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第10話
麻野が行島を締めると言っていた日から、5日が経った。本当に行島を締めたのか、締めたのではなく話し合いで解決をしたのか、ぼくの身には特になにも起こらなかった。
いつもどおり学校に行って、帰りにお兄さんの様子を見て、アパートに戻る。なにひとつ変わりがない。
変わりがあったとするなら、駅周辺のスターバックスでローストアーモンドラテを飲みながらボディメカニクスに関する本を読んでいるぼくに、瀬尾が合い席を申し込んできたことだろうか。
瀬尾はいつもどおりの派手なメイクをしており、さほど豊満でもない胸を強調するかのような服を着ている。身長がぼくとあまり代わりがないから、タイトな服装は似合っているが、麻野の好みではない。麻野に付き纏うのをやめたあと、ほかの男でも見つけたのだろう。瀬尾はバレッタで纏めていた髪を下ろし、ぼくのローストアーモンドラテに口をつけた。
「あ、おいしい」
「470円頂戴いたします」
ぼくが右手を差し出すと、瀬尾はぼくを小馬鹿にしたように笑い、身を乗り出した。
「お金持ちのお坊ちゃまのくせに、みみっちいんじゃなくて?」
瀬尾の言い方にイラッとするが、ぼくは挑発には乗らず、瀬尾の膝頭にわざと膝を当てた。
「どういうつもりだ?」
「なにが?」
「行島のことだ。なにを頼んだかは知らないが、おまえが言ったことでぼくはレイプされることになったそうだぞ。良心が痛まないか、杏子ちゃん」
人権侵害の上に性癖差別だとぼくが継ぐ。瀬尾は特に表情を変えることなく、またぼくのラテを啜った。
瀬尾とぼくは高校のときに部活が同じだったこともあり、顔馴染みだった。さほど仲がよいわけではないが、悪いわけでもない。ぼくがゲイだというのは知っている。
当時部員がぼくと瀬尾と成瀬の三人しかいなかった古美術研究会はやりたい放題で、顧問が来ない日はよく社会資料室のスクリーンでDVD鑑賞をしたものだ。ある日瀬尾が部室に持ち込んだDVDには、少年が男に色を売る所謂男色のシーンがあり、ぼくはそのシーンに一番興奮し、興味津々に見ている二人をよそに途中で退室し、トイレで抜いた。以前から周りと違うと思ってはいたが、ゲイだと自覚したのはそのときが初めてだった。
瀬尾はしばらく無言でいたが、足を組み替え、髪を耳に掛けた。
「断っておくけど、私は有川くんをレイプしろなんて、一言も言っていないからね。そんなことをしたら、本気で麻野くんから嫌われるじゃない」
「じゃあ行島を止めろ。とばっちりを食らうのはこりごりだ」
「あんたがフェロモン駄々漏れにさせているのが悪いのよ」
「……は?」
ぼくは意味がわからないと吐き捨てる。だが瀬尾は意地悪そうに笑い、腕を組んだ。
「前に私が出会い系で出会ったやつに、有川くんが私の彼氏だと勘違いされてヤラれたことがあったじゃない? あのときだって、有川くんをただ脅すつもりだったのに、なんかムラムラしてつい……なんて言っていたけど」
「おまえ、ぼくにいくら謝罪しても許されないほどの前科があるのを忘れてはいないだろうな?」
「忘れてないわよ。だからこうして謝りに来てるんじゃない。私はただ、行島に愚痴っただけで、復讐して欲しいとも、なんとも言ってない」
「それが謝っている態度か?」
瀬尾は腕と足を組み、椅子の背もたれに凭れ掛かったままで言っている。ずいぶん態度がでかい。ぼくはあのときのことを思い出して、溜息をついた。
「バスト90センチ、ウエスト65センチ、ヒップ90センチの完璧なプロポーションを持つ杏子ちゃんの身代わりにされたこともあったな」
実際、瀬尾はそこまでのプロポーションではない。スタイルがいいことはいいのだろうが、胸はあって80くらいだろう。
「だ、だから、悪かったって言ってるでしょ。それに、あの時だってあんたのフェロモンが‥‥」
「そのフェロモンってなんだ? ぼくはおまえに女装させられて、駅前で様子を伺っていただけだ。そのままホテルで友達が来るまで待ってくれっていったのに、そいつが先走ってぼくに手を出した。まあ、3万儲かったからいいけど」
「だったらごちゃごちゃ言わないで、今回も行島に抱かれなさいよ。5万あげるから」
「それは嫌だ」
ぼくが即座に否定すると瀬尾は少し眉を顰めたが、少しの間を置いて足を崩し、ぼくの方に身を乗り出した。
「言ったけど聞かなかったの。行島くんの個人的怨恨ね。私のせいだって思われたくないから言いに来たの。それだけ」
「瀬尾が行島に愚痴る前から、行島がぼくになにかするつもりだった‥‥と言いたいのか?」
瀬尾はぼくの問いに、頷いた。
「はじめからあんたをレイプするつもりだったの。私は本当に愚痴っただけだし、麻野くんとあんたの関係だって言っていない。だって麻野くんはあんたのことで本気で起こったんだよ? 私、あんな顔初めて見た。あんな顔を見ちゃったら、引くしかないじゃない。だから、有川くんが超ムカつくって言っただけ。そしたら、行島くんが言ったの。あいつをレイプして本当にゲイかどうか確かめようぜって。そうしたら私が麻野くんと付き合えるって。私は反対したのよ、でも啓くんに色々探らせようってことになって‥‥」
「成瀬と行島が揉めて、グループから追い出された、か」
「そう。啓くん、すごく怒って、行島くんがいままでやってきたことを情報屋に全部話しちゃったの」
「その情報屋ってなんなんだ?」
「私も詳しくは知らないんだけど、4回生にいろんな情報を売買している人がいるの。啓くんの知り合いみたいだけど、誰かは教えてくれなかったのよね」
言いながら、瀬尾がまたぼくのラテに手を伸ばす。ぼくは溜息をついて、ラテを瀬尾のほうに寄せた。
「くれるの?」
「おまえが口をつけたものを飲んだら体が腐る」
「相変わらず性格悪いわね」
「お互い様だ」
ぼくは瀬尾にそう吐き捨て、席を立った。幸いにもレジには誰も並んでいない。ぼくはおなじものをオーダーし、シナモンをふりかけ、席に戻った。
瀬尾は悠々とぼくのラテを飲んでいる。それを横目に見ながら席につくと、瀬尾が眉を顰めているのが見えた。
「あの男、大成しないわ」
「行島?」
「そうよ。麻野くんに直接復讐せずに有川くんにシフトするなんて最低だわ。ちょっとでも靡きかけた私が馬鹿だった。いいのは顔だけね」
「行島ってそんなに有名なのか? そういえば、成瀬妹も言っていたような‥‥」
「うそ、知らないの?!」
「でかい声だすな、馬鹿」
急に大きな声を出しながら身を乗り出してきた瀬尾を非難する。瀬尾は我に返って席に着くと、恥ずかしそうに咳払いをした。
「有川くんがオタクなのを忘れてたわ」
「悪かったな。行島ってアイドルとかモデルでもやっているのか?」
「麻野くんが本格的に芝居を始めるまでは、テレビや映画には出なかったけど、若手俳優の中ではトップクラスの人だったの。顔も、演技力もね。だけど麻野くんが突出してきて、その座を奪われた。麻野くんって行島くんよりも長身でしょ? 声も、滑舌もいいし、なにより演技が細かい。だからやっかみもあると思うの」
「‥‥大体わかった。で、おまえはその他力本願且つ程度の低い復讐しか考えられない、頭と性格の悪い最低男に惚れかけていた、と。相変わらず男を見る目がないな」
「うるさいわね。自分が馬鹿だったって思っているから、有川くんに会いに来たんでしょ」
「影でこそこそならまだしも、堂々とぼくをゲイ呼ばわりしておいて、今更過ぎるだろ。どうしても許して欲しいなら、焼肉をおごれ。上カルビとタンとホルモンがうまいところだ。それ以外は認めない」
そう言い切ると、瀬尾がテーブルになにかのチケットを乗せ、ぼくの方に寄せた。
「あんのの無料優待券3枚セット。あそこのホルモン鍋とみそ焼きホルモンは絶品」
ぼくは瀬尾にしまわれる前にカルタでも取るように手のひらで覆った。瀬尾は勝ち誇ったように笑って、腕を組んだ。
「許す?」
「‥‥癪だが許す。麻野と成瀬にも、誤解だと言っておく」
「よし」
瀬尾は嬉しそうに言って、席を立った。
「麻野くんのこと、悔しいけど譲ってあげる。その代わり、有川くんの見た目で私に合いそうな人を見つけたら、教えてよね。私と有川くんって好みが似ているから、そのほうが無難だと思うの」
ずいぶん突飛な考えだと思う。けれど強ち間違ってはいない。ぼくが考えておくと呟くと、瀬尾はどこからか500円玉を出して、テーブルに置いた。
「お釣りはいらないよ」
「返すつもりはない」
自慢じゃないが、ぼくは友達でもなんでもない人間から施しを受ける趣味はない。瀬尾はぼくのそういう性格を知っているからだろう。驚いたような顔をしていたが、ぼくを見て、「ありがとう」と呟き、笑った。
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