13 / 44
第13話
それから一週間後、ぼくは漸く退院させてもらった。結局体重は1,5kgしか増えなかったのだが、これ以上休んだら大学の出席率に関わるとぼくが強く抗議したためだ。尤も大学側には父からの根回しで事情を説明されているようだったが。
「ちゃんと食べるんだよ、集くん。もしもまた調子を崩すようなことがあったら、お父様はきっと重役会議をも放り出して、集くんの看病に来る。それは困るだろ?」
佐田先生が茶化すように言った。ぼくは小さく頷いて、診察室の椅子から立ち上がる。
「それからね」
間を置いて、佐田先生が咳払いをする。ぼくが不審に思ってもう一度椅子に腰を下ろすと、ぼくに顔を近づけてきた。
「肋骨の骨折の件はベッドから落ちたくらいでなるようなレベルではないと形成外科のが言っているんだけど、本当にベッドから落ちたのかな?」
ぼくは佐田先生の目を見なかった。少し俯いたまま、頷くだけにとどめた。
「顔の傷も、おなかの痣も、そのときにできた傷なんだね?」
ぼくはまた頷いた。佐田先生は参ったなと呟いて、息を吐いた。
「事件性はないと言っておいたが、本来ならこれは暴行事件だよ。あんな痣はただこけただけでは出来ないんだから」
「寝ぼけていたからはっきり覚えてない」
「じゃあ、お尻の傷は? 本当は、君はレイプされたんじゃないのか?」
背筋に寒気が走った。
入院当日、下着に血が滲みていたのがバレて咄嗟に嘘を吐いたのだが、やはりこの人は曲者だ。
「違う」
「本当に? いくら君がゲイだからって、自慰行為であそこまで傷がつくようなことはできないはずだ。酩酊状態だったなら別だが、君は未成年だろう。
いままで俺は、集くんの力になれることはやってきたつもりでいる。俺には話してくれてもいいんじゃないのか、集くん」
「話したよ。自分でやった。大勢に犯される気持ちを味わいたかったんだ」
ぼくはそう吐き捨てて、立ち上がった。
「佐田先生、あなたはぼくの理解者だと思っていた。いまのことでよくわかったよ」
「俺は君のために言っているんだ。もしまた同じようなことがあったらきちんと言いなさい」
「しつこいな、自分でやったって言ってるだろうが」
「集くん!」
ぼくは佐田先生の制止を振り切って、診察室を出た。
なんだ、ばれていたのか。今日までなにも言わないなんてたいした役者だ。佐田先生のことだからぼくがレイプされたことは佐田先生のところで情報が止まっているだろう。あの口ぶりから察するにそうに違いない。
けれどぼくは認めたくなかった。あいつらに抵抗一つできず体を開かれたなんて、認めたくない。ぼくはあれはただの遊びだと暗示を掛けるように呟いて、病院を後にした。
* * * * *
ぼくのアパートが見えた。およそ一ヵ月ぶりだ。テーブルの上に置きっぱなしにしていたりんごや、数々の食材は既に腐っているだろうなと思い返す。
路地を曲がり、アパートの門をくぐったとき、ぼくは自分の部屋の前に佇む影を見つけた。麻野だ。ぼくは反射的にアパートの門を支える壁の陰に隠れた。
麻野はぼくの部屋の前に立って、携帯を操作している。ディスプレイを少しだけ見つめ、また操作し始めた。そうかと思うと、携帯を耳に当てた。
「もしもし啓? 俺。やっぱり集、帰ってないわ」
どうやら成瀬に連絡をしているらしい。
「あ、優菜がどうしたって? は?」
断片的にしか会話が聞こえないが、ぼくが実家に帰っていないことはバレているのかもしれない。
「わかった。俺ももう一度雪弥に問い詰めてみる。あの野郎、実家に帰ったって言い張るんだ、絶対なにか知ってるはずだ」
そう言って、麻野は電話を切った。深い溜息をついて、踵を返す。そしてぼくが隠れているアパートの塀の真横を通って、麻野は出て行った。
ぼくはほっと胸を撫で下ろした。正直いまはまだ麻野に会いたくない。ぼくは麻野の足音が消えたのを確認して、急いで鍵を開け、部屋に入った。部屋の鍵とチェーンロックを締め、ぼくは靴下を脱いだ。スリッパに履き替え、恐る恐るテーブルの上を見る。けれど、そこには置いていたはずのりんごはなかった。それどころか、一ヵ月近くいなかったというのに、部屋の中は埃っぽさもない。ぼくはぽかんとした。
きっと賞味期限切れの食品でいっぱいだろうと思っていた冷蔵庫を開ける。たまごや牛乳など腐っているだろうと思っていたものはみんな綺麗になくなっていた。一体誰が掃除したんだろう? 冷蔵庫のドアを閉めたとき、そのなぞは解けた。かわいらしい、へたくそなひらがなのメモがあったからだ。
『いつかのおれいだよ』とだけ書かれたそれを、誰が書いたのかはすぐにわかった。更にテーブルの上に小包が置いてあった。またも同じ字で、『こまったときにつかってね』と書かれている。なんだか嫌な予感しかしないが、ぼくは小包を開き、その予想が的中したことに嗤笑した。小包の中身はスタンガンと未開封の鉄分補給用のサプリメントだった。物のチョイスが雪弥さんらしい。
鍵もないのにどうやって侵入したのだろうか。ぼくは病院に行く前、すべての鍵がかかっているか、ガスの元栓を締めたかどうか、きちんと確認して出たはずだ。けれど雪弥さんのことだから、なにかの秘密兵器でも持ち出してきたとしてもおかしくない。ぼくは雪弥さんの親切に感謝して、ベッドに横たわった。
タクシー代をケチって病院からアパートまでの距離を歩いたのは失敗だったなと後悔しながら目を閉じる。目が覚めたら、携帯を新調しにいこう。そのあとは雪弥さんに連絡をして‥‥などと考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌日ぼくは実家に連絡を入れた。幸い実家に戻っていないことは麻野にも成瀬にもばれていないようだ。母から「嫌と言っても仕送りをするからきちんと食べなさい」と叱責され、父からは「次に倒れるようなことがあったら大学には通わせない」と怒鳴られた。ぼくの周りは過保護なのばかりだなと揶揄して即座に電話を切ってやった。
ぼくは自分のアリバイが崩れていないことを確認してから、大学の門をくぐった。ぼくの姿を久しぶりに見るからだろう。いままでは話しかけてきもしなかったやつらが、ぼくの様子を伺うようにじろじろと見てくる。ぼくはその視線を無視して、講義室へと向かった。
しばらく休んでいたせいで、単位をすべて取るために朝から講義漬けだった。漸く最後の講義が終え、ぼくはひさしぶりにカフェオレを飲もうと、学食に向かった。
その途中で、ぼくを見て蜘蛛の子を散らすように逃げて行った三人組がいたが、まったく見覚えがなかったので、放っておいた。学食に入り、いつも座っていた席に腰を下ろす。アイスカフェオレを注文したとき、おばちゃんから「久しぶりだね」と好意的な笑顔を向けられた。ぼくは小さく頭を下げて、アイスカフェオレを受け取った。
明日もまた講義漬けだ。アイスカフェオレを飲んだら、うちに帰って寝よう。そう考えながら、喉の奥に流し込んでいたときだ。
「集!」
麻野の声がした。びくんと肩が跳ねる。グラスを持つ手が震えはじめたのを隠すため、ぼくはグラスをカウンターに置いた。
麻野は相変わらずだった。少し髪を切ったらしい。以前よりさっぱりしている。ぼくが素っ気無く「なに?」と返すと、麻野がばんとカウンターに手をついた。
「なにじゃない、どこに行ってたんだ!?」
「うるさい、大声を出さなくても聞こえる」
「質問に答えろ!」
麻野が顔を赤くして怒鳴る。学食には人がいないわけじゃない。好奇の目に晒されるのはごめんだと、ぼくは立ち上がった。
「実家だよ。体調が戻るまで帰っていた。これで満足か?」
そっけなく言って、ぼくは麻野の横をすり抜けて学食を後にした。
麻野が後ろからついてくる。足音が大きい。なにも言わずに音信不通になったんだ、怒っていないほうがおかしい。ぼくは麻野を無視して歩き続けた。
「待てよ、集」
麻野がぼくの腕を掴む。久しぶりの麻野の感触だ。骨ばった大きな手が、たくましい腕が伸びてきて、勢いよく麻野のほうを向かされた。
「体調崩してたって、なんで言わないんだ」
「なんで? 馬鹿か、言ったところでお前に治せるのか?」
麻野はぼくに聞こえるほど大きな舌打ちをした。腕を掴む麻野の手に力が加わっていくのが解る。
「なんで俺じゃなくて雪弥になんだよ」
ああ、くそっと、麻野が吐き捨てる。雪弥さんに嫉妬しているらしい。ぼくはそれを鼻で笑った。
「深い意味はない。そういえば、次の公演も主役が決まったんだって? よかったじゃないか」
「俺のことはどうでもいい」
そう言って麻野がぼくの横髪を梳いたとき、麻野が驚いたように目を見張った。
「おまえ、この痕はなんだ?」
麻野が言っているのは、行島に殴られたときの痕のことだ。傷は癒えたが、痕が消えなかった。
「ベッドから落ちた」
「うそつけ、死体みたいに一ミリも動かず寝るヤツがどうやって落ちるんだよ」
俺ならまだしもと麻野が言う。
「落ちたんだよ。そのときの痕だ」
もういいだろうと、麻野の体を押しのける。麻野はイラついたような顔をそのままに、ぐっとこぶしを握り締めた。
「行島か」
ぼくの背筋にぞくりと寒気が走った。
「行島にやられたんだな?」
麻野の顔がどんどん怒りに満ちていく。ぼくは震えそうになる体を必死に押さえ、鼻で笑ってやった。
「想像力が豊か過ぎるな。なんでその傷が行島のせいになる?」
「雪弥を見て顔を真っ青にさせていたからな。それにさっき、集を見て逃げただろう。それでぴんと来た」
麻野がまた、ぼくの両腕を掴んだ。
さっき逃げたのは行島たちだったのかと、麻野に言われて初めて気付いた。そういえば、あんな顔だったかと記憶を辿る。
「集、正直に答えろ。行島たちに」
また、背筋が凍りつきそうなほど冷たくなった。ぼくは麻野がすべてを言い終える前に、反射的に麻野を殴っていた。
「違う」
「じゃあなんで急にいなくなった? なんで俺を避ける?」
ぼくは麻野を見なかったが、麻野の声色だけで表情がわかる。もう言い逃れは出来ないと悟って、ぼくは溜息をついた。
「あれは遊んでやったんだ」
麻野を睨みながら言う。麻野は一瞬間ぽかんとしたが、眉を潜め、首を横に振った。
「集」
「遊んでやっただけだって言っているじゃないか!」
自分でも聞いたことのないような大きな声だった。肩で息をするぼくを、麻野がそっと抱き寄せた。
「ごめん、集」
「謝るな。麻野は悪くない」
「でも、守ってやれなかった」
「誰もお前に守ってくれなんて言っていない」
言いながらも視界が滲む。麻野はぼくが泣いていることですべてを悟ったらしい。それ以上はなにも言わず、ただ、ぼくを抱きしめてくれた。
ともだちにシェアしよう!

