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第37話

「来てたのか」 「うん。雪弥さん、目が覚めたみたい」 「いつもの肺炎だろ。今回はちょっとスパンが短かったけど」  言いながら麻野が木刀を肩にかけた。そんなに何度も肺炎を繰り返しているのかと思っていると、行島が麻野を呼んだ。 「有川くんと乳繰り合ってないで早く来なさいよ、佐和ちゃん」 「うるせえ、ちょっと待ってろ」  麻野はぼくに「ありがとうな」と言って、行島が待つスペースへと向かった。  間合いを取り、行島が仕掛ける。麻野はそれを木刀で受け止め、流し、競り合う。その流れはとてもスムースで、自然だった。演技なのに演技ではない。麻野の身体能力と行島の技術があってこその殺陣なのだなと思いながら見ていると、城戸さんがぼくに椅子に座るよう指示した。 「虹海ちゃんのこと、佐和から聞いた?」 「あ、はい。少し」 「虹海ちゃんは幸せ者だよ。自分が書いた脚本を愛息子が演じてくれるんだからさ。見たかったろうなあ」  感傷に浸るように言いながら、城戸さんがぼくの前にコーヒーを置いた。このホールのコーヒーは本格的だ。なんでも城戸さんと城戸さんの奥さんがコーヒー通だからという理由でコーヒーミルやサイフォンなんかを一通り揃えているらしい。ぼくは頂きますと言って、まだ湯気が立つそれを口にした。 「おいしい」 「だろ? 佐和が買ってきてくれたんだ。あいつ、ガキの癖に祐希に似てコーヒーが好きみたいだからな。血は争えん」 「祐希って、麻野のお父さんですか?」 「虹海ちゃんの旦那ね。単身赴任しているほうのお父さんじゃなく。  あれはいい男だったよ。うちの団員でね、まだ若手だったからトップにはなれなかったが、惜しい逸材だった。佐和がうちに来たときには驚いたよ。まるで祐希みたいに演じるんだ。まだ3歳にもならないチビが」  城戸さんの目はとても優しかった。麻野と行島が立てる音が心地よく響く。ぼくはまろやかな味のコーヒーを啜りながら、その動きを目で追った。 「雪弥くんと見に来る? 11月26日が公演なんだ」 「火曜日、ですか。‥‥ていうか、麻野の誕生日」  そう呟いたとき、ぼくははっとした。麻野の誕生日であると同時に、麻野の両親の命日にもなる。ぼくが城戸さんを見ると、城戸さんは感慨深い表情で麻野たちを見つめていた。 「毎年11月26日には、二人の追悼公演をやっているんだ。去年も佐和に主役を頼んだけど、佐和に嫌がられたからしなかったんだが、今年はどうしてもって頼み込んだ。佐和がいろんなことを受け止められる年齢になったら、絶対にこの脚本を使って公演をやろうって決めていたんだよ。佐和が初めてここに来た日から」 「そうだったんですね」 「まあ、佐和はああいう性格だから、オーナーに楯突いて一時期ちょっとヤバかったけどな。映画デビューしたらもっと売れるようになるのに、もったいない」 「やりたくもない仕事までやらなきゃいけなくなるからいやだって言ってましたよ」  ぼくが言うと、城戸さんは豪快に笑って、「佐和らしい」と言った。 「真澄が佐和に対抗意識を燃やすのは、真澄のほうが年上だけどここに入ったのが同じ時期だからなんだよ。絶対に佐和には負けたくないらしい」 「お互いにそんな感じなんですか?」 「どうかな。佐和はプロダクションに所属したり、映画やドラマに出演したいっていう気持ちがまったくないみたいだから、真澄とは違うかもしれない」  城戸さんが言ったとき、フロア内に弾けるような音が響いた。どうやら麻野と行島の殺陣の流れがうまくはまったらしい。城戸さんが声をかけ、手を叩いた。 「今日一日で覚えるとは、さすが佐和だな」 「俺の教え方がよかったって言って下さいよ。無尽蔵体力馬鹿の佐和ちゃんに教えるこっちの身にもなってください」 「どうせ舞台でそのシーンを演じるのはおまえたちだろう。二人で何度もやったほうがよりリアリティーを追求できるじゃないか」  行島は不満そうにしていたが、床に置いているスポーツバッグの上にあるタオルで顔を拭き、スポーツドリンクを煽った。 「有川くん、課題終わった?」 「おかげさまで」  少し間を置いて答えると、行島はにんまりと笑って、ぼくに近づいてきた。 「この前食べに行った鉄板焼き、おいしかったでしょ?」 「‥‥ごちそうさまでした」 「へえ、めずらしい」  言いながら、麻野が近づいてくる。麻野はタオルでガシガシと頭を拭いた後、別のテーブルに置いてあったスポーツドリンクの蓋を開け、口にした。 「有川くんってそういうところはきちっとしてそうだもんね」  行島が言う。ぼくはコーヒーを啜った後、咳払いをした。 「借りを作りたくないから、一定の付き合いをしている人以外からの施しは受けない主義なんだ」  ぼくが言い切ると、行島が吹き出した。 「なんだよ!?」 「軍人かよ。いまどき奢ってもらわないほうが珍しいよ。いや、いいね、有川くん。いいキャラだわ」  くっくっと行島が笑う。麻野が横で「規律にうるさいから似たようなものだ」と言うと、行島はまた笑った。 「笑うなよ。あの時奢ってやったとかなんだとか言われたくないだけだ。それにぼくがおまえに奢ってもらったのは、お詫びをするって言ったからであって」 「はいはい、いまはまだ有川くんの友達じゃないもんね。じゃあいまからお兄さんと友達になろうか」 「‥‥いい、けど」 「いいのかよ!?」  麻野と行島が同時に突っ込んでくる。ぼくは眉間に皺を寄せて二人を睨んだ。 「バイトを紹介してもらったし、鉄板焼きもおいしかった。舞台も見れるし、おかげで課題も済んだから、またいろいろ見学させてもらいたい」 「要は、行島と友達になっておけばプラスになることばかりだってことか」  麻野の解説に、その通りだと頷く。行島はぼくを見てまた笑った。 「笑うな!」 「いや、ごめん。君があんまり拍子抜けすることを言うから」  ぼくは行島がなにを言いたいのかに気付いた。城戸さんがコーヒーを作りに行ったのを確認して、行島の胸倉を掴んだ。 「あのときのことは、もうおあいこなんだろ? だったら別にいいだろう。そんなに悪いやつじゃなさそうだし」  そう言って胸倉から手を離すと、行島はどこか安心したように笑った。 「麻野がいいならね」 「え?」 「有川くんは麻野のものだろ? うかつに手ぇ出したら殺されちゃう」 「手ぇ出さないんなら別にいいんじゃないですかね、行島先輩」  麻野の答えが意外だったらしく、行島はきょとんとした。 「なに驚いてるんだよ。仲良くするかどうかは集が決めることだろ。確かに俺はおまえのことが嫌いだしやったことは許せない。でも、集がいいって言ってるんならそれでいい」 「じゃあ俺のこと真澄くんって呼んでね」 「わかった、真澄くん」 「おい」 「なんだ?」 「なんで俺のことは麻野呼ばわりで、行島のことはナチュラルに名前で呼ぶんだよ?」 「おまえは馬鹿か? ぼくはおまえに名前で呼べとも苗字で呼べとも指定された覚えはない。だから個人的に呼びやすい苗字で呼んでいる。それだけだ。反論は?」  麻野はくそっと短く言って、テーブルに手を着いた。 「じゃあ俺のことも名前で呼べ」 「却下」 「なんでだよ!?」 「今更過ぎて恥ずかしい」  ぼくの答えを聞いた途端、麻野はどこか照れたように視線を逸らして、ガシガシと乱暴に汗を拭いた。

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