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第38話
数日後、ぼくと麻野は雪弥さんの病室にお見舞いに行った。予て食べたいと言っていたクリームブリュレを手土産に持って、病室のドアをノックする。返事はない。そろりとスライド式のドアを開けると、雪弥さんがベッドに横たわっているのが見えた。
前に来たときよりも顔色が悪い。息遣いも荒いし、そもそもこんな苦しそうな呼吸音だっただろうか? 普通に息をしているだけなのに喘鳴が聞こえる。雪弥さんの点滴の種類がひとつ増えていることに気付いたとき、麻野が溜息を吐いて椅子に腰を下ろした。
「いつもより具合が悪そうだな」
「煙草の煙を吸ったと言っていた」
「どうせ具合が悪いのを隠していたんだろ。元々貧血の気もあるし、最近食わなかったからな」
おまえみたいにと麻野が言う。ぼくは少しムッとしたが、経費削減で食費を削って貧血を悪化させた前科があるだけに、言い返せない。
雪弥さんは眠っているようだ。クリームブリュレを備え付けの冷蔵庫に入れ、雪弥さんに近付いた。部屋のドアが開く音がして、佐田先生が入ってきた。
麻野が立ち上がって軽く頭を下げる。佐田先生は「来ていたんだね」と穏やかに言った。
ぼくは少し気まずかったが、軽く頭を下げた。
「集くんは雪弥くんの知り合いだったのか」
「雪弥さんの具合って、どうなんですか?」
「数値はよくなっているんだけど、今日は少し肌寒いせいで調子がよくないようだね。麻野主任には許可を取ったから、あとで別の種類の薬に切り替えてみる予定なんだ」
「退院できそうなんですか?」
麻野が問うと、佐田先生は少し考えた後、首を横に振った。
「手術をしたほうがいい」
「手術? 成瀬はどこも異常がないって‥‥」
「彼が口止めしていたんだよ。まさか麻野主任にも言っていないとは思わなかったけど」
「どういうことなんですか?」
「雪弥くんは肺炎なんかじゃない。先天性の肺嚢胞症というものだ。手術痕があったから、過去に一度手術はしているようだけれど、大人になってからも再発する可能性がある。雪弥くんのはその典型的なパターンだね。少し前までは落ち着いていたが、手術をしないと。本当はいますぐにでも転院して手術をすべきだが、雪弥くんは拒否していてね」
「なんで?」
「どうせ治らない。死んだほうがいい。麻野主任にそう言ったそうだよ」
ぼくは愕然とした。どうして肺炎だなんて嘘を吐いたんだろう? 生まれつき肺が弱いとは聞いていたけれど、まさかそんな病気だとは思わなかった。不安になって麻野を見ると、麻野は冷静な表情で、佐田先生を呼んだ。
「こいつがなんて言っても、手術は受けるべきです。母もその心積もりですよね」
「‥‥基本的に、患者と意思疎通ができる場合は、患者自身が決めることだ。雪弥くんは成人しているし、精神薄弱なわけでもない。気持ちはわかるが」
「じゃあ説得します」
「それが可能なら今頃手術を受けている。雪弥くんがここに通い始めてからずっと説得しているが、首を縦に振らないんだ」
「死ぬのを、待つだけなんですか?」
「このままだと、その可能性もある」
麻野は冷静に「そうですか」とだけ言って、また椅子に腰を下ろした。
佐田先生は雪弥さんの脈を確認して、聴診すると、点滴の残量を確認した。そしてぼくと麻野を交互に見て、言った。
「雪弥くんが目を覚ましたら、手術のことを勧めてみてもらえるかな。二人が言ったら聞いてくれるかもしれない」
そう言って、佐田先生が病室を後にした。
妙な沈黙が病室を包む。ぼくが雪弥さんの額にぺたりと手を当てていると、麻野が立ち上がる音がした。
「いつみの家庭教師、どうするつもりなんだろうな?」
「‥‥それどころじゃないだろう」
「隠し事しやがって。ムカつく」
麻野が雪弥さんの腹を殴る。慌てて止めたが、麻野はくそっと短く言って、雪弥さんの足元に腰を下ろした。
「迷惑かけたくないとか言って、おもっくそ明に迷惑かけてんじゃねえか、ばか」
雪弥さんの病気のことがショックだったのだろうか。いままで聞いたこともないような、弱々しい声だった。
雪弥さんが目を覚ましたのは、日が暮れた頃だった。一旦戻って昼食兼夕食を摂って病室に戻ったぼくが、雪弥さんの着替えをロッカーに入れ、洗濯物をバッグに詰め込んでいたとき、雪弥さんに呼ばれた。いつもとは声が違う。かなり掠れていて、声を出しにくそうだ。
ぼくは雪弥さんのそばに寄ったが、なにも言わなかった。
「手術、しないんですか?」
かなりの沈黙の後、意を決して雪弥さんに問う。雪弥さんは乾いた咳を数回して、首を縦に振った。
「どうして? 手術すれば治るって、佐田先生が言っていました」
「治らないよ」
雪弥さんがぼやくように言った。
「アメリカでも受けたもの。でも、また発症した」
苦しそうに雪弥さんが言う。雪弥さんがそこまで言ったとき、麻野が病室に入ってきた。
「目が覚めたのか」
ほっとしたように麻野が言うと、雪弥さんはうっすらと笑った。前のように酸素のチューブではなく、酸素マスクをしている。口を開いたまま肩で息をしているところを見ると、相当きついのだとわかる。あまり話さないほうがいいとわかってはいるが、どうしても雪弥さんから離れたくなかった。
「理由を聞かせろよ。手術しないなら、それなりの理由があるんだろ?」
麻野が言う。雪弥さんは目をつぶって、大きな深呼吸を二回ほどした。
「ない」
「嘘つけ。明にも言わなかったのは、いずれ手術が必要になって金が掛かるからだろ? そのくらい親父も明もなんとも思ってねえよ。むしろ死なれるほうが迷惑だ」
雪弥さんはなにも言わない。ぼくは雪弥さんがなにかを言いたげなことに気付いて、麻野を止めた。麻野は少し不満そうだったが、雪弥さんに言いたいことがあるなら言えとぶっきらぼうに言った。
「間に合わないもん」
「なにに?」
「佐和の、誕生日。虹海さんたちの追悼公演、見られない」
雪弥さんが途切れ途切れに言ったとき、麻野が大きく溜息をついた後、雪弥さんの頭を思いっきり殴った。
「ちょっ、麻野!」
「おまえは馬鹿か!? いや、馬鹿だ! そんなものどうだっていいだろうが、おまえが手術受けないんなら俺は主役降りるぞ!」
「今更そんな事いうなよ。追悼公演を見終わったら手術をするっていうことなんだから、手術を受けることに変わりはない」
「でもあと2週間以上ある。それまでに大きな発作が起きたらどうするんだよ? それに、人込みの中で発作が起きないとも限らない。煙草のにおいも、香水のにおいも、化粧品や整髪料のにおいだって雪弥にとっては見えない敵なんだ」
「それはわかってる。でも雪弥さんがそのつもりなら、それでいいじゃないか。べつに頑として受けたくないって言っているわけでもないんだし」
ぼくがフォローのために言うと、雪弥さんは少し嬉しそうに笑った。
「やっぱり集くんのほうが話がわかるね」
雪弥さんがごほごほと咳をする。かなり息が上がっているようだ。
「公演を見たら、ちゃんと手術を受けるんだな?」
雪弥さんが薄く笑う。麻野はガシガシと頭を掻いて、溜息を吐いた。
「明には俺から話す。だから公演日に外出できるようにしっかり食って体力つけろ」
麻野がぶっきらぼうに言うと、雪弥さんが小さく頷いた。きっと麻野が受け入れたのは雪弥さんが折れないことを知っているからだろう。ここまで調子が悪そうなのに本当に外出が可能なのだろうかとも思う。それは麻野も同じなのだろう。ぼくは敢えてなにも言わなかった。
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