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第12話

 行島たちに暴行された翌日、ぼくは病院に行った。念のため検査を受けると、神経性胃炎と貧血の悪化が発覚した。昨夜から39度近い熱がひかなかったのは、蹴られたときに肋骨を骨折していたからだった。肋骨が折れているのはどうしようもないと言われたが、二ヶ月前より5kgも痩せていたこともあって、緊急入院することになってしまった。  そのせいでぼくは一週間近く大学に行かなかった。成瀬とも、麻野とも連絡を取らなかった。というより、携帯が悲惨なことになっていたせいで、連絡先がわからないのだ。  少し動くとずきりと痛む脇腹を擦りながら、いつのまに5kgも痩せていたんだろうかと呟いた。  別に麻野に翻弄されるあまり食事が取れなかったわけではない。以前よりも食べる量が減ったのは明らかだが、それほど食べなかったわけでもないし、体重が激減するほど麻野とセックスしていた記憶もない。不思議だとぼやきながら、ぼくは配膳された夕食を少しずつ口に運んでいた。  麻野たちはぼくを心配しているだろうか。ぼくは半分ほど食べたところで箸を置き、ベッドに横になった。  病室のドアがノックされる。ぼくが返事をすると、看護師が入ってきた。 「有川さん、食べられました?」  ぼくはなにも答えず、サイドテーブルを指差した。看護師はそれを見て溜息をついた後、「食べてないじゃない」と冷静に言った。ぼくは舌打ちをして「欲しくない」と吐き捨てる。彼女はムッとしたような顔をして、ぼくの横に立った。 「佐田先生と師長に言いつけるわよ」 「お前の声、きんきんうるせえんだよ、成瀬妹」  ぼくが睨むと、彼女はもうっと呆れたように言って、ぼくの足を叩く。  看護師は成瀬の双子の妹だ。昔からの顔馴染みなのもあって軽口を叩きやすい。ぼくがなぜ食べないのかを追求してくるかと思ったが、成瀬妹は腰に手を当ててまたぼくの足を叩いた。 「啓を呼んで焼肉パーティーしてもかまわないわよ、ホットプレートでならね」 「病室でやる馬鹿がどこにいるんだ。いい、成瀬に余計なことは言うな。後がめんどくさい」 「どっちにしろ面倒なことになってるみたいよ。啓は既に心配しているし」 「絶対に言うなよ、成瀬妹」 「優菜です。じゃあ、あと半分食べて」 「いらん。下げろ」  成瀬妹にそう吐き捨てると、はいはいと軽くいなして、トレイを手にした。そして横になったぼくに「貧血が改善するまでは退院させない方針だから、その覚悟でいてよね」と言って、病室を後にした。ぼくは入院初日に主治医から言われたセリフを反芻して、溜息をついた。  主治医の佐田先生から、「通常でもBMIが低すぎるし、貧血の数値も以前より悪くなっている。強制入院して、貧血だけでも改善しよう。ついでに体重が増えるとより好いんだがね」と、まるでモルモットを見るような表情で言われたのだ。佐田先生はぼくの父と知り合いだからだろう。父に言われたとおり隅々まで管理しなくてもいいものだろうと思うが、父に恩義を感じている佐田先生は一筋縄ではいかなかった。  もしぼくが脱走を試みて強制退院なんてしたら、両親が怒り狂い、ぼくの大学生活はめちゃくちゃになること必至だ。ぼくは諦めて、佐田先生と成瀬妹の言うことを聞くことにした。 * * * * *  それから10日あまりが経過したが、ぼくの体重は一向に増える気配がなかった。一日に二度の点滴に、量は少ないものの、三食まともなものを食べているというのに、だ。貧血は治癒傾向にあるようだが、相変わらず食事があまり喉を通らない。けれど家に帰してもらうためには食べるしかない。散歩でもすれば気分が晴れるだろうし、腹も減るだろう。そう思って、ぼくは病院の庭に出ていた。 「集くん?」  聞き覚えのある声がぼくを呼んだ。お兄さんだ。 「こ、こんにちは」  近くに麻野がいたりしないだろうか。それとなく辺りを見回したが、それらしい影は見当たらない。お兄さんはぼくの行動の意図を察したようで、そっと笑った。 「佐和ならいない、おれ一人で来たから」 「どうかされたんですか?」 「定期健診だよ」  お兄さんはぼくがここにいる理由を尋ねなかった。病衣の上にカーディガンを羽織った格好だ。入院していることは明白だからだろう。 「どこか悪いの?」  お兄さんが尋ねてくる。ぼくは首を横に振った。 「主治医が気を逸らせて勝手に心配しているだけですよ」  お兄さんがきょとんとした顔でぼくを見る。そんなに難しい日本語を使った覚えはないがと思いながら、メガネの位置を直す。お兄さんは少し考えるような仕草を見せてぽんと手を打った。 「ツナサンド、食べたい?」 「え?」 「佐和が一時期、集くんに食べさせるんだって言って、作っていたんだ。あんまりおいしくなかったけど」  麻野が四苦八苦しながら料理している姿が目に浮かぶ。ぼくは「そうですか」とだけ言った。 「集くんの好きなものなの?」 「まあ、基本的にパン食ですから」 「ここの食堂のたまごサンドはおいしいよ。たまごふわふわで、甘いんだ」 「スクランブルエッグは薄塩派です」  お兄さんはあからさまにムッとしたような顔をして、ぼくの腕を掴んだ。 「君は退院する気があるの?」  「ないでしょ」とお兄さんが継ぐ。ぼくは意表を突かれて言い返せなかった。確かにそうかもしれない。ぼくが俯くと、お兄さんが心配そうに覗き込んできた。 「佐和とケンカした? 集くんがいないから、佐和が落ち込んでる。連絡してあげて」 「あ、いま、携帯が‥‥」  お兄さんはショルダーバッグから携帯を取り出して、ぼくに差し出した。 「これでできる」  さすが麻野の兄弟。強引さは並みじゃない。  麻野には連絡を取りたくない。殴られた傷が癒えるまで会うつもりがなかったからだ。ぼくはお兄さんの携帯を受け取らず、首を横に振った。 「ひとりになりたいんです。考える時間が欲しい」  お兄さんは解らないという顔をした。少し肩を竦めて、ぼくの手を離すと、中庭のベンチに腰を下ろした。 「おれが殲滅した連中と関係してるの?」 「せ、殲滅?」  えらく激しい言葉を選んだなと思っていると、お兄さんは「全滅?」とか「追撃?」とか言ったあと、「まあいいか」と呟いた。面倒くさくなったんだなと解る。ぼくは自分の口元が緩むのを感じながら、お兄さんの隣に腰を下ろした。 「佐和は、なにも知らないよ」  ぼくを見ながら、お兄さんが言う。何故お兄さんがこんなことを言うのかが解らなかった。もしかして、お兄さんはなにか知っているんだろうか。 「あの日、佐和が集くんに夕飯を届けるって言ったから、驚かせようと思って、おれがかわりに届けに行ったんだ。そうしたら、集くんの部屋から男が三人出てきた。部屋の中を見たら集くんが血を流して倒れていたから、殺人事件だと思って三人を追ったんだ。それで」 「それで?」 「ナイフみたいなのを見せて脅してきたから、撃った」 「う、撃った!?」 「うん。護身用で持ってるの」 「いやいやいや、ここは日本ですよ、銃刀法違反で捕まりますよ!?」 「大丈夫、エアガンっていうおもちゃみたいなのだから」  それでも玉が入っていたら十分殺傷能力があるんですがと突っ込むと、お兄さんはへらりと笑って「でも悪者だから大丈夫」と言った。実際大丈夫ではないだろう。お兄さんは麻野同様凶暴なんだなと苦笑する。 「三人をぼこぼこにしたあとに集くんの部屋に戻ったら、シャワーを浴びる音が聞こえた。だから大丈夫だろうって思って、そのまま帰ったんだ」 「そいつらをぼこぼこにしたことを麻野は知っているんですか?」 「んー‥‥。エアガンの玉数が減っていることを問い詰められたけど、蜂を撃ったって言うことにしておいたから、大丈夫じゃないかな」  お兄さんはそう言って、空を見上げた。 「佐和には言ってないから」 「なにを、ですか?」  ぼくは問いかけたが、お兄さんから返事はない。前髪を指で分けられ、額にキスをされた。 「集くんはうちにいなかったっていうことにしておいた。必要なものがあったらおれに言って。佐和にばれないように調達するよ」 「べつに、麻野に来てもらったって」  そう言いかけた時、お兄さんが人差し指でぼくの口を塞いだ。 「気持ちが落ち着くまで、佐和には会いたくないでしょう? 強がるのは集くんの悪いくせだ」  なにもかもわかったような口調で、お兄さんが言った。お兄さんの屈託のない笑顔が痛い。ぼくは俯いて、ぐっとこぶしを握った。 「ぼくは、麻野に会えない」 「うん。黙ってるね」 「お兄さん」 「雪弥だよ」 「‥‥雪弥、さん。麻野に、ぼくは実家に帰っていると伝えてください」  お兄さん――基、雪弥さんはなにかを悟ったように笑って、ぽんぽんとぼくの背中を叩いた。 「落ち着いたら連絡して。できる限り協力するから」 「はい」  絞り出した声は、震えていた。雪弥さんはぼくを落ち着かせるように背中を撫でてくれた。  ぼくは以前、雪弥さんに似たような経験があると言った。けれど、今回のことは想像以上に堪えていた。麻野に出会う前、こんなことは何度もあった。麻野を好きになる前は、こんなに苦しいと思ったことがなかった。  ぼくは雪弥さんに背中を撫でられながら、初めて人前で泣いた。

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