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六月・ユウ「同室の男」

 紫陽花は、晴れている日より、雨に打たれているときのほうが、色鮮やかで見栄えがするのかもしれない。校舎の山側に位置する裏庭で僕は一人、ビニール傘を差して、紫色の紫陽花を眺めている。  葉の上をゆっくりと這うカタツムリを見つければ、「ねぇ、どこに行くの?」と意味もなく話しかけては時間をつぶす。  夏服になった制服は、白シャツに紺色ベストの組み合わせで、気温の低い今日は少し肌寒い。 「あっ、ユウ先輩!なにしてるんですか?」  振り向くとスケッチブックを手に持った一年生が三人立っていた。確かカイと同じ部屋の子たちだ。 「うん、ちょっとね」 「マスクしてますけど、風邪ですか?」 「そうなんだ。だからあまり近寄らないほうがいいよ。伝染ったら大変だからね」  ゴホンゴホン、と下手な演技も加えてみた。 「今日って、二年生は学園系列の女子高と交流会だって聞きましたけど、もしかして風邪で参加されなかったんですか?」  そういえばカイが「同じ部屋にすごく情報通な子がいる」と言っていたのを思いだす。名前は確か、カズだ。 「そうなんだ。僕、生徒会長なのに不甲斐ないよね……」 「そんなことないです。感染対策がしっかりしてるってことですから。どうぞお大事にしてください」 「ありがとう。君たちはどうしたの?」 「僕たち次の時間は美術で、温室で睡蓮の写生をするんです」 「そうか、頑張ってね」  三人の向こうから、同じくスケッチブックを持った一年生が何人も歩いてくるのが見え、僕は移動を余儀なくされた。  今度は誰もいない図書室のテーブルで、書架から持ってきた適当な写真集をパラパラと捲る。外国の風景がモノクロで撮影されており、酷く寂しい乾燥した土地の景色ばかりだった。  さっきカズが言っていたとおり、今日は毎年六月の恒例行事、蓮ノ池学園系列の女子高との交流会だ。女子高の生徒会役員を中心に二十名程がマイクロバスでやってきて、こちらの二年生の授業に参加したり、発表しあったりする。  僕たち生徒会としても、どんな授業に参加してもらうか教師と一緒に計画を立て、もてなしのアイデアを考え、楽しんで学んでもらえるよう入念に準備してきた。  しかし今朝。僕は学園長に呼び出され、交流会へは参加しないよう指示されたのだ。 「どうしてでしょう?学園長。何か問題がありましたか?」 「昨晩、お父上から学園に連絡があったんだ」  あぁ……。それだけで察することのできた僕はため息を堪え、「わかりました」と了承するしかない。 「皆には風邪で欠席と伝えましょう。本日は形だけでも、マスクを付けて過ごすようにしなさい」 「ご迷惑をおかけします。ご配慮に感謝します……」  自室に閉じ込められないだけマシだと思い、こうして僕はふらふらと園内を彷徨っているのだ。  父は、占い師が言う「十七歳で運命を変えてしまう出会いがある」という予言めいたものを、信じきっている。だから徹底的に僕の「出会い」を排除しようとするのだ。それが例え、生徒会主催の学園行事であっても、僕が力を注いだものでも関係ないのだろう。  図書室の後は、美術の授業が終わり人気が無くなった温室へ行き、ベンチに座って時間をつぶした。睡蓮の花の甘い匂いで、ささくれた心が少し回復する。モスグリーンのつなぎ服を着た庭師の姿が見え隠れしていたけれど、彼は僕に構わないでいてくれた。  女子高生たちを乗せたマイクロバスが帰った夕方、生徒会室に顔を出すと、皆が僕の風邪を心配してくれて申し訳なく思う。聞けば、交流会は無事に済んだようで、とりあえずほっとした。  今日は一日、人との会話が少ない日だったから、夜は談話室に行ってお喋りがしたかったが、風邪だと思っているカイは誘いに来てくれないだろう。諦めて、早く寝るしかない。  ベッドに入ろうとしたとき、ノックの音とともにドアが開く。 「ユウ、もう風邪治ったんだろ?談話室行こうぜ」  どこから風邪が治ったと聞いたのか分からないが、僕は「うん」と笑顔で返事をし、その誘いに乗った。  この交流会の一件は、僕に気付きを与えてくれた。  当日の参加こそできなかったけれど、事前の計画、綿密な準備を学園から高く評価してもらい、相手の女子高からも「今回は特に良い経験になった」と礼状が届いたそうだ。  十七歳として過ごすこの一年間、僕は父に「出会い」を制限されているけれど、他にできることもたくさんある。生徒会長としても、やれることだけでもコツコツと頑張ってみたい。  そう思うと、毎日の学園生活に少し張り合いが生まれた気がする。  六月も下旬になったころ、僕は一年生のときから同室で暮らしてきたマオの様子がおかしいことに、気が付いた。  彼はサッカー部のキャプテンで、常に部活に打ち込んでいる。マオが部屋で過ごすことは少なく、夕食後もグラウンドでの自主練や、体育館での筋トレに時間を費やしているのを知っている。  スポーツマンらしく筋肉を纏った身体は大きく、いつもハツラツとしていたマオなのに、最近は何か悩みごとがありそうだ。ため息をついたり、ぼーっとしていることがある。  さっきも消灯時間間近に談話室から戻った僕のことを、椅子に座ったままじっと見てきた。何か相談したいことがあるのだろうか? 「マオ、どうかしたの?悩み事?僕でよければ、相談に乗るけど」 「いや、あのさ、ユウ……。お、俺さ……。うーん、ごめん、やっぱりなんでもないや」  何か言いかけてやめてしまった。やはり僕では悩みを告白するのに、頼りないのだろう。  二十三時に消灯したあとも、以前なら二段ベッドの上で眠るマオは、すぐに小さなイビキをかき始め、うらやましいくらいに爆睡していた。けれど今は、なかなか寝付けないようで寝返りを打つ度に、ベッドがギシっと音を立てる。  眠れないほど、何か考え込んでいるのだろうか。僕も常に寝つきが悪く眠れない辛さが分かるから、同室のよしみで力になってやりたいのに。  翌朝、寄宿舎を出て校舎まで続く渡り廊下で、隣を歩いていたマオが突然、僕に言う。 「あのさユウ、近頃雰囲気変わったよな?」 「え?そうかなぁ。髪型もずっと同じだよ」  僕はつい最近、学園に出張してくる美容師に切ってもらった前髪に触れ、確かめる。 「変わった。なんかさ輝いてる。キラキラしてるっていうか、ホント困るんだよ、そういうのさ」  それだけ言って頭を掻きむしり、走って先に行ってしまった。どういう意味だろう。  その日の放課後は、サッカー部の練習は休みだったらしいが、マオは霧雨が降る中、一人でずっとグラウンドを走っていた。何周も何周も。  カイがそれを見て「あれあれ」と憐れんだような声を出す。カイはジョギングとか嫌いなタイプなのだろう。  マオの悩み事は、やはりサッカーに関する身体作りか何かだろうか?だとしたら、僕では解決してやれそうもない。  梅雨前線が活発なせいか、三階にある部屋にいても降り続く雨音が聞こえる夜。僕はいつもどおり、なかなか眠りにつけず、朝方にようやくウトウトとした。何か不穏な夢を見ていたけれど、ふと人の気配を感じ意識が浮上する。  ゆっくりと目を開ければ、暗い部屋の中、すぐ近くにマオの顔があった。二段ベッドの上にいるはずのマオが、下のベッドで眠る僕のそばに立っているのだ。  酷く驚いて、すぐには声が出ない。やっとの思いで「ど、どうしたの?」と絞り出すように問いかけると、さらに顔を近づけてきて、じっと僕を見つめてくる。  ふざけているようには見えない。真剣な表情の強い視線にさらに恐怖を感じ、僕は勢いよく掛け布団をかぶった。さっきまで見ていた夢と相まって、ブルッと身体が震えてくる。 「ご、ごめん、ユウ」  マオは我に返ったかのようにそう呟き、「俺、顔洗ってくる」と、部屋から出ていってしまった。僕はしばらく布団の中に潜っていたけれど、戻ってくる気配がないので、そろりと顔を出した。  寝ぼけていたのだろうか?起床時間にはまだまだ早かったけれど、結局マオは部屋に戻ってこなかった。  僕の眠気も完全に遠ざかってしまった。  その夜、カイと談話室にいても僕は欠伸ばかりしていた。 「ユウ、寝不足?」  そう問われたから、思い切ってマオのことを話してみる。 「サッカー部キャプテンのマオな。アイツ変な奴だよな。今朝は談話室で寝てたらしくて、寮父に「どうした?」って聞かれて「寝ぼけた」って答えたらしいぞ」 「寝ぼけたのか。そっか。僕、たぶん過剰に怖がっちゃったからマオを傷つけたかも。このところ悩みがあるみたいで、元気がなかったんだ、彼」 「いや、ユウは心配することないよ。それより、またなんかあったら俺に教えろよ」  カイに話したからといって、何かが解決した訳でもないのに、なんだか少し安心できた。誰かと自分が感じてることを共有するって大切なのかもしれない。  その晩、マオは消灯時間ギリギリまで外を走っていたらしく、くたくたでベッドに倒れ込んでいた。翌朝も、すごく早く起きて、サッカーボールを持って朝練に行ったようだ。  そんな日が三日ほど続いた……。  一限目の授業中に、学園長が教室にやってきた。古文の授業をしていた教師を廊下に呼び出し、コソコソと何か耳打ちしている。めったにない光景に、教室はザワザワとしていたが、今度は教師がマオに声を掛け、学園長と三人で、どこかへ行ってしまう。  授業は自習となる。僕はマオのことが心配になったけれど、斜め前の席のカイは机に突っ伏して気持ちよさそうに居眠りを始めていた。  昼休み。食堂でサッカー部の部員たちが「どういうことだ?」と大声をあげているのを耳にする。 「副部長、お前は知ってたのかよ?」 「いや、何も聞いてない……」 「あーもー、なんなんだよ!」  その会話によると、突然マオが海外へ転校することになったという。  まだ駐車場にいるというマオの元に、皆で押しかけるらしく、僕も一緒についていった。サッカー部の一年生も駆けつけてきて、「マオ先輩、行かないでください」と縋りついて泣いている子もいた。  サッカー部員の間を縫って、マオは僕のところへ近寄ってきてくれた。 「マオ、びっくりしたよ。このところ何か悩んでいるんだろうなと思っていたけど、転校のことだったの?」  僕の言葉を聞いて、マオの顔は悲しそうに歪む。 「ユウ、俺の気持ちは手紙に書いて、ベッドの上に置いてきたから読んでくれ」 「手紙?」 「うん。返事はいらないから。元気でな、ユウ」  その声は、涙をこらえるかのように少し裏返った。  マオを乗せた車は昼休み中に学園を去っていった。皆がまだ唖然としている。転校のことは誰も知らなかったようだ。  僕は午後の授業が終わり次第、部屋に戻り、マオの言っていた手紙を探す。マオの荷物が消えただけで、部屋の中がガランと広く見えた。  手紙は二段ベッドの上にあるだろうと、掛け布団をめくったり、枕をどけたりしたが、どこにも見当たらない。  マオのベッドではなく、僕のベッドに置いたのかと思って、同じように探したけれど見つからなかった。ただ、マオの勉強机の上に彼が使っていたボールペンが一本だけ取り残されていた。  夜の談話室で「手紙がどこにもないなんて、変だと思わない?」と首を傾げる僕に、カイが言う。 「ユウは何も気にしなくて大丈夫だから」  どういう意味だろう?と思ったけれど、今日はもう頭の中が疲れてしまって、何も考えられない。  マオがいなくなった翌日の朝。  ドアを足で蹴ってノックするような音が聞こえたと思ったら「開けて、ユウ!」と大きな声がする。  すぐに誰の声なのか分かり、まだベッドに横になっていた僕は慌てて起き上がる。ドアを開けてやると、たくさんの荷物を抱えたカイが立っていた。 「俺、今日からこの部屋に移動になった。よろしく、ユウ」 「えっ、そうなの!」  二階の一年生の四人部屋から引っ越してきたのだ。僕がマオのあまりにも急な転校にショックを受けていたから、寂しくないよう、こんな朝早くに引っ越してきてくれたのだろうか?  カイは、マオの机だった場所にドカドカと教科書を並べていく。 「ベッドは俺が上でいいんだよな?」 「あっ、うん」 「シーツ類は、あとで寮父が取り替えてくれるらしいから」 「そうなんだ」 「あらためて、今日からよろしく。ユウ」  カイがそう言って笑ったから、僕の寂しさは少し薄れた。

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