているんだ。ぼくが頬を拭っていると、お兄さんはきょとんとして、首をかしげた。
「嫌だった?」
「い、いきなり、キスするから……」
しどろもどろになりながら弁解するぼくを見て、お兄さんが笑った。やっぱり、お兄さんと麻野はどこか似ている。人を食ったような態度はそっくりだ。
「どうした?」
ぼくの声に気付いたのか、麻野が顔を覗かせた。ぼくはなんでもないとそっけなく返して、部屋の掃除を再開した。
おっとりしていて、優しいと思ったぼくが間違っていたのかもしれない。曲がりなりにも麻野の兄弟なら、似ているところがあるに違いないと思うのが正しい。自分の失態に対する怒りをごみに向け、やや乱暴にゴミ袋に突っ込んでいると、麻野がなにかに気付いたように声をあげた。
「言うの忘れてた。雪弥はハーフだ。だからキスされても驚くな」
「えっ!?」
「挨拶代わりだよ。俺もよくされる。もう慣れたけどな」
お兄さんは動揺するぼくを見て、にこにこ笑っている。確信犯だ。絶対に確信犯だ。ぼくの思っていたことが顔に出たのか、お兄さんは笑いながら立ち上がって、肩を竦めた。
「ただのフィジカルコンタクトだよ」
妙に発音がいい。ぼくはなんだか担がれたような気になって、居た堪れなかった。
* * * * *
麻野が言うには、お兄さんはアメリカ人とのハーフで、5年前までアメリカにいたらしい。あの事件が発覚し、麻野のうちに来た。だから日本語が拙く、体も弱いし、また本人に社交性が皆無であるため、仕事ができないのだそうだ。
ぼくは麻野の部屋のソファに寝そべっているお兄さんに視線をやった。
身長はぼくよりも少し高いが、明らかにぼくよりも細い。麻野のシャツの裾から伸びた足はとても綺麗だ。それにやっぱり腰の位置が違うなと観察していると、お兄さんと目が合った。
「佐和、集くんに払うお金、おろして来てね」
「ん」
言って、麻野が手を伸ばす。
「作業料」
「ただでやってやれよ、そのくらい」
ぼくが呆れて突っ込むと、麻野はふんと鼻で笑って、お兄さんの腰を踏んだ。
「甘やかすと付け上がるんだ、こいつは」
言いながら、麻野はお兄さんから足をのけて、ベッドに置いてあった厚手の毛布を投げた。
「たぶん冷えるから、使え」
「うん、ありがとう」
お兄さんは子供みたいに笑って言って、毛布を持ってクローゼットを開けた。
「おやすみ、佐和、集くん」
「ああ」
「おやすみなさい」
どこか甘えたように笑って、クローゼットを閉める。ごそごそと動く音が聞こえ、そのうち静かになった。
クローゼットで寝るなんて、どこかの漫画のロボットみたいだなと思っていると、麻野がぼくの手を引いて、ベッドに座らせた。
「悪かったな、押し付けて」
「いや、構わない。掃除は嫌いじゃないし、お兄さんと仲良くなれた」
「それはデメリットというんだ」
「ひどいこと言うなよ。ぼくは好きだけどな、お兄さん」
麻野はなにも言わなかった。ちらりと盗み見て、思った。嫉妬だ。また嫉妬している。ぼくは勝ち誇ったような気分になった。
「まあ、メリットといえばメリットか」
麻野がにやりと笑って言った。
「雪弥が部屋に帰れば、堂々とセックスできる」
ぼくはさっきのことを思い出した。顔が赤くなるのを感じながら、麻野の腹を殴った。
「ぼくの脳細胞を返せ、復活させろ」
無駄なことを考えさせやがってと継ぐ。麻野は意地悪く笑った。
「声を抑えろって言ったのに、おまえが喘ぐのが悪いんだ」
「だ、だって、外にいるとばっかり……。大体麻野は恥ずかしくないのか? あんなところを見られるなんて、ぼくだったら死にたい」
「別に恥ずかしくなんてないね」
麻野がベッドに横たわりながら言う。
「逆に俺の誠意を感じただろう」
麻野の言葉に、ぼくは耳を疑った。
誠意を感じる? 人前でセックスすることが? なにを言っているんだと否定しようと思ったが、麻野はそれを阻むように、腰に手を回してきた。
「俺は雪弥を更生させたい」
ぼくの耳元で、麻野が囁いた。
「だから協力しろ、集」
「……で。協力をしろと言いながらぼくを組み敷こうとしているのは何故だ」
麻野の頬を抓りながら、ぼく。麻野は苦笑して、ぼくの腰から手を退けた。
まったく、油断も隙もない。ぼくは麻野の横にうつ伏せになり、頬杖を突く。
「状況を鑑みて言えよ。俺が集を部屋に誘ったということは、セックスしようっていう」
「更生計画とは、具体的にはなにをすればいいんだ?」
麻野の言葉に被せて、真顔で問う。麻野は不満そうな顔をして、溜息を吐いた。
大体クローゼットでお兄さんが眠っているというのに了解する馬鹿がどこにいるというのだろうか。そんな羞恥プレイが好きだと言った覚えはない。
「まずは、雪弥を集に馴らす。手懐けろ」
「‥‥動物か?」
「似たようなものだろう。で、あとは少しでも外に出るようになってくれればいい。仕事のことも考えたが、まだ当分先だろうからな」
「手懐けるといっても、ぼくは動物を飼育したことがないし、方法が」
「雪弥の好物はメープルシロップたっぷりのパンケーキとラムチョップ」
麻野がぼくに否定はさせないと言わんばかりにぼくの言葉を遮った。ムッとするぼくに嫌味な笑みを向けてくる。ぼくがラムかと呟いたら、そうそうと麻野が思い出したように継いだ。
「少し前は、ポテトチップスの九州しょうゆ味をむさぼり食ってたぞ。わざわざインターネットで取り寄せてな」
「なんだ、その偏食加減は」
「好きなものは映画と海外ドラマ。特に推理物やリーガル系が好みだ。邦画は意味がわからないとほとんど観ない。音楽は基本的に聞かず、聞くとしたらクラシック。ショパンとかリストとか、ピアノの旋律が好きらしい。
美術関係は絵画よりロシア、ポーランド、トルコの建築物がどうとか言っていたな。それつながりでおそらく城も好きだぞ。大河ドラマやドキュメンタリー番組で築城シーンがあったら食い入るように見ていたからな。
それから雪弥は顔に似合わず軍事マニアで、改造銃の作り方とか護身術の知識とかをインターネットで仕入れてきて、いつのまにか戦闘オプションに加えているという特技がある。優男に見えて合気道、空手、柔道の型だけならマネすることができる。ちなみにそれらの武術の技の会得率は定かではないが、おそらく刑事ドラマのスタントマン並み、いや、それ以上に切れがいい。これまでで集との共通点は?」
つらつらと麻野が述べる。さすが舞台で主役をはるだけはある。滑舌もいいし、これだけ長いセリフを一度たりとも突っかからずに言えるとはたいしたものだと感心した。
「集?」
麻野が不審そうに尋ねてきた。ぼくは自分がまったくよそ事を考えていたことを悟られないよう、咳払いで誤魔化した。
「そうだな。芸術関係や音楽は好みが合いそうな気がする。改造銃とかはまったくよくわからないけど」
「俺も雪弥の趣味はよくわからん。まあ、共通点があるなら懐柔作戦は功を奏しそうだな」
「懐柔と手懐けるのは少し違うんじゃないのか? 美術館だったら外に連れ出す口実にもなるけれど、手懐けるなら餌で釣るのが手っ取り早いと思う」
「おい、人の兄貴に向かって餌とか言うなよ」
「動物と似たような物だって言っていたくせによく言う」
ムッとしたように言ってきた麻野に言い返したときだ。ぎいっと鈍い音を立てて、何かが開く音がした。ぼくと麻野は驚いて、音がしたほうを向いた。音の主はお兄さんだった。
「うるさいんだけど」
数センチほど開けたクローゼットの隙間からお兄さんが言う。声色とオーラだけでお兄さんが不機嫌なのだとわかる。
「悪い。もう寝るから」
「眩しいから電気消して」
麻野に素っ気無く言ったあと、お兄さんがクローゼットを閉める。ぼくと麻野が顔を見合わせたとき、またクローゼットが少し開いた。
「おれが一番好きなのはチーズスフレだから」
言って、お兄さんがクローゼットのドアを閉めた。ぼくは吹き出しそうになるのを堪えたが、麻野はきょとんとした後、豪快に笑った。
「あはは、聞いてやがった。つーか、んなこと言いに起きてくんなよ、雪弥」
「ちょ、麻野。声が大きい」
ぼくが麻野を諌めると同時に、クローゼットのドアを内側から叩く音がした。麻野はくっくっと笑って、お兄さんに言われたとおり、リモコンで部屋の電気を消した。
「雪弥はチーズスフレをご所望らしいぞ」
言って、麻野がまた肩を震わせる。なにがおかしいのか、ぼくには理解ができない。
「そんなに笑う必要があるのか? ぼくは甘いものがあまり好きじゃないけど、チーズスフレはおいしいぞ」
「いや、そうじゃない。雪弥がわざわざ言いに来たことがおもしろかったんだ」
ますます意味がわからない。ぼくがふうんと返して横たわると、麻野はぼくに毛布を掛けながら、耳元で「雪弥更生計画の滑り出しは良好だ」と言って、ぼくに背中を向け、横になる。
「おやすみ、集」
「……おやすみ」
ぼくは背中に麻野の熱を感じながら目を閉じた。目は閉じたものの、眠れない。麻野はそのうちに寝息を立て始め、ぼくは体を反転させて麻野を見た。唯我独尊男が子供のような顔をして眠っている。ぼくはその寝顔を見ながら、溜息をついた。
お兄さんの更生計画に協力するのはいいが、ぼくと麻野の関係がお兄さんにバレた時点で心象は相当悪いはずだ。お兄さんは天然だと麻野は言っていたが、あれは天然ではなく天然のふりをしていて作為的な態度だというんじゃないだろうか。ぼくはお兄さんの更生計画に聊かの不安を懐いたが、かわいらしい人だというのもあり、あまり悪い気分はしなかった。
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