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七月・カイ「七夕の夜」

「手塚からの伝言がある」  早朝の温室に入ったのは初めてだった。睡蓮の蕾は開きはじめたばかりで、ガラス越しに朝陽が差し込む温室は、昼間に見るより神秘的な気配を漂わせている。甘い花の匂いも濃厚で、俺は静謐な池の様子に目を奪われていた。 「おい、聞いているのか?」 「あっ、すいません。それで、手塚からの伝言って?あの手塚さん?」 「マオの件は全て済んだってさ。大丈夫、サッカー留学をさせるよう手配したらしいから。強豪チームに入れれば彼にとって結果オーライだろうって」  庭師は軽い口調で、ことの顛末を俺に告げる。  俺の雇い主である手塚は、ユウの父親の秘書だ。マオのことは、俺から手塚に報告をし、手塚が父親に報告した。そしておそらく手塚の采配でこの件は処理された。三日で転校させるなど、かなり迅速な対応だ。  マオはあからさまな恋心をユウに向けていたけれど、ユウはそれに気が付かなかったはずだ。だとしたらあの思いの丈が綴られた手紙を俺が焼却炉で燃やした今、マオの気持ちは一生ユウに届かないだろう。  そしてあの手紙の最後には、学園を出ていく前の忠告として「ユウ、カイには気をつけろ」と書き添えてあった。ユウを常に目で追っていただろうマオには、俺の行動が怪しく見えても不思議ではない。読まれる前に焼却できてよかった。  なんにしろマオが、占い師のいう「運命を変えてしまう出会いの相手」である確率は低そうだったが、疑わしき者は排除。俺は任務を遂行するのみだ。  それにしても庭師が手塚の協力者だったとは、今まで気が付かなかった。  今朝、食堂の入口でさりげなく声を掛けられたのだ。 「あっ、君。ちょうどよかった。荷物を運びたいんだけど、手伝ってくれるか?」  ユウもその場にいて、「僕も行こうか」と言ってくれたけれど、何やら庭師に目配せされたので、俺は一人で温室へやってきた。 「俺はオマエの事情を知っている。何かあれば手を貸す」  マオの件を伝言してくれたあと俺にそう言った庭師の顔を、初めて至近距離でまじまじと見た。整った輪郭に真っ直ぐな眉、涼しげな目元が放つ視線が力強い。 「あぁ、アンタ。去年の秋、屋敷で見かけたことがあるな」 「記憶力がいいんだな、カイ。さぁ、もう行け。ぼっちゃんが探しにきたら、やっかいだ」  十一月ごろだったか、屋敷の庭のソメイヨシノのそばで、この庭師が手塚と一緒にいるところを見たことがあった。庭師はモスグリーンのつなぎ服ではなく、もっと洒落た服装をしていたから、すぐには気が付かなかったのだ。あの時、大柄な男の手が手塚にさり気なく触れていて、なにやら親密そうな二人だと感じたことを、覚えている。  四人部屋から二人部屋へ引っ越し、ユウと同室になった日の夜。ユウがいつまでも寝返りを繰り返し、なかなか眠りにつけないでいることが気になった。マオのことがあって神経が過敏になっているのかと思ったが、その状態は数日しても改善されない。  消灯時間を一時間ほど過ぎて、しんと静まり返った部屋。ベッドの下からは、ユウが寝返りを打つたびにギシっと小さく軋む音が鳴る。 「ユウ、まだ起きてる?寝つきが悪いのか?」  小さな声で話しかけてみた。 「ごめん、寝返りがうるさかった?僕、眠りにつくまでにいつも時間がかかって。子どもの頃からずっとなんだ」 「いや、全く気にならないよ。俺はもう寝るし。おやすみ」  そう答えながら、眠れないユウが気になって俺も目が冴えてしまった。  時計の針が二十五時を回った頃。スースーと一定のリズムの小さな寝息が聞こえ始め、安心できた俺もようやく眠りに落ちた。  寝つきが悪いユウは、必然的に睡眠時間が少なく、当然ながら朝はなかなか起きられない。朝食の時間が終わってしまうギリギリまで布団に潜り、起きることに抗っている。  これは学園の模範であろうとする生徒会長の意外な姿だったが、これくらい弱点があったほうが、人間らしくていいかもしれない。  ただでさえ雨天が多い山の中なのに、梅雨入りしてからはずっと、鬱陶しい雨が降り続いている。身体の周りを纏わりつく湿度で、自分が温室の池で泳ぐ小さな熱帯魚にでもなった気分だ。  そんな中、「今日は七夕ですね。この後、天気は急速に回復傾向です」と談話室のテレビの中で、女性キャスターが話しているのを耳にした。  七夕といえば、小学一年生のころ、授業の一環で笹に飾る短冊に願い事を書かされたのを覚えている。皆が「うちゅうにいってみたい」「ぱいろっとになりたい」「あいどるになる」と書く中、俺は拙い字で「おかあさんにあいたい」と書いた。今思えば、随分と恥ずかしい願い事だし、担任の先生もさぞリアクションに困っただろう。  自ら書いたものの「ばあちゃんには見せられない」と、子どもながらに気遣って通学路の用水路に丸めて捨てた記憶がある。  当時のクラスメイトたちが、おそらく将来も宇宙に行けず、パイロットやアイドルになれないように、俺も母親には会えないままだ。今となっては会いたくもない。遥か遠くの星に願うような願い事など、叶う訳がない。七夕なんてそんなものだろう。  電気を消し、二段ベッドの上に寝転ぶと、カーテンの隙間から細い細い月が見えた。いつの間にか雨は上がっている。その眉毛みたいに細い月が、柄にもなく綺麗だと思った。だから消灯時間を過ぎても、寝付けず寝返りを繰り返すユウを誘ってみようと、思い立った。 「ユウ、起きてる?」 「うん」 「あのさ、ちょっと付き合ってよ」 「え?」  二段ベッドの梯子を降り、パジャマ替わりのTシャツと短パンの上に、ジャージを羽織る。ユウにも「ほら、ユウもジャージ着て」と指示を出す。 「ねぇ、どこか行くの?」 「いいから」  俺は、静かにドアを開け、忍び足で廊下を歩き、その先の非常扉を開ける。その扉を開け放ったまま、できるだけ音を立てないように階段を降りた。  後ろからついて来ている気配がなく振り返ると、階段の上から俺を見下ろしているユウが、身振り手振りで「ダメだよ」と訴えてくる。  俺も身振りで「大丈夫だから」と伝えようとする。ふざけた伝言ゲームみたいで面白い。結局ユウは、俺についてきてくれた。というより俺を心配してそばにいることを選んだようだ。仕方ない、といった感じで慎重に階段を降りてきた。  俺たちは寄宿舎の一階非常口から外に出ることに成功する。靴は室内履きのままだったけれど、そんなことは気にしない。数時間前まで降っていた雨で濡れた砂利道を通って、裏庭へと出る。  ユウは、俺よりもさらに足音に気を付け、砂利の上をソロリソロリと歩いているようだ。 「ねぇ、こんなことして大丈夫なの?」  追いついたユウが囁くような小さな声で咎めてくるが、俺が天を指さすと彼はゆっくりと視線を上げた。そこには濃紺の夜空が広がり、無数の星が瞬いていた。 「うわぁ、綺麗だぁ」 「あぁ、よく見えるな」  月が細すぎるお陰で、空は暗く星がよく見える。しばらく二人とも無言で夜空を眺め続けた。聴こえるのは山々の木々が風で揺れる音だけだ。  ようやく口を開いたユウの声は、楽しそうに弾んでいる。 「こんな真夜中にさ、大冒険してるみたいで、ドキドキするよ。夢でもみているみたいだ」 「裏庭に出ただけで、大げさだろ」  ユウの横顔を盗み見ると、大きな目を見開いて星々を見つめている。 「あれが織姫星のベガ、こっちが彦星のアルタイル。七夕の今夜、雨が上がったから二人は出会えたんだね」 「出会いか……。だけど織姫と彦星って、そんな星が本当にあるのか?」 「うん。織姫星はこと座。彦星はわし座。間を流れるのが天の川だね。あっちに光るはくちょう座のデネブを加えて、夏の大三角形だよ」  俺は今まで、意味を持たせて夜空を見たことなんてなかった。俺が見ている星空より、さらに綺麗な星空がユウの目には見えているのかもしれない。  ふと思い立って聞いてみる。 「ユウは子どものころ、短冊に願い事を書いたことあるか?」 「うん、何度かあるよ」 「何て書いたか覚えてる?」 「うーん。「お父さんみたいな立派な政治家になりたい」って可愛げのないこと書いた気がする。カイは?」 「俺は……、書いたことないよ、短冊なんて……」 「そう。じゃあさ、今書くならなんて書く?」  その質問は俺を悩ませた。 「えーと、そうだなぁ……」  考え込んでいると、先にユウが答えてくれる。 「僕ならね、「十七歳の一年間が何事もなく過ぎますように」かな」  そう言ってから、ユウは自分で「変な願い事」と笑っている。ユウは、俺が占いのことを知らないと思っているはずだ。 「俺もそれにする」 「え?」 「俺も、「ユウの十七歳が何事もなく過ぎますように」って短冊に書いてやるよ」  星にする願い事など叶う訳がない、と思っている俺がそう言ってやるのは、おかしな話だった。  ジャージを羽織っていても、少し肌寒くなり、俺たちは再び誰にも見つからないように気を付けながら、来た道を戻る。  そもそもこの学園の生徒達は皆お利口で、夜中にふらふら出歩いたり、抜け出したりしないのだ。だから誰かと鉢合わせしたりもしないし、見張りや監視カメラのようなものも存在しないだろう。  問題なく部屋に帰ってくると、汚れてしまった室内履きが気になったが、明日の朝、ウエットティッシュで拭けばいいだろう。  真っ暗な部屋の中、各々のベッドへ静かに潜り込んだ。室内は外と違って、少しも寒くない。月は位置が変わり、カーテンの隙間からは見えなくなっていた。 「なぁ、ユウ。実家では、なかなか寝付けない夜、どうしてたんだ?」  真夜中の大冒険の後、このまま寝てしまうのはもったいないと、声を潜めボソボソと話しかける。 「あぁ。あのね、飼っている犬を抱きしめると不思議と眠れるんだ。自分じゃない体温を感じるからかなぁ。だからいつも犬と一緒に寝てた」  俺はその犬を知っている。ユウの屋敷にいるスピだ。俺はあのチョコレート色で毛むくじゃらの大きな犬を思い浮かべる。そして、俺にも懐いてくれていたあの犬の代わりをしてやろうと思った。  ギシギシと音を立て二段ベッドの梯子を降りる。 「こんな狭いベッドじゃ、犬みたいに一緒に寝てやれないけどさ」  ユウにそう声を掛け、フローリングの上で自分の左腕を枕にして寝転ぶ。そしてベッドに寝ているユウに右手を差し出した。 「ん、ほら」 「え?」 「手、繋いでやる」  すぐには意味が分からなかったようだ。それでも意図をくみ取ってくれ「なんだか恥ずかしいな」と躊躇いながらも、そっと手を握ってくる。ほっそりしたユウの手は冷たかった。 「カイの手、温かい。僕の犬と一緒だ。スピっていう名前なんだよ。僕が名付けたんだ。ねぇフローリングの上、背中が痛いんじゃない?」  そう心配してくれたけど「ユウが寝るまでだから大丈夫」と返事をした。  ユウは鼻まで掛け布団をかぶり、小さく「おやすみ」とつぶやくと、目を閉じた。  五分もしないうちに、スースーと穏やかな寝息が聞こえ始めた。俺はユウが完全に眠りに落ちたのを確認したあと、繋いでいた手をそっと放し、二段ベッドの梯子を上る。  俺も目を閉じれば、すぐに眠気がやってきて、あっという間に眠りに落ちた。その夜は、夜空の天の川に沿って、ジャージ姿でふわふわと浮遊し続ける不思議な夢を見た。  その日から毎晩、俺は消灯時間になるとフローリングに寝転び、ユウが眠りにつくまで手を繋いでやるようになった。すると不思議なくらいユウの寝つきはよくなって、ぐっすり眠れているようだ。  ユウがよく眠れたかどうかは、朝になると顕著に分かる。すっかり寝起きが良くなったユウは、目覚まし時計の音と共に起き上がり、カーテンを開け、素早く身支度を整えてから、俺を朝食へと誘う。 「ほらカイ、もう起きて」 「まだ……。もう少しだけ、寝る」 「ねぇ、朝ご飯、食べに行こうよ」 「先に行けよ……」  掛け布団を捲られてしまうと、まだ眠たい俺はユウに安眠を与えたことを少しだけ後悔する。  それでも俺は毎夜、ユウを寝かしつけ、寝たことを確かめてから二段ベッドの上に戻るルーティンを続ける。これは任務ついでの付随サービスだと自己満足しながら、眠るのだった。もちろん、手塚にこのことは、報告していない。  だけどこんな些細なことでも、自分が誰かの役に立てるのは、うれしい。

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