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第16話
翌日、ぼくは学食で出会った麻野を見て、開いた口がふさがらなかった。
割と長めで綺麗な髪だったのに、かなり短く刈っている。まるでひよこのような頭だ。
麻野はぼくを見るなり嫌そうな顔をして、視線を逸らす。ぼくはその仕草も相俟って、あまりの変貌ぶりに思いきり笑った。
「あははは、なんだよ麻野、その頭は」
「ひよこみたいだな」と笑いながら告げる。成瀬はぶっと吹き出したが、慌てて口を押さえた。麻野が成瀬の肩を殴る。成瀬はごめんと言いながらも、麻野の顔を見るたびにニヤニヤしていた。
「随分涼しげだな。頭の中も同様涼しげになれば、おまえに泣かされる女が減って平和になる」
「うるさい」
「失恋して髪を切るほどぼくが好きだったのか? 驚きだ」
「黙れ。これは雪弥にやられたんだ」
「雪弥さんに?」
「言いたくない」
ぶっきらぼうに言って、麻野がチャーハンを頬張る。雪弥さんにはなにをされても絶対に手を出さないんだなと感心する。麻野を茶化して本音を引き出そうとしたのに、麻野は乗ってこない。つまらないと思っていると、成瀬がぼくの肩を叩いた。
「お兄ちゃんが楽しみにしていた舞台の主役を降りたから、その腹癒せなんだって」
成瀬が肩を震わせながら言う。麻野は舌打ちをして、ぼくの背中越しに成瀬の肩を殴った。
「言うなっつっただろ」
「だっていずれバレるじゃん。劇団、揉めに揉めてるんだろ? 意地張ってないで戻ってやれよ」
「冗談じゃない」
そう言って、麻野は居直り、チャーハンを嚥下した。
「大体な、集。おまえにも責任があるんだぞ」
麻野がぼくにスプーンを向け、苛立った様子で言う。
「は? なんでぼくに関係があるんだ」
「おまえがあんなこと言わなきゃ、雪弥の逆鱗に触れなかった。その結果がこれだ。ちょっとは俺を慰めてくれたっていいだろう」
「思いきり笑い飛ばしやがって」と、麻野が憎々しげに言う。ぼくはふんと鼻で笑って、麻野の頭を撫でた。
「似合うじゃないか」
「ふざけんな。俺は某バスケ漫画の主人公じゃないんだぞ」
しゃりしゃりすると言いながら頭を撫でていたら、麻野から睨まれた。
ぼくは「いい気味だ」と麻野に吐き捨て、麻野のポテトサラダを頬張った。
あんなこととは、「別れる」と言ったときのことだろう。そんなことを言われても、守られたくないのは事実だから仕方がない。言うタイミングを計っていたところに、麻野が焦れて行動を起こしてきた。そのチャンスを活かすべきだろう。ぼくは素知らぬ顔で、またポテトサラダを口に運んだ。
「おまえら、変わらないのな」
「なにが?」
成瀬の言葉に、ぼくと麻野は同時に尋ねた。成瀬は吹き出しそうになるのを堪えた後、咳払いをした。
「もっとギスギスするのかと思ってた。別れたんだろ?」
成瀬が言うと、麻野はぼくを数秒直視して、成瀬に視線をやった。
「不本意だがな」
「ぼくは本気だ」
「どうだか。俺は合意した記憶なんてない。あくまで保留だ」
分かったかと言いながら、麻野がぼくの髪を両手でぐちゃぐちゃに乱した。やめろよとその手を振り払うと、麻野はふんとニヒルに笑った。
やはり、麻野は鋭い。ぼくの言葉尻を割と正確に捉えているようだ。
「お兄さん、悲しんでたんじゃない? 有川のこと、すごく気に入っていたみたいだし」
「知ってるの?」
「うん、図書館で時々会うんだ。綺麗な顔をして、俺でもびっくりするほどえげつない本を無心で読んでるんだぜ」
「なんの本だ?」
「えっと‥‥。俺が見かけたときは、世界で過去に実在した、死刑とか拷問のやり方を記した本だったと思う」
成瀬がそう答えると、麻野は深く溜息をついて、頭を抱えた。
「だからあの馬鹿、昨日俺にお仕置きだと証して髪を切ったのか」
「それは女性限定だろうにな」
また麻野の髪を触りながら、ぼく。麻野は鬱陶しそうにぼくの手を払いのけた。
「とっとと社会復帰してくれれば、そんな物騒な本を読む暇がなくなるだろうにな。‥‥つーか、そんな本を読んでいたってことは、かなり日本語をマスターしてきたっぽいな」
「うん、前は輸入版とかが置いてあるスペースに生息していたけど、いまは普通の書籍のところにも進出してきているからね」
生息とか進出とか、おまえは雪弥さんをなんだと思っているんだと突っ込むと、成瀬は雪弥さんのように両手を広げ、肩を竦めた。
「新種の生物だろ、あれ」
「アサノユキヤっていう?」
麻野が言うと、成瀬は吹き出して、「そうそう」と言った。
「得意技はお姉さんほいほいかな。大体お兄さんの見た目に惚れるけど、観察していたら行動がいちいち可愛いんだ。図書館のお姉さん方は、佐和くんのお兄さんにご執心だぞ」
「そういえば、この前はタルトを貰って帰ってきていたな。そうか、あいつモテるのか」
納得したように麻野が呟く。けれどどこか面白くなさそうなのは気のせいだろうか。お兄さんが自分の知らないところでなにをしているのか、かなり気にしている様子だ。
「雪弥さんの社会復帰に提案なんだけど、家庭教師なんてどうかな?」
「家庭教師? あの引きこもりに勤まると思うか?」
「やってみなければわからない。雪弥さんは優しいし、辛抱強い。日本語のチョイスはどうかと思うところもあるけれど」
「それ、いいんじゃない?」
成瀬が言った。
「なんでおまえが同意する」
麻野が成瀬を睨みながら。成瀬は「いいじゃん」と軽く言って、麻野のほうに身を乗り出した。
「俺の一番下の妹が、今度受験なんだ。文系じゃないから結構苦戦してるみたいでさ。塾はめんどくさいって言っているし、丁度いいなあって思って」
「いつみか。雪弥さんに手を出しそうで怖いな」
「大丈夫だろ。あいつはどちらかと言うと佐和くんのほうが好みだろうし」
「俺はガキに興味ねえよ」
麻野が不満そうに言う。すると成瀬は少しムッとしたように唇を尖らせて、「いつみはかわいいんだぞ」とのたまった。可愛いのは認めるが、甘やかされすぎて性格は悪いだろうと心の中で呟く。たまには兄の威厳を見せたいというのが成瀬の本音だろう。
「頼むよ、佐和くん。一度でいいからいつみに『お兄ちゃんのおかげよ』って言ってもらいたいんだ」
「切実な悩みだな。現実的にありえない」
「どれだけ実の妹に虐げられてるんだよ、おまえ」
麻野が少し呆れたように言う。はじめこそ渋っていたが、成瀬の熱意に――基、情けない姿に同情したのだろう。麻野は「わかった」と言って、肩を竦めた。
「雪弥に聞いてみる。後で結果をメールするわ」
「さすが佐和くん! 男前!」
「それより、なんで主役を降りたんだ?」
ぼくの言葉に、麻野は面倒くさそうな顔をした。なにも言わず、チャーハンを頬張る。ぼくはポテトサラダとスクランブルエッグを交互に食べながら、麻野の言葉を待った。
しばらくの間無言だった。けれど麻野は諦めたように息を吐いて、ぼくを睨んだ。
「行島だ」
「行島?」
「俺が役を取ったとかぎゃんぎゃんうるせえから、こっちから降りてやったんだ。どうせ辞めるつもりだったし」
「やめる? 芝居を? 劇団を?」
「両方」
ぶっきらぼうに言い放ち、麻野がまたチャーハンを頬張った。
麻野が芝居をやめたがっているなんて初耳だった。成瀬を見ると、成瀬は首を横に振った後、「直接聞け」とだけ言った。
「理由は?」
「飽きた」
チャーハンを咀嚼しながら、麻野。
「それだけ?」
「それだけ」
今度は成瀬が溜息を吐いて口を尖らせた。
「佐和くん、正直に言え」
「うるせえ、俺はいつも正直だ」
「言えよ。なんなら俺は耳を塞いでおいてやる」
茶化すように成瀬が言う。そして成瀬が耳を塞ぐと、麻野は舌打ちをして成瀬を睨んだ。
「俺のせいで集が泣くのを見たくない」
麻野がぼそりと言った。
「は?」
なんだそれは。呆気に取られたぼくが眉間に皺を寄せて言うと、麻野はムッとしたようにぼくを睨んだ。
「だから、そもそもこれは俺のせいで‥‥」
「馬鹿か、おまえ。今日び少女マンガでもそんなセリフは聞かないぞ」
「俺は集と離れたくない」
「芝居の脚本の読みすぎで頭がおかしくなったか?」
ふんと鼻で笑いながら揶揄すると、麻野はぼくの後ろ髪を掴んだ。無理やり麻野のほうに顔を向けられる。麻野の目は本気だった。
「スカウトを断った。地方公演のある芝居には参加しないとごねた。だからオーナーに睨まれている」
「それはぼくの為か?」
「そうだ」
「ぼくの身にこれ以上なにも起こらないよう、自分が身を引いた。概ね合っているか?」
「ああ」
麻野がぼくの髪から手を離す。そしてまたチャーハンを頬張ったのを確認して、ぼくは麻野の足をだんっと踏みつけた。
「いって!」
麻野の短い悲鳴が上がる。
「おまえの馬鹿さ加減はプレミア物だな。ぼくの言った意味をまったく分かっていない。一度雪弥さんのスタンガンを食らってみるといい。もしかすると頭の回路が正常に戻るかもしれないな」
ぼくは立ち上がり、鞄を肩に掛けた。
「そのひよこ頭に免じて、ぼくを見縊ったことは許してやる。もう一度よく考えて出直して来い、麻野」
そう言って、ぼくは麻野の声を無視して、学食を後にした。
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