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第14話
ぼくは麻野に連れられ、麻野のうちに来ていた。麻野の前で泣いてしまった手前、殴り飛ばしてでもアパートに帰りたかったのだが、麻野がキャンパス内でぼくを米俵のように担ぐ暴挙に出た為、下ろしてもらうために必死で麻野の言うことを聞くと言ってしまい、逃げられなかった。
リビングには雪弥さんがいて、ぼろぼろとメロンパンをこぼしながら、海外ドラマを食い入るように見ている。雪弥さんはぼくたちに気付いたようだったが、なぜかまったく反応を示さなかった。
「雪弥、ほら、連れてきたぞ」
「お待ちかねの集だ」と、麻野が言う。雪弥さんはぼくに視線を寄越したが、数秒じろりと睨んで、ふいっと顔を背けた。
「おい! 自分が連れてこいって言ったんだろうが!」
麻野が焦れたように雪弥さんの肩を掴む。それでも雪弥さんは無視を決め込み、ドラマに集中していた。
ぼくは笑いそうになるのを堪えた。やっぱり麻野に似ている。これは拗ねているのだ。麻野もまた同じだったようで、舌打ちをしたあと、ぼくに視線を寄越した。
「お姫様はお怒りのようだ」
両手を広げ、お手上げというように麻野。「そのようだな」と答えて、ぼくは雪弥さんに近づいた。
「雪弥さん」
雪弥さんはなにも言わない。
「ただいま戻りました」
そういうと、雪弥さんはちらりとぼくを見た。それでもなにも言わない。雪弥さんは一度ぼくから視線を逸らしたあと、薄く笑ってぼくを見上げた。自分の右頬を人差し指で二回つつく。ああ、なるほど。ぼくはその意図を察して、雪弥さんの右頬にキスをした。
「おかえり、集くん」
突然雪弥さんが抱きついてきた。まるで犬でも抱くように、ぎゅっと、強く。
後ろで麻野が「なにしてんだ!」と怒っているにも拘らず、だ。そして雪弥さんはぼくの耳元で、「なにも話していないよ」と囁いた。
ぼくは一分近く雪弥さんに抱きしめられていた。漸く解放され、二、三度咳をすると、雪弥さんはうれしそうに肩を竦めて微笑んだ。
「体調は大丈夫?」
「あ、はい。ぼくにとっては痩せるより太る努力のほうが苦痛だと思い知りました」
「あはは、女優さんたちが聞いたら怒りそうだね」
言って、雪弥さんはテレビを消し、立ち上がった。
「積もる話もあるだろうから、おれは部屋に戻るよ」
「雪弥が話したいことがあったんじゃないのか?」
不機嫌そうに麻野が言う。雪弥さんは麻野を見て、少し首を傾げた。まるで「なんのこと?」と言わんばかりの表情に、麻野は溜息をついて、右手で額を押さえたあと、しっしっと追い払うような動作をした。
雪弥さんが階段をあがる音が、静かなリビングに響く。麻野の表情を窺うのが怖かった。正直に言って、麻野がぼくを受け入れるとは思えない。ただでさえ独占欲が強いのだ。他人に、況してや仲が悪いと有名な行島たちに暴行されたとわかったら、きっと麻野はぼくを捨てるだろう。そんな不安がずっと渦巻いていたというのに、麻野はぼくを責めようともしない。いつもどおりにコーヒーとカフェオレを作ると、それをトレイに乗せ、二階に行こうとぼくを誘った。
麻野の部屋で、ぼくはすぐにソファに腰を下ろした。麻野はベッドにもたれかかり、コーヒーを啜る。少しの間、時計の音と、かすかな物音だけが空間を彩っていた。
「実家でなにをしていた?」
麻野が口を開いた。
「太る努力だ」
「太る努力?」
麻野が怪訝そうに聞き返す。ぼくはカフェオレを嚥下し、マグカップをテーブルに置いた。
「検診に行ったら、5kg痩せているから2kg太れ、と。自炊では無理だと判断し、戻った。それだけだ」
メガネの位置を直しながらぼくは言った。麻野はふうんと短く返事をしたが、どこかイラついたような表情をそのままに、またコーヒーを啜った。
「なんでうちに来なかった?」
「来たくなかったから」
「じゃあ携帯のことはどう説明するつもりだ。おまえの実家は田園調布だよな。あそこは常に携帯の電波が途切れるほどのド田舎か?」
「壊れたんだ。データが復元できなかったから連絡が取れなかったんだよ」
ぼくが素っ気無く言うと、麻野はガシガシと頭を掻き毟って、テーブルを蹴った。マグカップの中でカフェオレが踊る。ぼくはじろりと麻野を睨んだ。
「癇癪か? 勘弁してくれ。ぼくはクズの次にガキが嫌いなんだ」
麻野は大きな溜息を吐いて、ぼくの手を掴んだ。
「待ってたんだ。集から連絡が来るのを、ずっと」
「連絡がないから拗ねていたのか? だったら、ぼくの携帯を壊した馬鹿に文句を言えよ」
尤も、それは行島たちだが。ローションと精液塗れの汚い携帯など触りたくもない。このときばかりは、防水機能がない携帯を使っていてよかったと思った。
「どこの馬鹿だ?」
「そこまで追求されるのか、まるで尋問だな」
ぼくが鼻で笑って言うと、麻野がぼくの胸倉を掴んで、無理やりソファに体を押し付けた。
「わかった、もうなにも聞かない」
麻野がぼくの首筋にキスをした。まるで冷凍庫の冷気を体全体に浴びたときのような寒気がぼくを襲う。
「ちょっ、麻野っ」
麻野はなにも言わず、ぼくの首筋、鎖骨にキスを落とす。慌てて麻野の肩を掴んだが、手が震えてまったく意味を成さなかった。
「麻野、やめっ‥‥」
腹部にひやりとした風が触れる。麻野はまるで痕跡を見つけるかのように、ぼくの胸までシャツをたくし上げた。そしてぼくの胸に舌を這わせ、空いた手でベルトを寛げはじめた。
ぼくは自分の中に生まれた感情に愕然とした。麻野が怖い。視界が滲むのを感じながら、ぼくはぎゅっと目を閉じた。
「佐和」
突然、雪弥さんの声がした。ずかずかと部屋に入ってくる。麻野が舌打ちをして、まるで噛み付くような勢いで怒鳴った。
「邪魔すんなって言っただろうが!」
「本気?」
「ああっ!?」
「だとしたら、最低だね。自分がしていることを恥じるといい」
雪弥さんの声はいつもと違った。冷淡で、怒りすら感じる。麻野もそれを悟ったようで、舌打ちをしながらソファを降り、ベッドに凭れ掛かった。
ぼくは乱れた息を整えることに必死だった。息が乱れているのを悟られないように口元に手をあてがっていると、雪弥さんがぼくに手を伸ばしてきた。
「行こう」
ぼくは麻野を見ずに、雪弥さんの手を取った。
* * * * *
「大丈夫?」
雪弥さんが声をかけてくる。ぼくは漸く震えが納まった体から手を離し、小さく頷いた。
「ごめんね、先走った佐和が悪い」
「いえ。思ったより、ダメージがあったみたいです」
情けないと呟くと、雪弥さんはわかったように頷いた。
「心配していたんだよ、佐和も。不器用だから、あんなやり方しかできない。べつに集くんを怖がらせるつもりはなかったと思う。でも佐和はする側だから、気持ちがわからないんだよ」
「する側?」
「いれるほう」
ぼくは納得すると同時に、ストレートな雪弥さんの発言に顔が赤くなるのを感じた。
「落ち着くまで接触を避けるつもりだったんです。講義もあるし、大学に行かざるを得ない。極力会わないようにしていたのに、会ってしまった」
「ずっと捜していたもの。あんなに感情的になるほど」
雪弥さんはずいぶん伸びた髪を耳に掛け、ふうっと息を吐いた。
「素直が一番だよ、集くん。乱暴されたことを認めたくないのはわかる。だけど自分が辛くなるだけだ」
「おれの経験上の話だ」と、雪弥さんが言う。ぼくは小さく頷いたが、首を横に振った。
「言えません。麻野に侮蔑される」
「ぶべつ?」
「え、えっと‥‥indignity、だっけ? 他者を侮り、蔑み、馬鹿にして、ないがしろにするっていう意味です」
雪弥さんは「ああ」と言った。そのあとで、ぼくにずいっと顔を近づけてきた。
「集くんは、おれを侮蔑する?」
「え?」
「おれも、長い間義父に乱暴されていたし、それ以外にもいろいろな人にひどいことをされたよ。ほら」
言って、雪弥さんがシャツをめくる。雪弥さんの白い肌が見えた。そしてぼくは自分が言ったことを後悔した。雪弥さんのおなかには、無数のケロイド状になった痕が残されていたからだ。
「やけどの痕。おれが言うことを聞かないと、煙草を押し付けられていたんだ。このことは、佐和も、明(さやか)さんも知っている。ふたりはおれを侮蔑しているように見える?」
ぼくは首を横に振った。
「じゃあ、集くんは?」
「していない」
はっきりと答えると、雪弥さんは薄く笑って、「ほらね」と言った。
「ストレートに言わなくてもいい。だけどこのままじゃ、佐和も集くんもいままでどおりになれないよ」
「それは、わかっています」
俯いたままぼくが言う。雪弥さんはぼくの横でふふっと笑って、すっかり綺麗になったベッドに横たわった。
部屋のドアがノックされた。雪弥さんが返事をすると、少しの間を置いて、ドアが開いた。麻野だ。麻野は気恥ずかしそうにガシガシと頭を掻いた後、ぼくを見た。
「悪かった。どうかしてたんだ」
ぼくはちらりと雪弥さんを見た。雪弥さんは小さく頷いて、ぼくに麻野についていくよう促す。ぼくは立ち上がって、麻野に近づいた。
「別れよう」
麻野よりも早く、雪弥さんの驚いた声が上がった。「おまえは黙ってろ」と、麻野が雪弥さんを一蹴する。雪弥さんがベッドに沈む音が聞こえたが、ぼくは麻野から目を逸らさなかった。
「さっきのことでわかった。おまえはぼくが好きなんじゃない、ただ性欲処理をする相手が欲しいだけなんだ。それを好きだと錯覚しているだけだ。いまならまだ戻れる。麻野はぼくが知っている、女誑しの麻野に戻れ」
「なんだよ、それは」
「わからないか? ぼくはおまえの性欲処理に付き合うのが嫌だと言っているんだ」
「そうじゃない、それが集の本心なのかと聞いている」
「そうだ」
不本意だ。ぼくは麻野が好きだ。あのとき、誰よりも麻野に来て欲しかった。麻野に助けて欲しかった。でもそれは適わず、ぼくは行島たちに乱暴された。
「手軽に性欲処理がしたいなら、女を作れ。いまのぼくなんかに熱を上げても、なんの意味もない」
「意味がわからないな。それはおまえが傷物になったと言いたいのか?」
「佐和!」
「黙ってろ。答えろ、集」
「そうだ」
麻野が驚いたように目を見開いた。
「ぼくはおまえの知らないところで、別の男に抱かれた。遊んでやったんだ。だから自分のことは自分でけりをつける。おまえに守られたくない」
「それは、行島たちか?」
「そうだ」
雪弥さんがぼくの腕を掴んだ。振り向くと、眉を寄せて首を横に振っているのが見えた。雪弥さんの言いたいことはなんとなくわかる。けれどこれはぼくの決意だ。揺るがない。揺るがせるわけにはいかない。ぼくは雪弥さんに「ごめんなさい」と呟いた後、その手を振り払った。
「別れよう、麻野」
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