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第39話
雪弥さんと約束をしたからだろう。麻野は本気だった。あれから2日も経たないうちに行島との殺陣稽古もすべてミスなくスムースに行えるようになっていた。麻野が本気になったらこんな集中力が発揮されるのかと思うほど、ぼくに気付いていない。練習を少しだけ見て、雪弥さんのところに行って、アパートに戻る。そんな日が続いていた。
公演まで1週間を切ったある日、テーブルの上に放置していた携帯が鳴った。ディスプレイを見ると、瀬尾からのメールだった。『話したいことがあるから15時に駅前のスタバまで来て』と書いてあるだけの短いものだ。ついでに携帯の時計で確認すると、あと10分で15時になろうかという時刻だった。うちから駅前のスタバまで、急げば5分で吐く。面倒くさいとも思ったが、ぼくは適当に支度をして、アパートを出た。
スタバに着いたのは15時丁度だった。店の前に瀬尾が立っている。ぼくに気付くと、瀬尾は「入ろう」とだけ言って、スタバに入った。
ふたりともローストアーモンドラテを注文し、シナモンをふりかけ、席に着く。瀬尾は一口啜った後テーブルにマグカップを置き、言った。
「成瀬くんと付き合うことになった」
「‥‥は?」
突飛なセリフだなと突っ込んだが、瀬尾の顔は本気だ。ぼくは「マジか」と誰に言うともなく呟いた。
「どういう経緯で?」
「お酒の力って怖いわね」
「未成年だろうが」
「いまどきそんな法律を律儀に守るのなんて、あんたと麻野くんくらいよ。
成瀬くんと二人でお酒を飲んで、そのあとエッチしちゃったの。で、朝になって成瀬くんが『瀬尾さんが酔っているのに付け込んだ』って言ってものすごい謝ってきてね」
「未成年の癖に酒豪だからな、あいつは」
「なんかいままでの男に比べたらすごく誠実で優しいから、つい付き合おうって言っちゃったのよ」
「‥‥勢いか」
「勢いね」
「成瀬はいい男だぞ。目移りしやすいしお調子者であることを除けば、博愛主義だし約束は守るし、申し分ない。チビだけどな」
「そのうち伸びるわよ」
瀬尾がどんとテーブルを叩く。どうも惚れたらしい。瀬尾が相手側をフォローするということは、そういうことだ。
「成瀬はぼくの唯一の友人だから釘をさしておくが、食い逃げだけはするなよ」
「しない。だから好みを教えて。わたし、成瀬くん好みの女になりたいの」
瀬尾の恋愛遍歴を知っているだけに素直には頷けなかったが、いつも以上に本気で思っているのが伝わってくる。ぼくはメニューを開いて、ホットベーグルサンドのベーコン&オムレツを指で叩いた。瀬尾はぼくの言いたいことを理解したようで、ガタンと音を立てて席を立つと、レジでぼくが指定したものをオーダーし、戻ってきた。
「成瀬はどちらかと言うと清楚な感じが好きだと思う。まあ、性格重視みたいだから外見はあまり言わないな。食べ物に関しても特に指定はない。ただピーマンとカリフラワーは嫌いだぞ。あと貝類な」
「プレゼントにあげたら喜びそうなものとかは?」
「そうだな。絵画とか日本文学が好きだ。だから展覧会のチケットは喜ぶぞ。ぼくは今年はラッセンの展覧会のチケットをあげた」
「今年?」
「杏子ちゃん、成瀬が泣くぞ。高校のとき、3年間クラスと部活が同じだったじゃないか。成瀬の誕生日は8月8日だぞ」
そう言ってやると、瀬尾は眉を寄せた。
「知らなかった」
「そうだろうな。おまえは長身に興味はあってもチビには興味がないからな」
成瀬も報われない。昔から瀬尾のことが好きだったらしいが、こんな形で付き合うことになるなんて、過去の成瀬は夢にも思わなかっただろう。
とはいえ、麻野から真澄くん、真澄くんから成瀬にシフトするなんて、瀬尾の守備範囲は広すぎる。確かにぼくと好みが似ているかもしれないが、ぼくはこんなに惚れっぽくはない。
「デートのときにこうしないほうがいいとか、こういう女は嫌いとか、そういうのはないの?」
瀬尾が切羽詰ったように尋ねてくる。ぼくは面倒くさくなって、ホットベーグルサンドに噛み付いた。瀬尾のこの態度はいままで見たことがない。いままでは百戦錬磨のモテ男しか好きにならなかったから、成瀬のように妙にいいヤツと付き合ったことがないからだろう。昔からそうだが、恋する杏子ちゃんほど面倒なものはない。
ぼくはホットベーグルサンドを飲み込んで、ラテを啜った。
「ちょっと、聞いてる? 有川くんだけが頼りなの」
「初心に戻れ」
「え?」
「杏子ちゃんは杏子ちゃんだ。男によって好みを変えるカメレオン的杏子ちゃんじゃなく、素の杏子ちゃんで体当たりしてみろ。間違いなく成瀬は落ちる」
「それって、どういう‥‥」
「成瀬の好みを聞き出して、マニュアルどおりの彼女になろうなんていうのは、取り越し苦労というものなのだ」
「‥‥言っている意味がわからない」
「そうだろうな」
ぼくもなぜここまで瀬尾に言ってやっているのかがわからない。ラテを啜る瀬尾を見ながら、ぼくは小さく咳払いをした。
「成瀬は昔から杏子ちゃんが好きだった」
そう言ったとき、瀬尾が固まった。
「別にセックスから恋が始まったわけではなく、『酔っていたことに付け込んだ』といったのは、そういうことなのだよ、杏子ちゃん」
おまえは本当に鈍い女だなと突っ込む。瀬尾はしばらくの間放心したように固まっていたが、やがてなにかに気付いたような顔をした。ぼくは次に瀬尾がとる行動を知っているため、ホットベーグルサンドが乗った皿を自分の膝に非難させた。
「ちょっと、卑怯よ! 返しなさい!」
「嫌だ。相談料だ。ありがたく収めろ」
ぼくは瀬尾におごらせたホットベーグルサンドをもう一口頬張る。瀬尾は苛立ったような顔をしていたが、少し口を尖らせた後、ラテを啜った。
「そうならそうとはじめから言ってくれればいいじゃない」
「ぼくがそんな親切なヤツに見えるか?」
「あんたは外道」
「ご名答」
「それはそうと、麻野くんとはどうなのよ?」
瀬尾が興味深そうに尋ねてきた。瀬尾は何気にぼくの性癖を楽しんでいる。別にそれを他の女子と共有しているわけでもなさそうだ。単に興味があるという程度なのだろう。
「おかげさまで」
「麻野くんってでかい?」
ぼくは飲んでいたラテを拭きだしそうになった。
「は?」
「前にアメトークでやってたの。だから身長が高いとでかいのかなって」
真顔で瀬尾が言う。ただの興味の範疇とはいえ、昼間から下ネタに走る女はどうかと思う。
「本人に聞け」
「聞けるわけないでしょ、馬鹿じゃないの? どうせもうエッチしてるんでしょ、もっぱらのうわさよ」
「うわさ?」
「最近二人とも妙に仲がいいし、美術室でキスしてるのを見たって子がいたの。しかもその後エッチなことしてたらしいじゃない」
「‥‥くそっ、麻野殺す」
「で?」
「ノーコメントだ。他人の興味に晒される趣味はない」
ぼくがそう言うと、瀬尾は不満そうに眉を潜め、「けち」と呟いた。けちもなにもない。ぼくはホットベーグルサンドを食べ終えると、指についた粉を皿の上に落とし、皿をテーブルに戻した。半分ほど残っていたラテを飲み、口元を拭う。
「ぼくはそろそろ行くぞ。寄らないといけないところがあるし」
「わかった。色々ありがとうね」
「おいしく頂きました」
「どういたしまして」
ぼくはショルダーバッグを手に、席を立った。
「あ、有川くん」
ぼくが振り向くと、瀬尾は少し晴れたような笑顔だった。
「麻野くんに、舞台がんばってって伝えといて」
「わかった」
瀬尾はもう完全に吹っ切れているようだ。というか、新しく成瀬と付き合うことになったから忘れていると言ったほうがいいのかもしれない。麻野の影響なのだろうか。いままでは瀬尾が離れて行ったことに対してなにも感じなかったが、成瀬と瀬尾が付き合うようになったと聞いたとき、ほんの少しだけ、昔のような関係に戻れるのではないかと期待する自分がいた。
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