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第9話
お兄さんの更生計画がスタートしたこともあり、ぼくはほぼ毎日麻野のうちに通った。一週間かけてお兄さんのカオス部屋を成敗し、なんとか人が住める環境にまで整えることができた。
異臭の正体はぼくも驚いて吐きそうになったが、熱帯魚の腐乱した死体だった。
麻野はそれを知っていて部屋に入りたがらなかったようで、ぼくが片付けたことを告げると、「近寄るな」なんて全力で拒否されたのも記憶に新しい。そしてお兄さんに熱帯魚の話をすると、きょとんとして、「そんなの飼ってたっけ?」と言ったのだ。あれにはぼくも自分の立場を忘れ、思わず非難してしまったが、お兄さんはどこ吹く風で「ピラニア?」とか「アロワナ?」とか、知っている熱帯魚の名前を羅列してきた。既に骨になっているものの元がどんなものだったのか、僕に判るわけがない。「相変わらずどこか回路が繋がっていないな」と突っ込んだが、麻野は「デフォルトだ」と笑うだけだった。
お兄さんから成功報酬を受け取り、麻野のうちを後にする。多少は生活が潤うなと思うと口元がほころんだ。今日は久しぶりに肉でも食べるか。そう思って、近所のスーパーマーケットに足を運んだ。
材料を買い揃え、家路に着く。あたりはもうずいぶん暗くなっていた。
ぼくはうちに帰り、適当に調理をして、それを食した。ひとりで食べるのは味気ない。いままでずっと一人だったぼくにできた友達は新たな感覚をもたらし、ぼくを変えていく。
変わりたくないという気持ちと、最早抵抗する意味がないと思う気持ちとが綯いはぜになる。ぼくは汚れたトレイと箸を洗いながら考えていた。
麻野も、成瀬も、お兄さんも、タイプがまったく異なるというのに、なぜかミスマッチしているとは感じない。そして居心地が悪いわけでもない。それなのにどうしてぼくは、未だに孤軍奮闘しているのか。
どうせ一人で突っ張っても意味がないということは、この数ヶ月で悟った。麻野はぼくの気持ちの変化に敏感だし、成瀬は付き合いが長いこともあり隠し事をしても見破られてしまう。とすると、先のことやマイナス面を考えず、素直になって歩み寄るほうが得策だ。それはわかっている。頭ではわかっている。けれど、ぼくの心の奥にあるなにかが、それを拒絶し、適わなかった。
心の奥にある闇が、本来の自分を晒すことを拒否しているのは、お兄さんもまた同じだろう。詳しくは聞いていないが、お兄さんの部屋を片付けることになったと麻野のお母さんに告げると、麻野のお母さんは嬉しさと驚きが入り混じったような、とても複雑な顔をした。困ったような視線を麻野に向け、まるで二階にいるお兄さんの様子を伺うかのような仕草を見せていたが、麻野が「雪弥本人が決めたことだ」と、面倒くさそうにフォローしたのだ。
リビングではあんなに仲がよさそうだったのに、お兄さんの部屋のことに触れた途端、言い方は悪いかもしれないが、怯えたような顔をした気がした。過去になにかがあったといっているようなものだ。
あとで麻野に聞いたことだが、お兄さんはあの部屋でたくさんのトラウマと戦ってきたそうだ。アメリカにいたときの荷物がそのまま積まれているのと、お兄さんの実の母から届く荷物で溢れ返って、元々物置として使われていたらしい。
お兄さんがアメリカから戻ってきたのは5年前だが、浅野たちがここに越してきたのは3年前だと言っていた。新たに生まれたトラウマを払拭すべく、お兄さんが部屋の中で暴れては、麻野の部屋に逃げ込むようになったと聞いている。何度も部屋を掃除しようとしたが、そのたびにお兄さんは人が変わったかのように暴れ、発作を起こし、入院した。それは不定期に起こり、なにが原因なのかわからないから、手がつけられなくなった‥‥というのが、カオス部屋になった理由だそうだ。
ぼくが「お兄さんが入院している間に片付けてしまえばよかったのに」と突っ込んだら、「過去を穿り返されたくないから暴れるのに、火に油を注ぐようなものだ」と返された。なるほど、それも一理あるなと納得した。
なぜなら、お兄さんは自らの意思で家に閉じこもり、他者との関わりを断っていたからだ。麻野やお母さんから外に出るなと言われていたわけではない。お兄さんが5年前の事件の被害者だと周りに知られるのが怖いというなら、麻野のお母さんははじめからお兄さんを引き取ると言わなかっただろう。
お兄さんの更生計画は一歩進んだ。まず、お兄さんがぼくに慣れた。チーズスフレを買ってお兄さんに会いに行ったら、においをかぎつけて自らリビングに降りてきたし、そのあとは済し崩しに『ぼくが来る=甘くておいしいものが食べられる』という構図がお兄さんの中に出来上がってしまった。なんというパブロフぶりだと逆に感心するほど、お兄さんはあっさりぼくに懐柔された。
そんなわけで、いまはお兄さんとも仲良くなり、麻野との関係のことも割とオープンだから、気にする必要はなくなったのだ。
だからこそなのかもしれない。ぼくはお兄さんの笑顔の裏になにがあるのか、ずっと気になっていた。麻野とお兄さんの関係は普通の兄弟の関係ではない。お兄さんの心の闇の部分に気付いてはいるが踏み込まないのは、麻野なりの気遣いなのだろう。ぼくにはずけずけ言ってくるくせに、なぜお兄さんには言わないのか。ぼくにとって、それが疑問だった。
たぶん、ぼくがはじめに懐いたとおりの理由だろう。麻野がぼくに近づいたのは、お兄さんのことがあったからだ。なんの目的もなく、ぼくのような引きこもりに近づくはずがない。ぼくは洗剤の泡を水で洗い流し、ハンドソープで二回手を洗ってからベッドに突っ伏して、溜息をついた。
『雪弥があそこまで懐くのは初めてなんだ』――麻野の嬉しそうな声が、表情が、ぼくの頭にこびりついている。
あんな顔は初めて見た。お兄さんが麻野にあんな顔をさせるなんてと思う自分が嫌になる。兄弟なのだから、嬉しくて当たり前だ。そう思う反面、ぼくは自嘲した。麻野のことを嫉妬深いと言いながら、自分だって嫉妬深いじゃないか、と。
このもやもやの正体は嫉妬だ。ぼくはお兄さんに嫉妬している。とはいえ、お兄さんは僕のことなんて眼中にない。ぼくのことが好きだといいながら、お兄さんもまた、麻野を見ている。あの視線に、覚えがあった。
お兄さんは麻野のことが好きなのだと思う。あれは、ぼくが麻野を欲していたときの目だ。鏡を見て愕然としたことがあるから、よく覚えている。ぼくは麻野に物欲しげな視線を向け、それでも寄せ付けまいと辛辣な態度をとっていたのだから。
ぼくにはいま、それが一番腹立たしい。
ベッドに投げていた携帯のイルミネーションランプが、メールを受信していることをぼくに告げる。携帯を開くと、それは麻野からのメールだった。
『雪弥からの伝言。多い分は雪弥の気持ちだそうだ。受け取ってやれ』――そう書かれているのを見て、ぼくは慌ててお兄さんから貰った封筒の封を切り、中身を確認した。15万と言われていたのに、数えたらどう見ても30万も入っている。こんなにもらえないと言ったはずなのに、とも思ったが、ぼくはありがたくそれを頂戴することにした。
一瞬、これは麻野との手切れ金だなんて言われるんじゃないかと想像して、首を横に振った。お兄さんはそんなことを言うような人じゃない。どこまでマイナス思考なんだと自分を叱咤した。
* * * * *
翌日、大学の学食で、成瀬を発見した。ぼくは成瀬に無言で近づき、成瀬の肩を叩く。成瀬は驚いたように振り返ったが、肩を叩いたのがぼくだとわかると、へらりと笑った。
「やあ、有川。元気そうだね」
「成瀬、おまえはぼくの情報を麻野に売ったな」
成瀬のセリフを無視して、開口一番。成瀬はまずいという顔をしたが、悪びれたようすなどなく、ひらひらと手を振った。
「ごめんごめん、俺は自分の身の安全を確保したまでだ」
「なにが身の安全だ。ただの貧血だと言っただろ。そもそもぼくが本当にまだ患っているなら、両親が単身都内に住むことを許すと思うか?」
成瀬はあははと困ったように笑った。「まったく、それは心配性を通り越してある種の迷惑だ」と吐き捨てながら成瀬の横の席に腰を下ろすと、成瀬はぽんとぼくの肩を叩いた。
「心配なんだよ、俺は」
「もう大丈夫だと言ってるじゃないか。そもそも本当に具合が悪かったら、体力馬鹿で絶倫でおまけにド変態の麻野に付き合えるわけがないだろうが」
ぼくが言うと、成瀬は「言いすぎだろ」と突っ込んで、苦笑を漏らした。
「言っておくが、ぼくは正常だ。貧血だって原因はわかっている」
「だけど最近少し痩せたじゃん。そのカーゴパンツだって、ベルトに穴を増やして、無理やり穿いてるだろ。それに、前は好きだったツナサンドも食べないし。食が細いなんてレベルじゃないぞ」
成瀬が反論する。ぼくはうるさいと一蹴して、成瀬が飲んでいたヘーゼルナッツの香りがするコーヒーを啜った。
「ダイエット中なんだ」
「あのな、そこいらの女生徒よりも細いウエストの持ち主がなにを寝ぼけたことをぬかしてるんだ。いつみの前で言ってみろ、刺されること請け合いだ」
「食べれないものは仕方ないだろ。欲しくないながらも、これでもがんばって食べているほうなんだ。そんなに言うならぼくを焼肉屋に連れて行け」
「ああ、連れて行ってやるさ。有川がきちんと病院に行ったらな」
「病院ってなんのこと、啓」
後ろから聞き覚えのある声がした。麻野だ。
麻野はぼくの隣に腰を下ろし、持っていたマグカップをカウンターに置く。
「おお、佐和くん」
成瀬がひらひらと手を振りながら、人懐っこい笑顔を向ける。この二人はいつのまに名前で呼び合う仲にまで進展したんだと訝っていると、麻野は成瀬のあごを掴んだ。
「で、なんのこと? 初耳なんだけど」
声色でわかる。これは怒っているなと感じたが、ぼくは敢えて聞こえないふりをして、コーヒーを啜った。面倒くさいし、麻野が尋ねたのはぼくではなく、成瀬にだ。
成瀬は麻野の迫力に怖気づいたらしく、はははと空笑いをして、手を離してくれと訴えた。麻野が成瀬のあごから手を離すと、ほっとしたように、胸に手を当てた。
「佐和くん、俺はあくまでも味方だよ。君の大事な有川を影ながら守ってきたんだから」
「へえ。だったら集がなんで病院に行かなきゃいけないのかをきちんと説明できるな」
馬鹿が、墓穴を掘ったな。成瀬が視線だけで助けを求めてきたが、ぼくは成瀬のコーヒーを啜りながら、視線を逸らした。
「中学のときだったかな、骨外性骨肉腫って病気が見つかったんだ。幸い発見が早かったから、薬物治療だけで済んだみたいだけど、それが原因なのかなんなのか、最近調子が悪そうなんだよ」
「膝から太ももに掛けての傷はそのときの手術痕か?」
「組織を採取して調べるからな。でもたぶん、それは小学校のときに上級生に足を引っ掛けられた拍子に階段から落ちて、ガラスに突っ込んだときのものもあるよ。昔から生意気だったから、よく苛められていた有川を助けたものさ」
「‥‥よく言う。赤点という魔の手から何度も救ってやった恩人の過去を許可なくばらすな」
「事実じゃないか。いいか、佐和くん。有川はそんな病気に掛かったって言うのに、面倒くさがって病院に行かないんだよ。血行性転移を起こす可能性は否めないし、医学が発達して、治癒する確率が高まったって言っても、検診を受けるのは当然のことだと思わない?」
成瀬が両手を広げ、まるでパフォーマンスのように麻野に訴える。麻野は少し呆れたような顔でコーヒーを啜った。
「だいたい、その貧血だって、偏頭痛だって、最近まであまり出なかったじゃないか。妙な兆候だよ、調べるべきだ」
「だから、貧血は経費削減で食費を抑えたからで、偏頭痛は気圧のせいだって言っただろうが。どうでもいいが、大声で病気病気って喚くな。ほんとに馬鹿だな、おまえは」
ぼくが不満げに吐き捨てると、成瀬は眉を潜め、「馬鹿馬鹿いうな」と唇を尖らせた。そんな顔をしても可愛くない。余計なことを言うなと成瀬に言い放つと、麻野は呆れた顔でこちらを見た。
「病院にはきちんと行っておいたほうがいいぞ。早期発見は快癒の秘訣だ。なんなら付き合ってやろうか?」
「去年の検診ではなにもなかった。二ヶ月前の検診でもな」
カウンターに頬杖をついて、勝ち誇ったように言ってやる。成瀬は驚いたように目を見開いたあと、ちっと舌打ちをした。
「律儀に行っているならいい」
麻野がどこかほっとしたように言う。ぼくはふんと鼻で笑って、またコーヒーを口にした。
成瀬も麻野も最近ぼくに対して過保護すぎるような気がする。ぼくは自分のことは自分でするし、病気のことだって同情されるのが嫌だから言わないだけだ。無駄に詮索されたくないという節もあるが、どの道面倒なことに変わりはない。
「それより、佐和くんのお兄さん、超美人なんだって?」
麻野が弾かれたように顔を上げた後、ぼくを睨んだ。情報源はぼくではない。違うと首を横に振ると、麻野は深く溜息をついて、成瀬の頭にチョップを食らわした。
「言いふらしたら殺す」
「怖いなあ、佐和くん。気をつけたほうがいいよ、連中はお兄さんも巻き込むつもりだ」
「もちろん、有川もね」と成瀬が言う。いつもの飄々とした顔ではなく、珍しく真顔だ。
「前から気になっていたんだけど」
成瀬はぼくの方を向いて、ぼくが強奪したコーヒーカップを自分の前に戻した。
「連中ってなに? 前も成瀬は、ぼくが麻野の先輩に復讐されるって言っていたよな?」
「情報屋から聞いただけだよ。信憑性は高い。だから、気をつけろって言ってるんだ」
麻野は成瀬の言葉を黙って聞いていたが、言い終えたところで舌打ちをして、立ち上がった。
「情報屋とやらを介して、集に手ぇ出したら殺すっつっとけ」
「ちょっ、俺が情報流したわけじゃないぞ。だから俺に言われても困る」
「じゃあそいつの名前教えろ。直々にぶっ潰してやる」
「聞かないほうがいいと思うけど」
「いいから教えろ」
成瀬は麻野を上目遣いに見据えたあと、仕方ないと言わんばかりに息を吐いた。
「行島ってヤツ。知ってるだろ? 佐和くんが振った瀬尾さんの知り合い」
「あの女、ろくでもねえな」
麻野が面倒くさそうに吐き捨てる。
「そもそもおまえが綺麗に別れないからこういうことになるんだろうが」
ぼくが麻野に突っ込むと、麻野はまた面倒くさそうな顔をした。
「知るかよ、あっちが勝手に熱上げてたんだ。最初から付き合ってたつもりなんかねえよ」
ぼくと成瀬は顔を見合わせた。そういえば、瀬尾が一方的に麻野に付きまとっていたように見えなくもなかったからだ。
「じゃあ逆恨みでぼくが暴行されるのか? 冗談じゃない」
「そうならないように締めておく」
そう言って、麻野はすたすたと歩いて学食を後にした。相変わらず猪突猛進だなとぼやくと、成瀬はコーヒーを啜ったあと、ぼくに顔を近づけた。
「戸締りしっかりしとけよ、有川」
「知り合いか?」
「え?」
「やけに相手の手の内を知っているじゃないか。成瀬は麻野を嗾けただけで、じつはグルだった……なんてオチだったら、笑えない」
成瀬は言いよどみ、視線をさまよわせた。こいつはなにか知っているな。ぼくはそう踏んで、成瀬が逃げないように手首を掴んだ。
「話せ、洗い浚い。そうすりゃ水に流してやる」
「もう知ってることは話しただろ」
「最後の忠告が余計だったな。おまえが二、三度続けて言うってことは実行される可能性が極めて高いことを知っているからだ。ぼくを見くびるなよ、成瀬」
成瀬はぼくを見て苦い顔をした。経験上、ぼくが引かないとわかったのだろう。やれやれと言わんばかりに頭を掻いて、成瀬がカウンターに頬杖をついた。
「行島はまず俺にアプローチしてきたんだ。麻野に一泡吹かせるために有川のアパートを教えろって」
ぼくを見ようともせず、成瀬が話し始めた。これは真実なのだろうか? それにしては嫌に動機が薄い。サルの浅知恵だなと揶揄すると、成瀬は違いないと笑った。
「行島は佐和くんに主役の座を奪われているからな。それも二度も。復讐しようとする動機がなくはない。それに加えて瀬尾さんの件だろ。俺のところに来たときも怒り狂っていたよ」
「アパートの場所を教えたのか?」
「言うかよ。有川の身になにかあったら、それこそ佐和くんになにされるかわかったもんじゃない」
「ぼくのアパートの近くのドラッグストアで、ものすごく怪しいヤツに監視されていたんだが」
「アパートのことは言っていないけど、代わりの情報を与えたんだ」
「それは?」
「有川と佐和くんが付き合っているってこと」
「悪いね」と成瀬が継ぐ。
「なにが悪いねだ」
ぼくは溜息混じりに言って、頭を押さえた。
成瀬の言っていることが本当なら、麻野への復讐がぼくをレイプするという突飛な案になったのは、その情報を得てからということになる。そもそも麻野に対する行島の個人的怨恨が、何故ぼくにまで飛び火してくるのかが不思議でならなかった。ぼくが麻野の健全な友達だというならば、その案は浮かばなかったはずだ。
「どうしたの、有川」
成瀬が不思議そうに声をかけてくる。ぼくはしばらく無言で頭を押さえていたが、死ぬ気で切り抜けるしかないと腹をくくって、溜息をついた。
「成瀬」
低い声で言いながら立ち上がる。成瀬は少し怯んだように引きつった笑みを浮かべた。
「一発殴らせろ」
「ちょっ、さっきは水に流してくれるって‥‥」
「怒らないからと言って本当に怒らないやつがいると思うか?」
ぼくは成瀬の脇腹にストレートをお見舞いしてやった。成瀬がうめき声を上げる。それを横目に、ぼくは成瀬のコーヒーを強奪し、ぐいっと飲み干した。
「癌だな」
「え?」
「行島だ。どうせ手下がいなけりゃなにもできないようなヤツだろ。そもそもぼくが暴行されて麻野が絶望するようなだったら、ぼくはとっくにグズグズにされているね。麻野を恨んでいるヤツなんて五万といる」
「そりゃみんな佐和くんの復讐が怖いから手を出さないだけだろ。でも行島は別だ。アイツは佐和くんのアキレス腱をふたつも見つけたからな」
「アキレス腱じゃない」
成瀬が不思議そうな顔をした。
「ぼくに対してはわからないが、お兄さんのことに関しては、アキレス腱とは言わない。逆鱗というんだ」
ぼくの言葉に、成瀬は「怖いぐらい納得」と呟いて、身震いをした。
もしもお兄さんにもしなにかがあったら、麻野が激昂するどころでは済まないだろう。比喩ではなく死者が出てもおかしくない。まあ、麻野いわく軍事マニアらしいから、手を出されても軽々と撃退してしまいそうな気がしないでもない。けれどお兄さんはぼくよりも細いし、なにより美人だから、格好の的になりそうにも思う。
「面倒くさいことに巻き込みやがって」
ぼくが呟くと、成瀬はぼくに抱きついて、泣きそうな声で言った。
「叙々苑の焼肉おごるから許して。有川の好きな上カルビ、いくらでも食べていいから」
「‥‥おまえ、なんか隠しているだろう。けちのおまえがそんなことを言うはずがない」
「ちょっ、ひどいな有川。けちじゃないぞ、節約家と言ってくれ。それに隠してなんかいない。言い忘れただけだ」
「なにを?」
「俺が行島と揉めて、グループから追い出されたこと」
堂々と言ってのける成瀬。ぼくは「やっぱり元々仲間だったんじゃないか」と、成瀬にもう一発こぶしをお見舞いした。
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