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第30話

 翌日、ぼくは麻野家のリビングで朝食兼昼食を頂いていた。まだ腰が痛い。尻がジンジンする。フレンチトーストを前に唸り声を上げたとき、雪弥さんが心配そうに覗き込んでいた。 「大丈夫? もう、佐和が無茶するからだよ」  雪弥さんが小声で麻野を非難する。麻野はふんと鼻で笑うだけで、明さんが作ったカルボナーラを頬張った。 「あら、怖いわね」  近所じゃないと明さんが言う。明さんの視線は、テレビに向いている。麻野が「なに?」と尋ねると、明さんが言った。 「桑島くん、捕まったって。まあ、窃盗までしてるなんて。A大まで出たのに、どうしたのかしら」  「人は見た目や学歴じゃ決められないわね」と、明さん。そのニュースを聞いたとき、麻野はどこかほっとしたような顔をして、雪弥さんを見た。 「よかったな」 「‥‥うん」  雪弥さんが笑う。脅威がなくなって、これで解決だといっていた成瀬の言葉の意味が判ったような気がする。麻野は雪弥さんの頭を少し乱暴に撫でたあと、ぼくを見た。 「勝利の焼肉にでも行くか? 雪弥つれて」 「やきにく?」  きょとんとした顔で雪弥さん。麻野は「集の好物なんだ」と簡単に説明する。雪弥さんはどうやら焼肉を食べたことがないらしい。ただ肉を焼くだけの料理だと麻野が雪弥さんに説明すると、雪弥さんは「バーベキューみたい」と言った。 「焼肉に対する冒涜だ。謝れ」  フレンチトーストを少しずつ口に運びながら。麻野はぼくのセリフに吹き出した。 「なんだよ?」 「焼肉を馬鹿にするな。焼き方ひとつ、タレひとつで食感も味も変わる奥の深い食べ物なんだ。焼肉を馬鹿にするなんて万死に値するぞ」 「馬鹿にしてねえよ。本当のことだし。高い肉を焼きゃ、なにしたってうまいだろ」 「愚の骨頂だな。安い肉をうまく焼いて如何にして高い肉のようにして食べるか。これが焼肉の真髄だ」 「意味わかんねえ。焼肉論議はいいから、とっとと食えよ」  麻野が呆れたように言う。ぼくはムッとしたが、麻野に言われたとおり、フレンチトーストの残りを口に運ぶ。ぼくがそれを口に入れたのを見計らって、麻野がお皿とナイフを手にし、ぼくが持っていたフォークを引き取った。 「明、俺が洗うから、早く食べて寝ろよ。夜勤明けだろ?」 「でも、集くんと遊びに行くんでしょ?」 「いいって。皿洗いなんか10分も掛からねえし」  言って、麻野が明さんに早く部屋に帰るよう促す。麻野がしっしっと手で追い払うような仕草をすると、明さんは嬉しそうに笑って、麻野の肩を叩いた。 「ありがとう。じゃあお願いね、佐和くん」 「夕飯は?」 「いい、起きたら作るから」  そう言って、明さんがリビングを後にする。雪弥さんは麻野と明さんのやり取りを眺めたあと、うふふと笑った。 「なんだよ、気持ち悪い」 「えー、だって、佐和が嬉しそうだなあって思ったから」  麻野はにこにこ笑う雪弥さんを睨んだが、特になにを言うわけでもなかった。  確かに、今日の麻野はご機嫌だ。そりゃあれだけぼくをぐずぐずにしてすっきりしているだろうから、機嫌が悪かったら真っ先にぼくが詰っている。ぼくは痛む腰を軽くさすって、溜息を吐いた。 「大丈夫?」 「‥‥あんまり。喉が痛い」 「あんだけ喘ぎゃ喉も痛くなるだろ」  麻野の声がする。ぼくは麻野を睨んで、ふいっと視線を逸らした。 「雪弥さんも雪弥さんですよ。ぼくは視姦される趣味はない」 「気持ちよさそうだったから」  雪弥さんがまた天使のような笑みを浮かべて言う。その顔でそういう発言はよしてくれと思ったが、雪弥さんの場合はどうもデフォルトのようだ。  トーンオントーン・チェックのシャツのボタンをひとつ緩める。その仕草が妙に妖艶で、ぼくは思わず視線を逸らした。 「雪弥さん、エロい」 「え?」 「なんとなく、桑島ってヤツが雪弥さんを追い回していた理由がわかったような気がする。そのギャップにはまるやつははまる」 「ギャップ?」  雪弥さんはわからないというような顔をした。天然のようだ。天然のフェロモンをあれだけダダ漏れにさせていたら、性欲を持て余している男がころっと雪弥さんにホイホイされそうな感じがしてならない。雪弥さんは少し考えるように上を向いた後、ぽんと手を叩いた。 「集くんも変わらないよ」 「そんなこと」 「よくわかってるじゃん、雪弥」  ないと言おうとしたら、麻野が後ろから口を挟んできた。ぼくはうるさいと吐き捨てたが、以前麻野から同じことを言われたのを思い出した。 「集くん、すごく綺麗だったよ。何回もイッてたのって、おれが見てたから?」  雪弥さんがストレートに言ってくる。ぼくは自分の顔が赤くなったのに気付いて、俯いた。 「いいなあ。やっぱりおれも集くんとしてみたいなあ」 「却下。見るだけならいいけど、手ぇ出したら放り出すぞ」 「けち」  けちとかそんな問題じゃない。なんでこの二人はぼくの気持ちを完全に無視して話を進めてしまうのか。悩みが尽きないことで頭が痛いのと恥ずかしいのとで、いっぱいいっぱいになりそうだ。 「あ、そろそろ行かなきゃ」  不意に時計を見上げた雪弥さんが、思い出したように言った。 「どこ行くんだ?」 「髪切りに行くの」 「気をつけて行けよ」 「うん、大丈夫。もう康介もいないし」 「堂々と道の真ん中歩くなよ」 「気をつける」  麻野が「よし」と言うと、雪弥さんはソファに置いていたバックパックを持って、リビングを後にした。  雪弥さんが出かけるときはいつもこのやり取りだ。麻野は少し過保護すぎやしないかと思われるかもしれないが、雪弥さんには言いきかせておかないと妙なことをする。以前雪弥さんは麻野が言ったように堂々と車道の真ん中を歩いていて、一方通行の道で渋滞を引き起こしそうになったことがあるそうだ。ぼくも一度見たことがあるが、二車線分ある広い道路でも真ん中を歩いていて、黒塗りの車から派手にクラクションを鳴らされていた。  雪弥さんいわく端っこを歩くのが怖いとのことだったが、それは変なヤツに裏路地に引きずり込まれないようにするための一種の防衛策だったのかもしれない。 「なんか、雪弥も安心したみたいだな。自分から髪を切りにいくなんて、珍しい」 「そうなのか?」 「大抵いつも自分で切ってたんだ。伸びたら後ろで結んで、そのままハサミでばしっと」 「‥‥あ、なんかその光景が目に浮かぶ」 「まあ、あいつなりにいろいろコンプレックスがあるんだよ。啓に感謝しないとな」  麻野が笑う。ぼくは「はじめからあいつに手のひらで転がされていたんだぞ」とぼやくように言ったら、麻野は「こういうときくらい負けず嫌いを発動させんな」と、ぼくの頭を軽く小突いた。 「美術館、どうする?」  成瀬が言っていたレーピン展は、この週末で展示が終わってしまう。ぼくは少し考えたが、未だ鈍く痛むこの腰では長居ができなさそうだ。  ぼくがとんとんと腰を叩くと、麻野は少し気まずそうに眉を顰めた。 「おぶってやろうか?」 「馬鹿か、目立つだろ。いいよ、ブーツじゃなきゃ歩ける。一回家に戻ってもいいか?」 「ああ。啓も誘うか?」 「‥‥そうだな。まあ、一回くらいならチケット代を出してやってもいいか」  麻野はぼくのセリフに吹き出して、「おまえほんとに素直じゃないな」と笑った。

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