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第23話

「明は今日は戻ってこないらしい」――夕方、麻野の携帯に届いたメールを見て、麻野が言った。明と呼んでいるのは、麻野のお母さんのことだ。明さんは総合病院の看護師をしているのだと麻野から聞いたことがある。「大変だな」とぼくが言うと、麻野は「どうせ小さい子供を抱えた看護師が夜勤できなくなったとかで、シフトを変わったんだろう」と冷静に答えた。どうやら昔からよくあることらしい。だから麻野が料理を作ったり、結構こまめに家のことをしているんだなと納得する。  それから少しして目を覚ました雪弥さんが「おなかすいた」を連呼し、麻野がハンバーグを作ると言ったらおいしくないとごね始めたため、結局ぼくが作ることになった。つい数時間前にパンケーキを3枚くらい食べたというのに、雪弥さんの体は一体どうなっているのだろうか。  リビングでおいしそうにハンバーグを頬張る雪弥さんを横目に、ぼくはポタージュスープをすすった。正直あまり食欲がない。ぼくがマッシュポテトだけつついていると、誰かの視線を感じた。麻野だ。麻野が睨んでいる。ぼくは溜息をついて、睨み返した。 「なんだ?」 「きちんと食えよ、また倒れるぞ」 「わかってる。それより、おまえはあれをとめなくていいのか?」  ぼくが指差した先には、明日も食べられるようにとよけておいた分にまで手を出している雪弥さんがいた。 「雪弥!」  麻野が呆れた顔で、咎めるように言った。雪弥さんは恨めしそうに麻野を見たあと、少し口を尖らせてハンバーグをひとつ自分のお皿に置いた後、トングをトレイに戻した。 「っとに、食い意地張りすぎだろ。確かに俺より集が作ったほうが美味いのはわかるけど」 「佐和が作ったらハンバーグじゃなくなる」  不満げに言った雪弥さんは、デミグラスソースをかけ、フォークで一口大にしたハンバーグを頬張った。この細い体のどこに消えていくんだろうと思いながら眺めていたら、雪弥さんは子供みたいに笑った。 「おいしい」 「そりゃそうだろうよ」  冷たく言って、麻野もハンバーグを頬張った。 「佐和のハンバーグはぱさぱさで、ぜんぜんおいしくないんだよ。この前のは焦げてた」 「うるせえな。ぶーぶー言ってんじゃねえぞ、豚か?」 「豚じゃないよ。それに本当のことじゃない」 「豚じゃねえなら黙ってろ。っとに、舌ばっかし肥やしやがって」  麻野がイラついたように言うと、雪弥さんはムッとしたような顔をしたあと、麻野の足を蹴ったらしい。麻野が短い悲鳴を上げて、雪弥さんを睨んだ。 「俺が集を連れてこなきゃ、今日は俺が作ったハンバーグにしかありつけなかったことを忘れてねえよな?」  雪弥さんはあからさまに不満そうな顔をしたまま、名残惜しそうにハンバーグをひとつずつ頬張っていた。麻野の言ったことが正論過ぎて反論できないのだろう。ぼくは麻野と雪弥さんのやり取りに思わず苦笑した。 * * * * *  夕飯の片付けが終わったあと、ぼくは先にお風呂に入らせてもらった。家に帰るつもりだったが、雪弥さんが帰るなとごねたので帰るに帰れなくなってしまったというのが本音だが。  麻野のうちのバスルームは妙に広い。麻野が長身だから、麻野でもゆったり入れるようにしてあるのだろう。  お風呂に浸かり、気持ちよさに溜息をついたときだ。バスルームのドアが開いて、誰かが入ってきた。メガネを外しているから、誰かがわからない。シルエットから察するに、雪弥さんだろうか。そう思ったとき、雪弥さんの声がした。 「あ、ごめん。入ってたんだ」  そう言いながらも雪弥さんがバスルームのドアを閉める。出て行かないのかと思ったが、雪弥さんだから仕方がない。別にいいかと思っていると、シャワーの音が聞こえてきた。  シャンプーの香りが漂い始め、髪を洗っているんだなと解った。ぼくは目を閉じて、お風呂の中でリラックスする。雪弥さんも特に話しかけてくる様子はないしと思いながら、ふうっと溜息を吐いたときだ。シャワーのコックをひねる音がして、雪弥さんがぼくをよけるように浴槽に入ってきた。  ぼくと雪弥さんが入っても、まだ少し余裕がある。うちのアパートとは大違いだなと心の中で呟いた。雪弥さんがふうっと気持ちよさそうな息を吐いて、背伸びをしたとき、ぼくはぎょっとした。視力の悪いぼくでもはっきりとわかるほどの火傷の痕が見えたのだ。背中から右の脇腹にかけて、かなりの広範囲だ。 「それも、昔の痕ですか?」  雪弥さんはきょとんとしたが、そっと笑って頷いた。 「うん。よく覚えてないけど、小さいときに出来た痕みたい。  そういえば、佐和以外でこれを見たの、集くんが初めてかも」  見たというか、見えたというか。確かに普通の状況であれば雪弥さんの裸を見ることなどないだろう。そう思っていたとき、雪弥さんがぼくの肌に触れた。 「ここ、どうしたの?」 「え?」  ここと言いながら、雪弥さんがぼくの左の鎖骨の下を指でつつく。ぼくはなんのことかが解らなくて、首を傾げた。 「なんか痕があります?」 「うん、虫に刺されたみたいな痕。赤くなってる」 「え? 蚊、かな?」  言いながらそこをぼりぼりと掻いてみる。すると雪弥さんが吹き出した。 「キスマークじゃない、それ」 「……はっ!?」  ぼくは慌てて、目を細めてそこを見たが、ぼやけていてよく見えない。とすると、麻野だ。恥ずかしさに居心地が悪くなってくる。雪弥さんはぼくの反応を笑うだけだ。 「耳まで赤いよ。別に恥ずかしがることでもないのに」  キスマークなんて普通だよと、雪弥さん。まさかつけられているとは思わなかったから、意表を突かれた。 「おれが家を出たいって言ったら、佐和、怒るかな?」  雪弥さんが唐突に切り出してきた。ぼくは少し考えたが、あまり様子を伺うのも、タイミングを計るのも得策ではないと踏んだ。 「理由によると思います。たぶん、雪弥さんの存在が迷惑なんじゃないかとか、そういう類の理由だったら怒りますよ。麻野だけじゃなく、ぼくも」  そう言ったら、雪弥さんはぶくぶくとお湯を弾かせた。 「ぼくが言うのも変な話ですが、麻野は別に雪弥さんのことを邪魔だとは思っていない。口は悪いし、態度はでかいけど、雪弥さんのことを大事に思っているのは間違いないありません。  雪弥さんは麻野からの気持ちをなにも感じませんか?」  ぼくは単刀直入に尋ねた。雪弥さんにはそれが一番手っ取り早いからだ。  雪弥さんはなにも答えなかった。ぶくぶくとお湯を弾かせたり、手で水鉄砲をしたりと、まるでごまかしているようにも見える。少しの間黙っていたが、雪弥さんはふうっと息を吐いて、ばしゃばしゃと顔にお湯をかけた。 「どうすれば、いいのかな?」  雪弥さんが逆に尋ねてくる。それがなにを意味しているのかは解らない。ぼくは雪弥さんの次の言葉を待った。 「佐和たちが、遠くに行くのが怖い」 「それは麻野や明さんの優しさに触れて、それがなくなるのが怖い‥‥という意味ですか?」  多少飛躍しているかもしれないが、おそらくそんな意味だろう。雪弥さんは少し考えた後頷いた。 「もし佐和や明さんがいなくなったら、おれはまた一人になるんだなって、そう考えたらすごく怖くて、やりきれない気持ちになるんだ。おれに優しくしてくれているのだって、俺がかわいそうだからだって、そう言われて」 「もしかして、雪弥さんに乱暴したヤツですか?」  雪弥さんは肩を抱いたまま、小さく頷いた。 「3年前にも言われたことを、また言われた。まだ家族ごっこをしているのかって。どうせおれに同情しているだけだって。佐和も、明さんも、そんな人じゃないってわかってる。それなのに、その言葉が消えないんだ」  雪弥さんの声がだんだんか細くなり、震えてくる。泣いているのだろうか? 蒸気と視力の悪さのせいで表情が良くわからない。 「どうせまた捨てられるって、そう言われたとき、すごく変な気持ちだった。ここらへんがすごく痛くて」  ここらへんと、雪弥さんが胸のあたりに手を当てながら言う。 「やり場のない気持ちでいっぱいで、そいつを殴ってやった。けど、実際そうなのかもしれないって思ったら、佐和と明さんの顔、見たくなくなっちゃった」  すんと雪弥さんが鼻を啜る音がした。声の震え方から察するに泣いている。ぼくはなんだか遣る瀬無い気持ちになった。  逆上せたらいけないからと、ぼくは雪弥さんを促して、バスルームを後にした。脱衣場に出て体を拭き、下着を穿きながら、雪弥さんの言葉について考えた。  麻野や明さんが雪弥さんを捨てるなんて、どういう発想なのだろうか。麻野が言っていたように、雪弥さんが麻野をも信じていないと言っていたのはこれなのかもしれない。そう考えると、ぼくはなんだかモヤモヤしてきて、バスタオルで濡れた髪をガシガシと乱暴に拭き、雪弥さんを見た。 「あの、正直に言って、どう答えたらいいかが解りません。でもこれだけは言えます。麻野と明さんが雪弥さんを捨てるなんて有り得ない」  ぼくがそう言ったとき、雪弥さんがこちらを振り返ったのが解った。 「昔仲が良かったとはいえ、ひどいことをしたヤツの言葉を信じるんですか? そんなことがあっても支えてくれたのは、麻野と明さんなんじゃないんですか?」  詰め寄るように言ったが、雪弥さんはなにも言わなかった。手を少し伸ばせば触れられる距離に雪弥さんがいる。雪弥さんはぼくから目を逸らして、少し俯いていた。 「でも、おれは佐和たちを信じきれない」  雪弥さんの言葉に、ぼくは「ああ、やっぱりな」と思った。麻野の言うとおりだ。雪弥さんははじめから麻野にも心を開いてはいなかった。麻野の気持ちを思うと胸が痛い。でもぼくには雪弥さんの気持ちもわかる。ぼくはバスタオルで髪を拭くふりをして、目じりに溜まった涙を拭った。 「佐和は優しいから受け入れているふりをしているだけだと思う。おれが腹違いの兄だって知ったとき、佐和はすごい顔をした。悲しそうな、でも、どこかに怒りを秘めているような、そんな顔。いまでも覚えてる。  ずっと虐待を受けていたおれを引き取ることを決めてくれた明さんには感謝しているよ。父を説得してくれた佐和にも。それでも、いつか捨てられるんじゃないかって、信じ切れない自分がいて、すごく、つらい」  メガネをかけて、雪弥さんを見る。雪弥さんはなんだか複雑そうな顔をしていた。濡れた髪をタオルで拭き、どこか諦めたように笑う。ぼくが雪弥さんにそんなことはないと言おうとしたとき、脱衣所のドアがノックされた。 「雪弥、いるのか?」 「いるよ。集くんとお風呂はいってた」  麻野に呼ばれ、雪弥さんが脱衣所を出て行く。ぼくはその背中と言葉に篭められた届かない声が痛くて、その場を動けなかった。 「集?」  麻野が不審そうにバスルームを覗いた。ぼくを見た麻野がぎょっとしたような顔をする。 「なに、泣いてるんだよ?」  麻野に言われてぼくは初めて自分が泣いていることに気付いた。拭っても拭ってもとめどなく涙が溢れてくる。ぼくは声を押し殺して、麻野に抱きついた。 「集?」  麻野の心配そうな声がする。そうだ、ぼくには麻野がいる。成瀬がいる。少ないけれど友達と呼べる存在がいる。だから苛められていたときも、行島たちに暴行されたときも、耐えることができた。でも、雪弥さんは? 心から安心できる人が誰もいなくて、ずっと一人でつらい気持ちに耐えてきたのだろう。  ぼくならどうだ? 精神的な暴力。言葉の暴力。身体的な苦痛。きっとぼくには耐えられない。雪弥さんのように笑ってなどいられない。ぼくが以前から感じていた、雪弥さんの笑顔の裏にあるものは、これだったんだ。それが解って、麻野をとられなくて済むとか、取り越し苦労だったとか、いつものぼくならそんな安易な気持ちで片付けるはずだ。けれど、雪弥さんの傷は想像以上にヘヴィで、ぼくの知らない現実を突きつけられたようで堪らなかった。 「雪弥になんか言われたのか?」  ぼくは首を横に振る。最早声すら出なかった。こどもみたいにしゃくりあげるぼくの背中を撫でながら、麻野が心配そうに覗き込んで来たが、言葉をつむぐことが出来ない。ぼくは雪弥さんの触れてはいけない傷に触れてしまった。その件に関しては言わなければよかったと後悔したが、自分自身なにがこんなに悲しいのか、どうして泣いているのか、よくわからなかった。

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