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第35話
夕食を食べ、お風呂を借りたあとで、ぼくは麻野の部屋に招かれた。いつものようにベッドに凭れ掛かるようにして座っている麻野の横で、雪弥さんが濡れた髪をタオルで拭いている。
「話ってなんですか?」
ぼくが尋ねると、雪弥さんはきょとんとした顔でぼくを見て、首を傾げた。
「なんだっけ?」
「知るか」
麻野が冷たく突っ込む。雪弥さんは人差し指をあごに当てて、うーんと声を出した。
「なんだったかなあ? さっきまで覚えていたんだけど」
「歳かな」と、誰に言うともなく雪弥さんが呟く。麻野は溜息を吐いて、雪弥さんの足を小突いた。
「どうせたいした用事じゃないんだろ? 集は疲れてるだろうから、余計なことで神経使わせてんじゃねえよ」
雪弥さんはなんだか腑に落ちないような顔で唇を尖らせて、そのままベッドに腰を下ろした。
「あ、思い出した。この前はごめんね」
唐突に雪弥さんが言う。ぼくはなんのことかが解らず、適当に相槌を打つにとどめた。
「集くんに変なことを言っちゃったじゃない。あんなこと言わなくてもよかったのになあってすごく後悔したんだ。ごめんね」
「話って、それですか?」
「うん。あともうひとつ。いつみちゃんの家庭教師、やっぱり続けることになった」
「えっ!?」
「いつみちゃんと、いつみちゃんのお母さんから頭を下げられちゃって。本当はする気がなかったんだけど、康介ももういないし、ちょっとは自立しないといけないと思ったんだ」
雪弥さんがへらりと笑いながら言う。成瀬はそんなことを一言も言っていなかったが、いつみの希望なら成瀬の耳に入っていないだけという可能性もある。
「よかったですね。成瀬も喜びますよ」
ぼくが言ったとき、雪弥さんの視線が少し鋭くなったような気がした。けれどすぐにいつもの笑顔に摩り替えて、頷く。妙な感じだ。雪弥さんは成瀬に怒っているのだろうか? そんなふうにも思えるような目つきだった。
雪弥さんは成瀬に対してなにかを思っているらしい。成瀬があれこれ嗅ぎまわっていたことを今更怒るだろうかとも考えたが、雪弥さんだから有り得ない話でもない。実際に雪弥さんはぼくになにかを言おうとして口篭った。大事な話というのは、家庭教師を続けることと、ぼくへの謝罪だけではないだろうと感じたが、雪弥さんは已然口を開かない。さっきまでの笑顔は消え、少し困ったような顔になってしまった。それを見ていた麻野が、溜息を吐いて前髪を掻きあげた。
「へたれめ。集、俺の机のうえのアルバムを見たんだろ? 無神経でどストレートなおまえが気にしない体を振舞っていたから言わなかったけど、おまえから聞いたら俺から教えてやる」
まるで助け舟を出すかのようなタイミングで麻野が言った。
「あのアルバムの女の人は?」
「俺の母親」
「母親って‥‥」
えらくあっさり言うのだなと思う。そんなぼくをよそに、麻野は雪弥さんの膝をぽんと叩いて、口を開いた。
「最後のページの写真を撮った二時間後に、容態が急変して死んだ」
そう言って、麻野は雪弥さんを横目に見た。雪弥さんはなにも言わない。ただ、頷いているだけだった。
「舞台を見に行った帰りに一家で事故に遭って、母親だけが助かったらしい。尤も母親は後に死んでいるのだから、助かったのは俺だけってことになるけどな。この写真を撮ったのは明で、そのときにはまさかなくなるとは思っていなかったって教えてくれた」
「じゃあ、麻野が養子って話は強ちガセじゃないってことになるのか?」
「本当だ。まあ、俺を産んだのは明の双従姉妹だから親戚なんだ。元々麻野姓だし。
明が俺の母親と一番仲がよかったから、だから俺がここにいる。父もそれをよく知っているから反対しなかったらしい」
「それ、いつぐらいに知ったの?」
「ん? ずっと小さい頃から、そう言われて育った。雪弥もここに来たときから知ってる。でも、いまいち理解していなかったみたいだけどな」
麻野が口元だけで笑う。その表情がとても痛くて、苦しかった。どうして笑っていられるんだろう。麻野は視線を逸らした雪弥さんの背中をばんと叩いた。雪弥さんが短い悲鳴を上げて、げほげほと咽る。それを見て意地の悪い笑みを浮かべると、雪弥さんの頭をわしわしと撫でた。
「ちゃんと信じろよ」
「え?」
「俺や明を信じろっつってんの。俺たちはおまえを捨てないし、今更アメリカ帰れなんて言わねえよ。集だってそうだ。泣いてたんだぞ、お前の代わりに」
「ちょっ、あ、麻野! な、泣いてないっ、泣いてないですから!」
「嘘吐け。2,3歳のガキみたいにびーびー泣いてたくせに」
「っ、くそ! どんだけ性格悪いんだ、おまえは!」
思わず吐き捨てたら、麻野はははっと笑った。
麻野は強い。その強さはきっと、何度も、何度も傷ついても、きちんと支えてくれる人がいたからなのだと思う。麻野と明さんたちの関係が少し羨ましい。いままでは絶対に実家には帰るかと思っていたのに、たまには実家に帰ってみようかなと思うようになった自分がいた。麻野が腐らなかったのは、明さんたちの気持ちをきちんと知っているからなのだ。
「今だから言うけど、これでも雪弥には感謝してるんだぜ? 集に色々あったとき、何気に力になってくれたみたいだしな」
「‥‥あれは、佐和にはわからないと思ったから」
「だから助かったって言ってるんだ。あの野郎になにを言われたかは知らないけど、家族ごっこなんかじゃねえよ。おまえがいないと、明が悲しむだろ。親父だって雪弥のことばっか気にしてるんだ。だからたまたま東京で仕事があった帰りにわざわざ寄ったんだぞ。たった数時間しか会えないのに、こないだろ、普通なら」
雪弥さんは複雑そうな顔をして俯いてしまった。麻野にはなにも返さず、ベッドに足を上げて、膝を抱いた。
「まあ、それだけ言っておきたかった。おまえがどう取るかは自由だ。
集もだぞ。おまえ、結構自分で妄想して暴走する傾向にあるからな。言っておくけど俺はべつに養子だからどうのこうの思ったこともないし、いまの生活に満足している。だから、啓のことを責めるなよ。あいつだって、ありもしない『俺の実家』に迷惑が掛からないようにいろいろ調べまわっていたみたいだからな」
「どこでそれを?」
「警察に事情聴取されたときに、啓のじいちゃんが言っていた。集、もしなにかがあったら、一人で背負い込まずにきちんと相談しろ。俺は絶対おまえの力になるから」
そう言って、麻野はぼくの肩をぽんぽんと叩いた。なんだか照れくさくて「知るか」と吐き捨ててしまったが、麻野はそれをぼくの了承と受け取ったらしい。「約束な」と、落ち着いた声で言った。
「佐和、ずるい」
雪弥さんがぼそりと呟いた。
「おれが言いたいこと、全部先に言っちゃった」
「おまえが煮え切らない態度だからだろうが」
雪弥さんをベッドに押し倒しながら麻野が言う。雪弥さんの短い悲鳴が笑い声に変わるまで、そう時間は掛からなかった。麻野が雪弥さんを押さえつけて脇腹をくすぐっているのに気付いて、ぼくは思わず笑った。
「なにじゃれてるんだよ。本当に仲がいいな、ふたりとも」
麻野が淹れてくれたカフェオレを飲みながら。しばらくして麻野は雪弥さんの上から降りると、ふわふわの髪をわしわしと乱した。
「さてと、雪弥が納得したところで久々に集を堪能するか」
そう言って、麻野はぼくが座っているソファまでやってくると、マグカップをテーブルの上に置き、いきなりぼくをソファに押し倒した。
「はああっ!? ちょ、まっ‥‥! 馬鹿か、雪弥さんがいるのに!」
「雪弥は気にしない」
「ぼくが気にする! ていうか、ドヤ顔で言うな、ドヤ顔で!」
じたばたと暴れるぼくを押さえつけながら、麻野が服の上からぼくの胸を引っかく。びくっと体が震えたのを見て、麻野はニヤニヤと笑う。こいつはどこまでサディストなんだと、なにやら怒りすら沸いてきた。
「不安、だったんだ」
溜息混じりに、雪弥さんが言った。麻野はぼくを押し倒したまま雪弥さんを見る。雪弥さんは前髪をぐしゃっと握って、眉を顰めた。
「康介に抱かれたことが明さんにバレたら捨てられるとか、佐和はおれの体が目当てだとか。でもおれは佐和に無理やり抱かれたことなんて一度もない。体目当てかどうかなんて、前に確かめた。だから、違うって言ってやった。そんなことしないって。あんたとは違うんだって。
でもね、佐和。ずっと、消えなかったんだ。ずっと不安だった。本当は佐和もおれがかわいそうだから家族のふりをしてくれているだけなんじゃないかって。違うって解っているのに、確証が持てなかった。なんでか解る?」
雪弥さんの言葉に、麻野はぼくから降りながら、小さく首を横に振った。
「おれね、佐和のことが好きだったんだ。佐和に大事にされている集くんが少し羨ましかったし、腹立たしく思えるときもあった。
だけど佐和が集くんと同じくらいおれのことも大事にしてくれているんだってわかって、ほっとしたんだ。おれは母親から愛されなかったし、こんなふうに誰かがそばにいてくれることなんてなかった。だからいまは、日本に来て、父に認めてもらえて、よかったと思ってる」
そう言ったあと、雪弥さんは少し疲れたように息を吐いた。そして意を決したように顔を上げて、ぼくと麻野を見た。
「おれが言いたかった大事な話っていうのは、それ。
佐和とおれは血が繋がっていなくて、明さんと佐和も実の親子じゃないって言うのは5年前にも聞いていたんだけど、いまいち言われた意味が解らなかった。
でも、前に佐和が言ったとおり、明さんならなにがあってもおれの力になろうとしてくれるっていう意味が、漸く解った。佐和も、明さんも、ベクトルは違えどおれを助けようとしてくれたんだなあって思ったら、すごく安心したんだ」
「それって、つまり前に言っていた信じきれないっていうセリフを撤回するっていう意味ですか?」
雪弥さんはふわりと笑って頷いた。
「集くんは、佐和のそばから離れないでね」
雪弥さんの体が大きく傾いた。麻野が慌てて受け止めて、ベッドに寝かせる。続けざまに雪弥さんを呼ぶと、少ししてうっすらと目を開けた。
「ごめん、安心したら、眠くなっちゃった」
「馬鹿。調子悪いんだったらもう寝ろ」
「うん、そうする」
雪弥さんはゆっくりと起き上がって、ぼくが座っていたソファまでやってくると、麻野からブランケットを受け取り、横になった。
「おやすみ、佐和、集くん」
「おやすみなさい」
「いいからもうゆっくり休め」
麻野が雪弥さんの頭をぽんぽんと叩く。雪弥さんは嬉しそうに笑った。雪弥さんはそのまま目を覚まさなかった。
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