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第36話
雪弥さんはあれから2日眠り続けていた。死んだんじゃないかと思って心配したというのに、病室に着替えを持っていったら、雪弥さんは看護師さんからもらったシュークリームをおいしそうに頬張っていて、ぼくは思わず激昂した。雪弥さんがしゅんとしているのはそのせいだろう。
雪弥さんにはかまわず着替えをトートバッグに突っ込んでいると、少しして成瀬妹が顔を覗かせた。
「集、麻野さんはまだ安静にしておかないといけないんだから、長話はダメだからね」
「もう帰る」
「え、帰るの?」
雪弥さんが残念そうに言ったが、ぼくはなにも言わずに成瀬妹の腕を引っ張って、病室を出た。
「ちょっと、なんなの?」
「雪弥さんの具合は? 麻野がこれないから、代わりに聞いてこいって」
「肺炎。熱もだいぶ下がったから、来週なかばあたりには退院できると思うよ。ただ、すこし数値が悪いところがあって」
「だから酸素のチューブをやっていたのか」
「入院した当初よりは酸素の量も減っているから、そろそろカテーテルを外して自力呼吸に慣らせなくもないと思うんだけど、麻野さんは結構体力が落ちているから、無理はさせない方針なの」
「じゃあ、なにか悪い病気が見つかったって言うわけじゃないんだな?」
「肺以外は健康そのもの。だけど肺機能が随分低下しちゃっているから、次に入院するときは呼吸器専門の病院に移ることになるかもしれない。食欲もあまりないみたいだし。まあ、集よりは食べてくれるけどね」
意地悪く笑いながら、成瀬妹が言う。ぼくはうるさいと成瀬妹を軽く小突いて、溜息をついた。
「外出はどのくらいからできる?」
「いまからインフルエンザとか、風邪がはやる時期でしょ? 個人的にはお勧めしないけど、もう少し酸素濃度が安定したらいいんじゃないかな。それは先生が決めることだから、なんとも言えないけど」
「解った。悪い、仕事の邪魔をした」
ぼくが言ったら、成瀬妹がすごい顔をした。
「なんだよ?」
「やだ、気持ち悪い。集が謝った、こわーい」
わざとらしい言い方に舌打ちをして、ぼくは成瀬妹を無視して雪弥さんの病室に入った。
「これ、麻野からです」
雪弥さんのベッドに紙袋を置く。雪弥さんは「ありがとう」と言った後、ちらりと様子を伺うようにぼくを見た。
「なんですか?」
「怒ってる?」
不安げな顔で、雪弥さん。ぼくはイライラするのを抑えながら、「べつに」とだけ返した。けれど点滴のルートを換えながら、成瀬妹がくすくすと笑った。
「怒ってますよ。集のこの顔は超怒ってます」
「余計なこと言うな」
言いながら視線を逸らしたとき、雪弥さんの口元にクリームが付いているのが見えた。
「ここ、ついてますよ」
右側の口角をつつきながら言う。雪弥さんはベッドサイドに置いてあるボックスティッシュに手を伸ばし数枚とりだすと、口を拭った。
「ぼくは、雪弥さんが死んだかと思いました」
ぼそりと言うと、雪弥さんは薄く笑って、ぼくの頭を撫でた。
「ごめんね。ちょっと調子が悪かったのに加えて煙草の煙を吸っちゃったんだ」
「たばこ?」
「最低。呼吸器疾患の患者にとっては命を左右するっていうのに、世間はわかってくれないですもんね。障害ですよ、障害。そいつの人相とかわからないんです?」
「人相知ってどうするんだよ? 嗜好品なんだから仕方ないだろうが。ぼくだって煙草は嫌いだけど、世の中には愛煙家もいるんだ」
「それはそうかもしれないけど、麻野さんにとっては致命的なんだから」
成瀬妹が人差し指を立てながら言う。さすがに血は争えないなと思いながら、乾いた咳をする雪弥さんの背中を擦った。
「大丈夫ですか?」
「ん、平気。2,3日前から熱っぽかったんだけど、病院に来るのが面倒だからほうっておいたのがいけなかったかな」
「当たり前です」
ぼくと成瀬妹の声が見事にハモった。雪弥さんはきょとんとしたあと、破顔した。けれどすぐに咳き込んでしまって苦しそうだ。
「佐和に、平気だって言っておいて」
「わかりました。無理はしないでくださいよ」
「うん、そうする」
雪弥さんが穏やかに笑う。少し色あせた病衣のせいか、いつもより青白くみえる。ぼくは雪弥さんに頭を下げて病室を後にした。
* * * * *
麻野たちがいつも稽古をしている『legame』という舞台ホールの裏口から入ると、竹を打つような音が響いていた。30畳以上ある広いスペースで、麻野と行島が殺陣の稽古をしている。その様子を眺めているのは、団長の城戸さんだ。白髪交じりの短髪をオールバックにしていて、少しレンズの厚いメガネを掛けている。自分では50代だと言っていたが、50代には見えない体格の良さと若々しさのある人だ。高そうなジャケットとデザイン性の高いジーンズで身を包んでいる。城戸さんはぼくに気付くと、手招きをしてぼくを呼んだ。
「いやー、有川くんのおかげで佐和が戻ってきてくれて、公演の準備も間に合いそうだよ」
言って、ぼくの頭をぐりぐりと撫でる。ぼくは「どうも」とだけ返して、二人の様子を眺めた。
「すごいだろ? うちの看板同士だから、見応えあるぞ。佐和はもう台本全部覚えてきたから、真澄がすごい対抗意識を燃やしてるんだ」
「‥‥仲悪いのに、大丈夫なんですか?」
ぼくが言った途端、ぼくの方に木刀が転がってきた。麻野が床に大の字になって転がっている。その横にしゃがんだ行島が、麻野の頭をグーで叩いた。
「休むな! そもそもおまえが途中で逃げ出すから稽古に遅れが生じたんだろうが!」
「うっせえスパルタ! ずっと剣道やってたからって調子のんな!」
「だからこうやっておまえに殺陣の稽古してやってんだろうがよ。ぐだぐだ言ってねえで立て!」
「あーもーっ! やだ、立たねえ! 疲れた、休ませろ!」
大声で言い合う二人を見て、ぼくは一気に不安になった。それは城戸さんも同感なのだろう。ぼくの横で咳払いをしたあと、ぱんぱんと手を叩いた。
「ほら、ケンカすんな。佐和、おまえは脇が開きすぎ。脇はきちんと締めないと。それから真澄。おまえも敵のように打ち込むな」
「団長は甘いんすよ! 麻野があそこで逃げなかったら俺が稽古つける必要なんてなかったのに!」
「真澄、おまえに言えた口か? そもそもおまえが佐和にケンカ売ったのが発端だろうが。ぐだぐだ言わなくていいから、早く殺陣の順番を覚えろ」
城戸さんが言うと、行島は不満そうに木刀を肩に掛けて、麻野に手を伸ばした。
「ほら、麻野。起きろ」
麻野はなにも言わない。行島は舌打ちをしたあと、麻野の脇腹を思いきり蹴った。
「いてえっ! なにしやがんだ!」
「とっととケリつけて休憩すんのと、このままぶっ続けで順番覚えるまで徹すの、どっちがいいよ、佐和ちゃん」
麻野はガシガシと頭を掻いて、ゆっくり立ち上がった。ぼくは自分の足元に飛んできた木刀を持って、近寄ってきた麻野に手渡した。
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