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八月・ユウ「夏休み」
雨が止んだ途端に、校舎をぐるっと囲む木々で蝉の大合唱が始まる。煩すぎて耳を塞ぎたくなるほどの音量だ。この夏、いったいどれだけの数の蝉が羽化して、成虫になったのだろう。
この学園がいかに山の中にあるとはいえ、真夏の暑さは免れない。好んでグラウンドや裏庭に出る生徒はほとんどなく、皆、空調の恩恵を受けている。僕もモワっと湿度のある温室に、足を向ける機会が減ってしまった。
世間の高校生は夏休みに突入しているであろうこの時期。来年度の大学受験に向けた夏期講習が学園内で行われている。進路に合わせ、理系文系と道が分かれてきたので、受講する科目は皆それぞれ違う。
カイは普段の授業は真剣に取り組んでいて成績も良いらしいが、受験勉強にはあまり興味がないようだ。夏期講習の受講科目も少なく、英語のリーディングとリスニングのみ。近頃は図書室で昼寝をしているのをよく見かける。
「カイ」
図書室の中でも、エアコンの効きがいい窓側の席で寝る姿を見つけ、肩を揺すった。
「ん?……あぁ、ユウ。もうお昼?」
伏せていたテーブルから、ゆっくりと顔を上げ、伸びをしながら辺りを見渡している。
「うん、食堂行こう。今日のランチはみんな大好きカツカレーらしいよ」
「うわ、それは早く行かなきゃじゃん」
額には、枕となっていたハンドタオルのパイル生地紋様が赤く付いていた。
カツカレーを並んで食べながら、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「カイは、どういう大学への進学を目指しているの?」
「あぁ。俺は、大学には行かない」
「え?じゃ、何かやりたいことがあるの?」
そう聞いても「分からない」とはぐらかされた。大学へ行かないという選択があることは承知しているが、この学園の中でそう言い切る人は他にいないだろう。
どう反応していいのか分からずにいると、逆に問われた。
「ユウは、どんな進路を思い描いているんだ?トップクラスの大学を出てから政治家って感じ?」
「まぁそうだね。僕の周りの人はみんなそれを望んでいるから」
「そっか」
「あまりにつまらない答えだよね……」
付け足すように、そう自嘲してしまった。カイは厚切りのカツを咀嚼してから、僕に言ってくれた。
「いや立派だし、ユウならその通りになれると思うよ。だけど、他にやりたいことがあるなら、周りが期待していることに応えなくても俺はいいと思う」
僕の将来にも選択肢があるなんて、誰も教えてくれなかったし、考えたこともなかった。
ただ急に可能性が広がったとしても、やりたいことなど思いつかないのが現実だ。
例年、お盆前の土曜日から翌週日曜日までの九日間が、学園の夏休みとなる。
ほとんどの者が実家に帰省するが、申請をすれば寄宿舎に残ることも許される。家族が海外赴任している生徒もいるから、そういう配慮だろう。
父も母も忙しく、お屋敷に帰っても留守を守ってくれている使用人にしかいないけれど、僕は愛犬スピに会いたいので帰省するつもりだ。
「カイは夏休みはどうするの?」
談話室で、自動販売機で買った炭酸飲料を回し飲みしながら聞く。
「夏休み中も寄宿舎は飯が出るっていうし、俺はここにいるよ」
「そうなんだね」
「人が少ないだろうから大浴場で泳いだりしてやるつもりだ」
いたずらっ子のように、そう笑った。
寄宿舎へ残るカイを気の毒に思ったわけでもないが、この部屋で一人ぼっちで眠るカイを思い浮かべると少し寂しくなった。だから消灯後、いつものように手を繋いでもらいながら提案してみる。
「ねぇ、夏休みはさ、僕のうちへ来ない?」
「俺が?」
「そう、僕の愛犬に会わせるよ。大きくて、チョコレート色をしているんだよ。きっとカイになら懐くと思う」
カイはしばらく天井を見ながら考えていたけれど、「じゃ、そうさせてもらおうかな」と了承してくれた。
「やったー」
一気に夏休みが待ち遠しくなる。友達と過ごす夏休みなど初めてだ。カイがお屋敷に来てくれたら、あれもしたい、これもしたいと考えているうちに、僕は眠りに落ちた。
夏休み初日の朝。朝から風が強く、山の木々も大きく揺れていた。
帰省する生徒のために最寄り駅まで学園のマイクロバスが何便も出るが、僕は毎回、父の秘書の手塚に車で迎えに来てもらっている。
手塚には「カイが一緒に帰省する」と伝えるすべもないので、伝えていない。けれど、お屋敷は急な客に慣れているし、ゲストルームも何部屋もあるから、問題ないだろう。
手塚はいつも迎えに来てくれる時間より、早くに学園へ到着していたようだ。僕らが寄宿舎から出たタイミングに、ちょうど温室のほうから速足でやってきた。なぜか乱れたネクタイを締め直しながら「お待たせしました」と息を整えつつ深く頭を下げてくる。待っていないから大丈夫なのに、少し慌てている姿はめずらしい。
「手塚、彼は僕と同室のカイ。夏休み一緒にお屋敷で過ごしたいと思ってるんだ。いいよね?」
手塚はカイを一瞥し、「承知しました、おぼっちゃん」と軽く頭を下げる。何か別のことに気を取られているような鈍い反応のまま、僕らの荷物を受け取りトランクに収めてくれる。
トランクを閉め、今度は後部座席のドアを開けてくれる手塚をよく見ると、いつも綺麗に撫でつけている髪が乱れていた。さっきまで温室に居たようだけれど、何かあったのだろうか?
「ねぇ手塚、髪も乱れてるし、首のとこ虫にでも刺されたみたいに赤くなってるよ。どうかしたの?」
運転席に乗り込んだ手塚の耳や頬が赤く染まり、少しうろたえているのが後部座席からでもわかった。
「手塚、身体の調子でも悪いかなぁ?」
風の音に邪魔されて、僕の呟きはカイにしか聞こえなかったようだ。
「違うと思うから、ほっといてやれよ」
「そう?」
車が駐車場を出る頃には、いつもの手塚に戻っていた。
二時間かけてお屋敷へ帰った。車の中ではカイの好きな食べ物について、たくさん聴き取りをする。寄宿舎の食堂で一緒に食事をすることも多いから、カイに好き嫌いがないのは知っていたけれど、好物を知りたかったのだ。
カイの好みは意外と庶民的で「肉じゃが」「きゅうりの酢の物」「あじの干物」が好きらしい。好きな果物は「スイカ」。好きなアイスは「かき氷のブルーハワイ」だという。シェフに伝えておかねば。
お屋敷の車寄せで後部座席から降り、空を見上げると数時間後には雨が降り出しそうな雲が立ち込めていた。
庭で放されていた愛犬スピが僕に気がつき、すごい勢いで駆けて近づいてくる。「スピ!」と声をかけると飛びついてきて、僕の顔をぺろぺろと舐めた。そのあとも僕の周りを勢いよくクルクルとまわり続ける。
「スピ、僕の友達のカイだよ」
僕の横にもう一人いることに気が付いたスピは、今度はカイに飛びついて、彼の周りもクルクル周った。
知らない人には全く懐かないスピなのにどうしたのだろう?カイはスピにとっても特別なのかもしれない。僕とカイが、知り合ってすぐに親しい友達になれたのと同じように。
カイはスピの愛情表現を受け止め、「よしよし、いい子だなスピ」とチョコレート色の毛を撫で回してくれた。
夏休みの間、父の命令なのか手塚もずっとお屋敷にいてくれることになった。
僕が立てた休み中のスケジュールには、「河川敷で行われる花火大会にカイと二人で行って、かき氷を食べる」という予定があったけれど、それは手塚に却下された。
「出会いは最小限にと、言われておりますので」
またそんな理由か、と落胆する。占いのことを知らないカイは、どんな過保護な家なのかと驚いていることだろう。同じ理由で「地元神社の夏祭りに、カイと二人で浴衣を着て行く」もダメだと言われた。
それでも僕はたくさんの代替案を考えた。庭でバーベキューをして、芝生の上にテントを張ってそこで眠ったり。小さなころに使っていたビニールプールを倉庫から探してきて、水を張って遊んだり。カイと二人でやれば、お屋敷の敷地内でも十分に楽しいだろう。
けれど翌朝。朝食のあとにつけたテレビを見て、僕は絶望することとなった……。
だって、大雨をもたらす大型台風が、三つも続けてやってくると天気予報が言っていたから。
「不要不急の外出は控えましょう。庭やベランダに出ている風で飛びそうなものは、室内にしまってください」
結局僕らは、ずっとお屋敷の中にいた。僕の部屋とカイのゲストルームを、スピを加えた一匹と二人で、彷徨うだけ。午前は僕の部屋でボードゲームし、午後はカイのゲストルームで配信の映画を観る。そして夜はそれぞれの部屋で勉強をしたり、くつろいで過ごす。何日もただそうやって過ごした。
明日は学園に戻らなければならないという日。昼前にようやく雨があがった。このまま天気は回復しそうだ。台風は日本列島に大きな爪痕を残し、被害にあった人もいる。それに比べたら、僕の夏休みが思い通りに行かなかったくらい、大したことではないだろう。
その日は朝からカイの姿がなく、僕は昼過ぎ、スピと二人でまだ濡れている庭に出てゆっくりと散歩をしていた。
「つまらないね、スピ……」
けれどスピは庭に出れただけでうれしいらしい。僕の周りをクルクルと回っている。
「ワンッ」
突然吠えたスピが走り出す。愛犬が向かった先には、自転車を引いたカイがいる。
「おーい、ユウ!」
カイが笑顔で買い物袋を提げる。
「屋敷の人に、自転車借りて買ってきたんだ」
そう言って、袋から手持ち花火を出し見せてくれた。そのとき僕がどれだけうれしかったか。そうか今夜は花火ができる。スピのようにカイを囲みクルクルと周って、喜びを伝えたいと思った。
子どものころから色々と世話をしてくれていた女性に、カイと二人で色違いの浴衣を着せてもらった。草履を履いて庭に出れば、手塚も渋い色の浴衣を着ていた。
いつも植木の手入れをしてくれている男性が、蚊取り線香に火をつけて、何箇所にも設置している。どこからか風鈴の音もしていた。
「さぁ、スイカ割りをしますよ」
手塚が指差す先には、大きなスイカがビニールシートの上に置かれていた。カイが僕に手ぬぐいで目隠しをしてくれる。木の棒を持たされ、その場で十回、周るように言われた。目がまわりフラフラしながら、スイカに向かって歩くも、まったく的外れなところで芝を叩く。すると、大勢の笑い声が僕を包んだ。
手ぬぐいを外すと、お屋敷で働く皆が、庭に出てきてスイカ割りを見守っている。
同じようにカイにも目隠しをし、目が回るまで回転させたのに、彼はフラフラしながらも、スイカを捉えて見事に割った。甘い果汁の匂いが辺りに弾ける。
割れたスイカの中でも大きな塊を、カイと僕がもらった。塩をかけて食べれば、よく冷えていて美味しい。
すると今度はトウモロコシが焼ける匂いがしてきた。シェフが炭火で焼いてくれている。醤油が焦げる香りが食欲を誘う。
僕が小さなころに使っていたビニールプールには、氷水が入れられていた。缶やペットボトルのドリンクが冷やされている。隣のタライでは、きゅうりとトマトが冷水に浮かんでいる。
「かき氷もありますよ」
お屋敷で執事のような仕事をしてくれている男性が、氷を掻いてたっぷりと水色のシロップをかけてくれた。それを食べたカイの舌が青く染まり、それだけのことに僕はゲラゲラと笑う。
辺りは段々暗くなり、庭のあちこちに置かれたランタンに火が灯された。
肉が焼かれ始め、本格的なバーベキューの始まりだ。カイはシェフを手伝って、鉄板でソース焼きそばを焼いてくれた。
カイは屋敷で働く色々な人に話しかけ、皿に焼きそばを盛って渡している。ゲストというより、仲間であるかのように接し、皆が一緒に楽しんでいる。
僕にも「ぼっちゃん、楽しんでますか?」と皆が声を掛けてくれた。その度に「うん、とっても」と答える。
お腹が満たされれば、カイが買ってきてくれた花火の出番だ。実は手で持つ花火を一度もしたことがない僕は、自分で持つのが少し怖い。
「まずカイがやって見せて」
「よし。じゃ、俺はこのカラフルなやつ」
手塚が、お菓子の缶の蓋みたいな金属の上で、蝋燭に火をつけてくれた。バケツに水を入れて運んできてくれた人もいる。
カイは蝋燭の火に、花火の先端を近づける。じっとしていると突然、ジャーッという音とともに、オレンジ色の光が勢いよく飛び出した。カイは、花火を蝋燭から放し、人のいないところに掲げる。まるで滝のように、光の炎が地面に降り注いでいた。
オレンジ色は途中で黄緑色に変わり、滝のような炎もパチパチという弾ける光の形に変化した。
「綺麗……」
見とれていたら、急に光が小さくなり、シュンと消えて終わってしまった。辺りが暗くなる。
「ほら、次はユウがやってみて」
カイとは違う種類の花火を選び、火をつけて、突然噴き出す黄色い光りに目を奪われて。あぁ、夏休みの風景だ、と思った。テレビや映画や小説の中でみたことがある、日本の夏。
そう思っていたらカイが僕に言う。
「初めてだよ。こんな絵に描いたような夏休みを過ごすのはさ」
カイのヘーゼル色の目に、花火の光が映っていて、とても美しかった。
花火が終わり夜空を見上げると、夏の大三角形が浮かんでいた。
「ベガ、アルタイル、デネブ。俺も覚えたから」
同じ空を見ているカイがそう言った。
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