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第21話

 ――10月上旬。以前ぼくが提案したとおり、雪弥さんはいつみの家庭教師をすることになっていた。  さすがにネイティブなだけあって、いつみの英語の成績は鰻登りで、雪弥さんも病院以外でも外出するようになり、麻野が言っていた雪弥さんの更生計画は最良の形で成功した。  けれど、それから10日くらいしたある日、ぼくと美術館めぐりをしていた麻野の携帯に、雪弥さんが倒れたという連絡が入った。  幸いただの喘息の発作ですぐに退院することができたが、あまり元気がないと麻野が言う。いままで好きだった海外ドラマのBDにも見向きもしなかったそうだ。  雪弥さんが退院した2日後、ぼくは麻野のうちを訪ねていた。麻野はぼくを家の中に招き入れると、雪弥さんの部屋の前まで連れてきた。 「本当に前と違うぞ」 「わかってる」  ぼくは雪弥さんの部屋のドアをノックし、部屋に入る。ベッドで眠っている雪弥さんの肌色は青白く、やつれている。麻野は雪弥さんが眠っているのを見て、ぼくの肩を叩いた。 「漸く眠ったんだろう、悪い、放っておいてやってくれ」 「雪弥さん、どうしたの?」  雪弥さんの部屋を出ながら麻野に尋ねると、麻野は小さく首を横に振った。 「よくわからん。明が言うには心因性らしいな。ほとんど食べないし、あまり寝てないみたいだ。こんなことなら外に出すんじゃなかった」  ガシガシと頭を掻きながら、麻野。ぼくがなにがあったのかと尋ねたが、麻野はわからんというだけだった。 「雪弥さんはなにか言っていたのか?」 「なにも。こんな雪弥は久々に見る。あいつの顔を見て以来だな」 「あいつ?」 「昔、家に下宿していたヤツ。雪弥のみっつ上で、英語がしゃべれるから雪弥がよく懐いていたんだ」 「もしかして、雪弥さんってそいつになにかされた?」 「知ってるのか?」 「直接は聞いていない。でも前にそれらしいことは言っていた」  麻野は舌打ちをして、肩を竦めた。さすがにブラコンだなと呟いたら、麻野から頭を叩かれた。 「今度雪弥に手ぇ出したらただじゃ置かないって釘をさしていたし、越してくる前の話だ」 「とすると、成瀬のうちからの帰り道で嫌なことがあったっていう線が濃くなるのか」  ぼくがぼそりと言ったのを、麻野は聞き逃さなかった。 「啓の野郎、知ってるくせに黙ってやがったのか?」  麻野がどすのきいた声で言う。まだなにかがあったと決まったわけじゃないと冷静に突っ込んだが、麻野は譲らなかった。 「なんかあったんだ。じゃないと雪弥が落ち込むわけがない」  「啓め、見つけて吐かせてやる」と、麻野。ぼくは落ち着けと諌めたが、まったくの無駄で、出て行ってしまった。猪突猛進男めと本人がいないのをいいことに吐き捨てたとき、雪弥さんの部屋のドアが開いた。 「雪弥さん」  雪弥さんはぼんやりした表情でぼくを見て、ふらふらと部屋から出てきた。そしてぼくにもたれかかると、ぼそりと言った。 「おなかすいた」  雪弥さんのおなかが盛大に鳴ったのを聞いて、ぼくは笑いを堪えられなかった。 「これでいいですか?」  雪弥さんの前にオムライスを差し出すと、雪弥さんはぱあっと表情を明るくさせた。そういえばスプーンを付け忘れていたことに気付き、雪弥さんを呼ぶと、雪弥さんはすでにオムライスを頬張っていて、リスのように両頬を膨らませてぼくを見た。 「ちょっ、手がケチャップだらけじゃないですか! 食べるときくらい普通に食べてくださいよ。犬食いはやめてください、行儀が悪い」  ぼくは慌てておしぼりで雪弥さんの手を拭いた。そのままにしておいたら、雪弥さんは服で手を拭きかねない。雪弥さんは静かにオムライスを咀嚼している。お皿の上のオムライスは、雪弥さんの歯型が綺麗についていた。 「落ち込んでいた理由は? 口の周りもケチャップだらけです」  ぼくは指摘し、おしぼりを手渡す。雪弥さんはオムライスを嚥下して、おしぼりで口の周りについたケチャップを拭き取った。 「寝たら忘れた」  案の定というべきか。雪弥さんの答えに、ぼくは溜息をついた後、メガネの位置を直した。 「麻野が心配していますよ」 「佐和? そういえば、見てないなあ」 「雪弥さん、しっかりしてください。ほら、ちゃんと起きて」  ぼくはまだ寝ぼけていると判断し、雪弥さんの肩を叩く。雪弥さんはふあっと大きくあくびをして、目を瞬かせた。 「外でなにかあったんですか?」  雪弥さんはきょとんとした顔をして、首を傾げた。そのあと、ぼくが渡したスプーンでオムライスをすくい、顔に似合わず豪快に頬張る。誤魔化したなとわかったが、敢えて突っ込まなかった。 「それから、いつみの家庭教師はどうするんです? 受験が終わっても、雪弥さんさえよければ高校に入学した後も続けて欲しいって言っていましたけど」  もぐもぐと口を動かす雪弥さんに尋ねる。雪弥さんは首を横に振った。 「やめる……ってことですか?」  うんうんと小さく頷く。ぼくが雪弥さんの言いたいことを当ててしまうからだろうか。雪弥さんはなにも言わずに、またオムライスを頬張った。 「麻野、きっと怒りますよ」  雪弥さんはなにも言わない。十分に咀嚼したオムライスを嚥下し、ミネラルウォーターを口にした。 「理由くらい教えてください。なにも知らなかったら、麻野からの質問をフォローしきれない」 「家庭教師なんておれには向いていないから」 「え? でも、雪弥さんのおかげでいつみの成績が上がったって」 「塾にも行っているみたい。おれとは関係ないかもしれないよ」  言って、雪弥さんがオムライスを頬張る。あまりにも単純すぎる答えに、ぼくはなんとなく納得がいかなかった。雪弥さんはそれだけの理由でやめるだろうか? 確かに少し飽きっぽいところがあるようだが、いつみともあんなに仲がよさそうなのに、急に気持ちが変わるようなことがあるだろうか。 「本当にそれだけですか?」  雪弥さんはオムライスを頬張ろうとしていたが、その手を止めて、スプーンをお皿に置いた。 「嫌なヤツに会ったんだ」 「前に言っていた学生さんですか?」  雪弥さんが力なく頷く。 「おれに気付いて追いかけてきたから、撃退した。でも、あの顔を見たら思い出してしまって、疲れた」  言って、雪弥さんがソファに凭れ掛かった。麻野が言うように、本当に元気がない。ぼくが「大丈夫ですか?」と尋ねると、一旦頷いたものの、しばらくして首を横に振った。 「ぼくじゃ、力になれませんか?」  雪弥さんは少しの間ぼくを見て、口元だけで笑った。 「気持ちだけ受け取るよ。ありがとう。でも、たぶん君じゃ無理だ」  ぼくは雪弥さんのセリフの意味が解らなかった。ぼくじゃ無理? ぼくと雪弥さんが同じ側だからだろうか?  そういえば以前、雪弥さんが麻野はする側だからぼくたちの気持ちがわからないといっていたことを思い出した。 「だけどぼくも、雪弥さんの力になりたい」  そう言うと、雪弥さんは困ったように笑って、首を横に振った。 「無理だよ。だって集くんは、佐和をおれに貸してくれないでしょう?」 「え?」  最近麻野がぼくのアパートに入り浸っていることを暗に責めているのだろうか? そう思ったが、雪弥さんの言葉の焦点がそこではないことに気付いた。 「協力できるなら、佐和を貸して。また、佐和に抱いてもらうから」 「雪弥さん?」 「ほら、無理でしょう? 君のそんな顔を見たくないから、言いたくなかったのに」  雪弥さんがまた困ったように言った。ぼくはどう返せばよいのか、戸惑った。ぼくが協力をするといえば、麻野は雪弥さんを抱くのだろうか? さっきのセリフは、過去にもこんなことがあったのだと言っているようなものだ。 「兄弟でって、まずくないですか? いろいろと、考えてしまうっていうか」 「同性同士となにが違うの? 近親間だから? それは単に血縁同士だとDNAに劣勢が現れやすくなるからまずいっていうことでしょう? おれも佐和も男だから、生殖については問題ないと思うのだけど」 「そ、そういう意味じゃ、なくて」  ぼくは言葉に詰まってしまって、それ以上なにも言えなかった。雪弥さんにはストレートに言ってしまったほうがいいのはわかっている。けれど、それを明確にあらわす言葉が見つからなかった。 「顔を合わせると気まずいんじゃないかとか、親にばれるとまずいんじゃないか‥‥ってことが言いたいんでしょう」  ぼくの言いたかったことを雪弥さんが的確に突いてくる。ぼくが頷くと、雪弥さんはまた口元だけで笑った。 「それなら佐和は、おれや明さんに背徳感を懐いているってことになるね。3年前からずっと」 「3年前?」  雪弥さんたちがここに越してきた頃だ。ぼくは雪弥さんの言っていることがよくわからず、問い返してしまった。すると雪弥さんはふうっと大きな息を吐いて、ぼくに抱きついてきた。 「わっ、雪弥さん?」 「君、実の親から恨まれたことはある? 生きるために自分で体を売って稼げとか、出来ないなら殺すって言われて、殺されかけたことはある?」  雪弥さんの言葉にぞっとして、ぼくは首を横に振った。親に出来損ないと怒鳴られたことはあっても、そんな冷たい言葉を浴びせられたことはない。  もしかしていまのは、雪弥さんが実際に言われたことなのだろうか? ぼくがためらいがちに雪弥さんを呼ぶと、雪弥さんはうふふと悪戯っぽく笑って、ぼくの額にこつんと額をくっつけた。 「集くんがつくるパンケーキが食べたい」 「え?」 「材料ならあるよ。昨日ごねたから、佐和が買ってる」  ぼくから離れながら、雪弥さんが言う。雪弥さんの変わり身の早さには呆れる。急に態度を変えたのは、麻野の足音がしたからだろう。ぼくはメガネを掛けなおし、麻野に詮索されないように居直った。 「いいですよ。その代わり、ちゃんと食べてくださいよ」  雪弥さんが満足そうに笑う。交渉が成立したとき、麻野がリビングに入ってきた。 ****  雪弥さんはぼくが作ったパンケーキを食べた後、リビングのソファで眠っていた。口元についた食べかすをティッシュで拭い、麻野が困ったような顔をする。ぼくは麻野にはあえてなにも言わず、自分が使ったフライパンなどの調理器具を洗っていた。 「一体なにを考えてるんだろうな、こいつ」  麻野がぼやくように言って、雪弥さんにブランケットをかける。ぼくは「さあ」とだけ答えて、洗い終えた調理器具を布巾で拭いていく。ちらりと麻野に視線をやる。麻野はなにかに気付いているような表情で雪弥さんを見つめ、溜息をついたあと前髪を掻きあげた。 「いつもそうなんだ。俺がなにを言ってもはぐらかす。暴れていた理由だって、未だにわからない」 「詮索しても無駄だと思う。たぶん雪弥さんは、誰にも言わない」 「だろうな。明の知り合いがいる心療内科に連れて行ったこともあるけど、精神的にはなんの異常もなし。だけど深い根があって、誰も信用しないって目をしているっていっていたっけ」 「でも麻野には懐いているじゃないか」 「振りだろ、振り。こいつは俺にだって心を開いちゃいないよ」  麻野の言葉はとても意外だった。ぼくにしてみれば、雪弥さんは麻野以外の誰にも心を開いていないように見える。ぼくにだっていろいろとよくしてくれるけれど、きっとそれはぼくが麻野の友達だからだ。  ぼくは使ったものを元の位置に戻し、手を洗い、リビングに戻った。 「結局、あとにも先にも、こいつが本音を言ったのはあの時だけだったんだよな」  麻野がぼやくように言った。 「あのときって?」  ソファに腰を下ろしながらぼくが問うと、麻野はがしがしと頭を掻いた。 「ここに引っ越してくることになる前、前に住んでいた家に下宿していた学生が、雪弥に乱暴していたのを見かけたんだ。だから止めて、そいつぶん殴って、追い出した。  そのときに雪弥は人が変わったみたいに喚いて、暴れて、どうしようもなかったから、雪弥に言われるままに抱いてやった。そうしたらその時に言ったんだ。自分は生まれてこなければよかった。死んだほうがいい。殺してくれって。  散々そう喚いた後、雪弥が泣きながら誰もぼくを愛してくれないって言った。そのあとは気絶したからな、本人も暴れたことを覚えていなくて、めちゃめちゃになった部屋を見て呆然としていたっけ」  そう邂逅していた麻野が、ぐっとこぶしを握ったのがわかった。 「こいつは昔から、誰にもちゃんと愛されてない。だから甘え方も知らないし、自分自身どうすればいいのかがわかっていない。だから雪弥の言うことは極力聞いて来たつもりなんだけど、そういう意味じゃなかったんだろうな」  ぼくはなにも言わなかった。雪弥さんが誰かに愛して欲しいと思っている気持ちは本物だ。だけどその誰かというのが麻野自身なのだと、麻野はわかっていない。 「兄弟でセックスって、抵抗なかった?」 「別に。兄弟がいるなんて5年前まで知らなかったし、そもそも雪弥を兄弟だと思ってみたことなんて一度もない」 「もし雪弥さんが麻野とセックスがしたいって言ったら、いまでもする?」  そう尋ねたら、麻野はふんと鼻で笑った。 「いまはしない。俺にはおまえがいる」 「じゃあぼくがいいと言ったらするのか?」  麻野は溜息を吐いて肩を竦めたあと、ぼくを見据えた。 「おまえがそうしろって言うなら」  今度はぼくが溜息をついた。 「ブラコンの閾値を越しすぎていて吐き気がする」  理解が出来ないとぼくが両手を広げながら言うと、麻野は短く笑った。 「いいよ、ブラコンでもなんでも。俺は雪弥を傷つけるやつを許さない。だから、俺なりの方法で誰にも愛されてないことはないってわからせてやるつもりなんだ」 「じゃあぼくが雪弥さんとイチャつくな、セックスもダメって言ったらどうするんだよ?」 「それなりの方法で雪弥に解らせる」 「無理だろ。雪弥さんは気持ちのいいセックスイコール愛って錯覚しているんじゃないか? だから自分を気持ちよくしてくれた麻野が好きだと思っている。麻野だけが自分を愛してくれていると思っている。違うか?」  麻野はどこか複雑な顔をした。けれど雪弥さんが言っているのはそういうことだ。ぼくは雪弥さんが眠っているのを確認して、さらに続けた。 「誰にも愛されていないって思っている人に、快楽以外の愛情を与えたところで心に響かない。ぼくだって、麻野にあんなことをされるまで、自分が誰かに愛されているなんて思っていなかった。無償の愛なんてものはただの錯覚で、愛を得るために代償として体を開く。そんなものだと思っていたのに、麻野は違った。  だけど雪弥さんはぼくなんかよりももっと深い傷を持っている。苛められていたとか、父親が馬鹿に厳しかったとか、そんな問題じゃないんだ。  もし麻野がいうセックス以外の別の方法で雪弥さんが愛されているんだって解らせるつもりなら、こんな小さなことで落ち込むな。うろたえるな。麻野だけは雪弥さんを決して見放さないんだってことを、堂々と見せ付けてやればいい」  ぼくがそう言うと、麻野はふっと笑って、ぼくの頭を両手でぐしゃぐしゃに乱した。 「言ってくれるじゃないか」 「雪弥さんの更生計画が順調にいっていたんで、変わりように少し引いているだろう?」  そう突っ込むと、麻野は少し気まずそうな顔をして、頷いた。 「別に前と変わりないじゃないか、いつもどおりの天然のふりをした確信犯の雪弥さんだ。確かに、少し不安定なところはあるかもしれない。  でも言わせてもらうが、ぼくみたいな人嫌いの引きこもりを靡かせたのはおまえなんだからな」  麻野はぼくを見てそっと笑うと、ぽんぽんと頭を叩いた。さっきよりは少し顔付きがマシになったような気がする。ぼくはさらに続けた。 「雪弥さんのためにも、例のやつとは関わらないほうがいい。雪弥さんは強いし、なにかあれば自分で対処する。もしも雪弥さんが実害を被ることがあったならべつだが、そうでないのなら敢えて麻野が手を出すまでもない。逆に雪弥さんが恨みを買われたらどうする? ぼくの一件を忘れたのか?」  麻野は複雑そうな面持ちで頭を掻いて、解ったと呟いた。  麻野がぼくに近づいてきて、頬にキスをした。 「ちょ、麻野。ここ、リビングっ」 「かまうかよ」  短く言って、麻野がぼくの唇を塞ぐ。すぐ横のソファで雪弥さんが眠っているのに、なにをしようとしているんだ。ぼくが麻野の背中をバンバン叩くと、ひとしきりぼくの口腔をむさぼったあと、キスをやめた。 「なんだよ」  ぐいっと口元を拭いながら、麻野。ぼくがげほげほと咳き込んでいるのをみて、慌ててぼくの背中を擦った。

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