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第32話
それから数日、ぼくは麻野とは会わなかった。課題の構想すらできていなかったからだ。
数日間大学の美術室に篭りきり、ホワイトボードにマーカーで色々と書き加えては消し、格闘していた。
教授から与えられた美術室の使用期限はあと2日。それまでになんとかしなければ頼み込んだ甲斐がない。そう思うものの、描いても描いても自分の納得がいくアイデアが浮かばない。ぼくは一旦マーカーを置いて、机に腰を下ろした。
与えられた課題はとても抽象的だった。『自分の世界を表現せよ』と、教授がホワイトボードに書き込んだ、それだけだ。誰もがブーイングをしそうな勢いだったが、演出家でもある彼の遊び心なのではないかとも思う。
ぼくは自分が描いたラフ画を眺めながら、机に置いていたポテトチップスの袋に手を伸ばし、ひとつ摘んだ。少し湿気ている。ぱりぱりと少しずつそれを食べながら、自分の絵に足りないものを探す。けれどそれは無駄だと思い、やめた。
美術室の隅においていたショルダーバッグを取りにいき、携帯を取り出す。麻野か成瀬にでも連絡をしようと、携帯を開いたときだった。美術室のドアが開いた。振り返ったぼくの目に入ったのは、背の高い男性だった。ぼくの絵をしげしげと眺めている。ぼくはガシガシと頭を掻いて、彼に近づいた。
「あの、使用中なんだけど。表に使用禁止ってプレート掛けてるのが見えないの?」
彼はぼくに一瞥をくれたが、すぐにラフ画に視線を戻した。腕を組んだままそれを眺めている。
「あんた人の話し聞いてる? 邪魔なの、出てって」
言いながら彼を見上げたとき、ぼくはそれが知っている相手だと気付いた。行島だ。行島はふうんと意味ありげに言って、あごに手を当てた。
「これ、有川くんが描いたの?」
「だったらなに?」
「バイトしない?」
「は?」
ここまで嫌そうな声が出るかと思うほどの声だった。行島は他意がなさそうな様子で、まだ絵を眺めている。
「ウチの劇団、小道具と美術係が怪我しちゃって、次の公演に使うパネルが作れてないんだよね。基本的に自分たちのことは自分たちでやる劇団だから、よそに受注できなくてさ」
「他当たれよ。ぼくはあんたに協力してやるつもりも、義理立てしてやるつもりもない。出て行け」
「そう言わないでさ、協力してよ。美術専攻の子で、一番イメージに合いそうな絵を描けるのが有川くんなんだよ」
ぼくはふざけんなと一蹴して、いままで座っていた机まで戻った。
それでも行島は引き下がらない。しばらく無視していたが、出て行く気配はなかった。
「おもしろいと思うよ。本当に監督が困ってるんだ。手伝って」
「断る」
ぼくは湿気たポテトチップスを頬張った。
「スタンガン、痛かったなあ」
ぼそりと行島が言う。ぼくは行島を睨んだ。脅すつもりならこちらにもまだ手はある。そう言ってやろうかと思ったが、行島はにんまりと笑って近づいてきた。
「ねえ、おあいこでしょ、あれで。有川くんの絵なら、きっと演出もうまくいく。俺が言うんだから間違いないよ」
「どういう根拠だよ?」
「俺に近づいたら麻野が怒るって言うなら、麻野を説得するよ」
「やめといたほうがいいと思うけど。あんたの顔見た瞬間いつも嫌そうな顔をするし、あんたに説得できるわけがない」
「あはは、そりゃそうだ。俺と麻野佐和は犬猿の仲だって、どっかのルポライターがウチの劇団を取材したときに書いていたからね」
行島はぼくの嫌味を嫌味とも受け取っていないらしい。なんだか調子が狂う。行島を無視してポテトチップスを貪っていたら、行島がぼくの肩を叩いた。
「二時間でいい、時間をちょうだいよ。夕飯おごったげるし、いいもの見せてあげる」
「あんたの上から目線が嫌い」
ぼくがぽつりと言うと、行島はまた笑って、何度か頷いた。
「悪い悪い、有川くんが俺より年下だから、ついね」
「年下? あんたいくつ?」
「今年22だよ。4回生」
「はあっ!?」
「なんだよ、そんなに驚いた?」
「あ、麻野はあんたにタメ口だったし、成瀬も。‥‥あ、そういえば、麻野の先輩って言ってたような」
確かに、成瀬は麻野の先輩が‥‥と言っていた。てっきり中村のことだと思っていた。あの三人組のなかで、中村が一番大人びて見えたからだ。
「どうする? このままここに篭っていても、たぶんいいアイデアは浮かばないんじゃない、君のタイプなら」
悔しいが、行島の言うとおりだった。ぼくは手についたポテトチップスの粉をはたいて、立ち上がった。
「前みたいに手ぇ出すなよ」
「あはは、しないしない。麻野に凄まれるのも、麻野の兄ちゃんにどつかれるのも、有川くんからスタンガン食らうのももうコリゴリ」
明るい口調で行島が言う。行島はぼくを見て「本当にごめん」と静かに言った。
「おあいこなんだろ?」
ぼくは行島にそっけなく言いながら、床に置いていたショルダーバッグを肩に掛けた。行島がぼくの後ろで楽しそうに笑っているのが解ったが、ぼくはそれに構わず、「二時間経ったら帰る」と告げる。行島は「わかった」と頷いた。
「ついておいで」
行島がぼくの先を行く。ぼくは麻野になにを言われるかを想像しながら、その後を追った。
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