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第34話

「集くん、ひさしぶり」  麻野のうちを訪ねると、庭に雪弥さんがいた。金髪が眩しい。なんだか別人のようにも思える井出達だ。 「麻野、いますか?」  雪弥さんは「ちょっと待ってて」と言って、玄関のドアを開けた。 「佐和、集くんだよ」  麻野はリビングにいたらしい。気のない返事が聞こえ、麻野の足音が聞こえてきた。 「ちょっと機嫌が悪いかもしれないけど、気にしないで」 「なんかあったんですか?」 「明さんとケンカしたの。でも、佐和が悪いんだよ。佐和がね、明さんに内緒で劇団を辞めるとかいうから」  雪弥さんがそこまで言ったとき、麻野が雪弥さんにチョップを食らわせた。 「うるせえ。雪弥は花いじりでもしてろよ。人のことに口出すな」  麻野の表情と声色は不機嫌丸出しだった。これはぼくが行島と舞台見学に行ったことも少なからず原因のひとつだろうと直感でわかる。麻野は不満そうな雪弥さんを押し退けて、ぼくを睨んだ。 「で、課題は済んだ?」 「昨日提出した。ぼくは自由だ」  そう言うと、麻野は口元で笑って、「入れ」とぼくをリビングに促した。 「あ、佐和。おれのココアも入れておいて」 「自分で淹れろ、ばか」  雪弥さんを冷たくあしらい、麻野が玄関のドアを閉める。麻野は体を屈めてぼくの唇に触れるだけのキスをした。 「カフェオレでいい?」 「うん。少し濃い目がいい」  言いながら、麻野のうちのリビングに入る。リビングには明さんがいて、明さんはぼくに挨拶をしたあと、麻野とぼくとを交互に見た。 「な、なんですか?」 「集くん、お願いがあるの」  明さんがぼくに詰め寄ってくる。いつもにはない明さんの迫力に怖気づいたぼくをよそに、明さんがぼくの手を握った。 「城戸さんが劇団に戻るよう説得して欲しいって言われるんだけど、佐和くんが嫌がるの」 「明、集まで巻き込むなよ」 「佐和くんが理由をきちんと言わないのが悪いの。そもそも真澄くんだって佐和くんが戻ってくることを望んでいるっていうのに。佐和くんが真澄くんに歩み寄れば済む話でしょう」 「ますみくんって?」 「行島だよ」  麻野が面倒くさそうに言う。城戸さんというのは、劇団の団長さんの名前だ。ぼくは先日見学させてもらってた時に言われたことを思い出した。 「ぼく、劇団でバイトする」 「はっ!?」  麻野が素っ頓狂な声を上げる。 「団長さんの言葉に感銘を受けた。劇団の役にたちたい。ぼくは麻野が立つ舞台を引き立てるための小道具を作りたいし、必要であればパンフレットとか、ポスター作りにも協力したいと思っている。それにぼくは、麻野が演技しているところを見てみたい」  麻野は面倒くさそうな顔をして頭を掻いた。 「もし麻野が復帰しないなら、次に予定している舞台は成り立たないって言ってた」 「んなわけねえだろ。行島に主役譲ってやったんだ、あいつがなんとか立ち回る」 「台本を読んでいないのか?」  ぼくが言うと、麻野はワケが解らないというような顔をして、両手を広げた。 「見る前に捨てた。どうせやるつもりもなかったし、行島と俺とが共演した例は一度もないんだ」 「じゃあ前例を作ればいい」  麻野は溜息をついて、キッチンへと入って行った。 「一回でいい。ぼくは麻野の好きな世界を見てみたい。麻野が一番輝いている瞬間が見たい。それを描きたいんだ」  麻野はぼくのカフェオレと自分のコーヒーが入ったマグカップをトレイに乗せて、無言のまま戻ってきた。そしてそれを静かにテーブルに置いたあと、まるで魂が抜けるんじゃないかと思うほどの溜息をついた。 「こっちの理由も聞かないで、よく言う」  麻野はそれ以上はなにも言わなかった。ソファに座り、コーヒーを嚥下する。ぼくが明さんに助けを求めるかのように視線を向けると、明さんは困ったような顔をした。 「佐和くん、虹海(ななみ)ちゃんの頼みだと思って、やってあげて。あれは虹海ちゃんが最後に書いた脚本なんだって。だからどうしても佐和くんにやって欲しいんだって、城戸さんが言っていたの。佐和くんの気持ちはわかるわ。でも集くんも見たいって言っているんだし、もう一度だけ舞台に立って、それから決めたのでも遅くないんじゃないかな?」  まるで包み込むような言葉だ。麻野はそれを聞いたあと、面倒くさそうに前髪を掻きあげた。 「家事、手伝えなくなるぞ」 「いいよ。なんとかする」  明さんが言うと、麻野はふうっと息を吐いた。 「強引なお二人さんには勝てねえわ」  明さんが嬉しそうな声を上げる。それを見て麻野は口元だけで笑うと、コーヒーを啜った。  虹海さんというのは誰のことなんだろうか? ふと気になったが、ぼくは尋ねなかった。なんとなくだけれど、察しがついている。成瀬は麻野が養子ではないかというネタをガセだと言った。ではあのアルバムの写真はなんだったのかという話になる。生まれたばかりの赤ちゃんを、もうすぐ亡くなる人に抱かせて撮った写真だというなら、わざわざ麻野のアルバムに挟んでおく必要などないはずだ。  そんなことを考えていたら、雪弥さんがリビングに戻ってきた。 「寒いーっ。佐和、ココア淹れて」 「自分で淹れろ。つか、そんな薄着で出るから寒いんだろうが。もう10月も半ばだぞ、考えろ」  麻野はやけに辛辣な態度だ。雪弥さんはそんな麻野を見て不満そうに口を尖らせたあと、麻野がマグカップをテーブルに置いたのを見計らって、麻野にダイブした。 「うわっ、馬鹿!」 「佐和、あったかい。寒かった」 「重いんだよ、降りろ」  言いながら雪弥さんの頬を引っ張る。雪弥さんは痛いよと軽く言うだけで、どこうともしない。麻野に髪をぐしゃぐしゃに乱されながら、雪弥さんがぼくを見た。 「集くん、泊まって行かない?」 「え?」 「予定がなければ、だけど。ちょっと、話があるんだ」  雪弥さんの表情がいつもとは違う。どこか深刻そうなそれはぼくが断るのを許さないと言っているかのようにも見える。ぼくは頷くことしかできなかった。

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