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第26話

 麻野の胸に顔を埋めて、麻野の感触を堪能していたときだった。部屋のドアがノックされた。ぼくが慌てて麻野から降りたのと同時に、ドアが開いた。ドアの隙間から顔を覗かせたのは雪弥さんだ。 「なんだよ、雪弥。停戦協定でも結びに来たか?」  麻野が挑発的に言う。そんな麻野をじろりと睨んで、雪弥さんはべっと舌を出した。 「俺の小説取って。佐和の部屋に忘れていったのがあるから」  そう言ったあと、雪弥さんはぼくがいることに気付いて、ぱあっと表情を明るくした。 「集くん、来てたんだ」 「おい、入るなよ」  部屋に入ってこようとする雪弥さんに冷たく言って、麻野は机に置いてあった小説を雪弥さんめがけて投げた。雪弥さんがそれをタイミングよくキャッチする。 「返しただろ、それ以上進んでくるな。宣戦布告を破棄するなら別だがな」  麻野が言うと、雪弥さんはあからさまに不満そうな顔をする。雪弥さんが小説を投げつけてきそうな雰囲気が漂ってきて、ぼくは思わず麻野の肩を掴んだ。 「やめろって。カーディガンくらい、誕生日に買ってやるから」 「え、マジで? やった」 「佐和、ずるい! あのカーディガンに穴が開いたの、佐和が悪いんだよ。佐和が俺を追いかけてくるから、レバーハンドルに引っかかったんじゃない」  雪弥さんが麻野を非難するように言う。どっちもどっちだと心の中で呟いて、ぼくは頭を掻いた。 「わかりました。雪弥さんにもプレゼントします」 「パンプキンパイがいい」  なにがいいですかと聞くよりも早く、雪弥さんが言う。どうやらチーズスフレから鞍替えしたらしい。いまのお気に入りはパンプキンパイなのかと思いながら、わかりましたと頷く。雪弥さんは弾けんばかりの笑顔を浮かべたあと、麻野に近づいた。 「な、なんだよ?」  警戒するように、麻野。すると雪弥さんは麻野の両手をとって、ぶんぶんと上下に振った。 「仲直り。平和条約を結ぼう」 「わかったわかった、譲歩するよ。終戦な」  雪弥さんは鼻歌でも歌いだしそうなくらい上機嫌で、「大手町においしいパティスリーがあるみたいだよ」とぼくに言う。そこのパンプキンパイがおいしいとテレビか雑誌で見たのだろう。  雪弥さんが嬉しそうに笑ったとき、部屋のドアがノックされた。 「佐和くん、雪弥くん。礼さん、そろそろ出発するみたいだから、降りてきてもらえる?」  明さんだ。麻野は数秒ぼくを見たあと、ぽんと頭に手を置いた。 「ちょっと待ってろ」  言って、雪弥さんと共に部屋を後にする。ドアの隙間からぼくが見えたからだろう。明さんは麻野たちが階段を下りたあと、静かにドアを開けた。 「ごめんね、集くん。せっかく来てくれたのに」 「あ、いえ。こちらこそ、急にお邪魔してすみません」 「そうだ、礼さんがお土産にラスクを買って来てくれたの。あとで持ってくるね」  そう言って明さんは部屋のドアを閉め、麻野の部屋をあとにした。  なんだか妙な気分だった。  あんなに仲がよさそうなのに、麻野と雪弥さんは表面上で取り繕っているだけかもしれないと思うのが嫌だ。ぼくのうちのように常にギスギスしていて、本当の親子かどうかもわからないほど仲がよくないのなら別だ。明さんは雪弥さんにも、麻野にも優しい。分け隔てないのが傍目にもよくわかる。それなのに、――。  ぼくはふと思いたって、麻野の机の上を見た。コバルトブルーのガラスで作られたフォトフレームに、まだ小さな麻野と、明さんとお父さんとが写っている写真が入っている。その脇に置いてある木製のフォトフレームには、雪弥さんも一緒に写っている。写真の中の雪弥さんは、イチゴタルトのホールケーキを囲んで、とても嬉しそうに笑っていた。お父さんと麻野は全然似ていない。お父さんは少し面長で、目は切れ長で涼しげだ。どちらかというと、雪弥さんのほうがお父さん似なのかもしれない。  麻野の机の上に、古びたアルバムが置いてあった。ぼくはそれに手を伸ばし、パラパラと捲った。雪弥さんと麻野が写っているものから、麻野が小さい頃のものまでが、丁寧に綴られていて、二人が本当に大事にされているのが伝わってきて、なんだか胸が痛んだ。なんだ、本当の家族みたいじゃないか。自分のことでもないのにホッとする。一番最後のページを捲ったとき、ぼくは目を見張った。  写真の空白の部分に、『佐和、生きてくれてありがとう』と、いままでとは異なる筆跡で書かれた一枚が張ってある。一枚だけ形体の違うそれは、インスタントカメラで撮られたものなのだろう。生まれたばかりの赤ちゃんを抱いているのは、明さんではない。頭や腕に包帯をした、麻野と同じ栗毛の、可愛らしい人だった。  時が止まったような気がした。鼻の奥がつんとする。その人が麻野を見つめる目が、とても、とても優しくて、なんだか切なくなってきた。  ぼくはアルバムを閉じ、メガネを外して目を擦った。成瀬の話が眉唾ではないというなによりの証拠だ。見なければよかったと後悔しながら、そのアルバムを睨んでいたときだった。部屋のドアが開く音がして、ぼくは反射的に振り返った。 「見たのか?」  麻野が声をかけてくる。ぼくはなんとなく気まずくて、麻野を見ることが出来なかった。  きっと怒られる。ぼくは麻野の気持ちを考えず、探るような真似をしていたのだから。ぼくはぎゅっと手を握り締め、息を呑んだ。 「‥‥ごめん」 「はあっ?」  やっとの思いで搾り出した言葉は、麻野から即座に非難された。 「なんで謝る必要があるんだよ? 俺は見たのかって聞いただけだ」  変なヤツだなと怪訝そうに麻野が言う。いつのまにか雪弥さんも入ってきていて、お父さんからのお土産だといっていたラスクをかじっている。 「うわっ、ぼろぼろこぼすな」  麻野が雪弥さんに「ゴミ箱持って食え」と言うのを聞きながら、ぼくは妙な罪悪感に苛まれていた。  麻野が養子だったら、麻野じゃないのだろうか? 麻野は麻野なのに、何故ぼくはそんな瑣末的なことにとらわれているのだろう。成瀬の言葉に惑わされすぎだ。あいつもぼくと同じくそんな瑣末的なことを気にしない性質なのに、なぜ嗅ぎ回っているのだろうか。ぼくは逆に、そちらに違和感を懐いた。 「そりゃそうと雪弥、いつみの家庭教師辞めるって本当か?」  不意に思い出したように麻野が雪弥さんに尋ねた。雪弥さんは気まずそうな顔をして、ラスクを頬張った。 「‥‥怖いから、もうやだ」  言って、雪弥さんが唇を尖らせる。麻野は深い溜息をついたあと、ソファに凭れ掛かった。 「せっかく親父だって喜んでるのに、しょうがねえヤツだな」  麻野が呆れたように言う。雪弥さんはなにかを言い淀んでいる様子だったが、ラスクを紅茶で飲み込んだあと、麻野のシャツを掴んだ。 「なんだよ?」 「だって、あいつがいるもん」 「あいつ?」 「‥‥康介」  雪弥さんが絞り出すような声で言った途端、麻野が驚いたような顔で体を起こした。そのまま雪弥さんの両肩を勢いよく掴んだ。 「なんで早く言わないんだ! なにかあってからじゃ遅いだろうが!」 「だ、だって‥‥。わからなかったんだ、顔も違ったし、前とは印象が違いすぎて」 「前に元気がなかったのは、もしかして本当にあいつに会ったからだったのか?」  あいつとか康介とか言っているのは、おそらく雪弥さんに乱暴した学生のことだろう。雪弥さんは少しの間を置いて頷いた。 「成瀬さんのうちからの帰りに、時々話しかけてくる人がいたんだ。成瀬さんのうちに初めて行ったときに俺が迷っていたら、道を教えてくれた。そのうち帰り道が同じだからって、少しずつ話ようになってきたんだけど、そのときからなんか妙にボディタッチが増えてきて、怖くなって。なんとなく、康介なんじゃないかって思うようになった。そしたらある日、いつみちゃんと塾まで一緒に行った帰りに、いきなり襲い掛かってきたんだ」 「そうしたらやっぱりあいつだった、って? そもそもなんで雪弥の居場所を知っていたんだ?」 「情報屋から情報を買った、ってことは有り得ないかな?」  情報屋の正体は成瀬しか知らない。そもそも4回生にいるといううわさが眉唾なら、その情報屋が4回生に扮して大学に紛れ込んでいる可能性も否めないのだ。麻野は少し難しい顔をしたまま腕を組んで、ぼくを見た。 「集、啓を呼べ」

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