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九月・カイ「バンド」
火曜の夕方。西日がさす温室で、いつものように手塚へ定期報告の電話を入れる。常に忙しい手塚が、簡潔な短い電話を好むと心得ているので、余分なことは言わず「とくに変わったことはありません」と伝えた。
「そうですか。ところで、お屋敷での夏休みは楽しかったですね、カイ」
手塚から話題をふってくるときは、時間を持て余しているから雑談に付き合え、という意味だと解釈している。きっと車の中で待機中させられているのだろう。
「貴方から事前の報告で、夏休みにぼっちゃんと一緒に屋敷にくると聞いたときには、思わぬ展開に驚きました。何かボロが出ないかと心配もしましたし」
「あぁ確かに。夏休み初日の屋敷に着いてすぐさ、スピが俺のところにも飛びついてきてくれたんだ。俺も自然と受け入れちゃったんだけど、ユウが不思議がったときには焦ったよ。「スピは普段、知らない人には懐かないのに」って首傾げててさ」
「ぼっちゃんが学園に入学してからの一年、スピは貴方と一緒にいた時間が長かったですからね」
「ユウにしたら、そんな状況は少しも想像してないだろうし。俺、騙してるみたいで少し罪悪感を感じた」
「それよりも私は、カイがぼっちゃんと親友のように接してくれていることを、うれしく思っています。夏休みの花火も本当に楽しそうでした。屋敷の皆も、ぼっちゃんが夏を満喫する姿を見られて、どれだけ温かい気持ちになったか。カイ、貴方はよくやっていますよ。ありがとう」
手塚が褒めてくれた。この人も褒めたりするのかと、驚きながらも恥ずかしくなって、ぶっきらぼうに「任務だからな」と答えた。
「それでは引き続きよろしくお願いしますね」
「はい。また連絡します」
いつもより長めに会話をして電話を切ると、睡蓮の池の向こう側から庭師が姿を現した。
「今の電話、手塚?」
「はい」
「時間ありそうだった?」
「あぁ、たぶん今、待機中の車の中じゃないかな?」
庭師はうれしそうな満面の笑みを浮かべ、つなぎ服のポケットからスマホを取り出した。その顔を見て思い出したのは、夏休みにユウを迎えにきた手塚が、温室から色気だだ漏れの赤い顔で出てきたことだ。
「スケベ男」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で悪口を言い、俺は温室を後にした。
学園では来月、文化祭があるらしい。高校へ通うことを諦めていた俺が、任務中とはいえ、レベルの高い授業を受けさせてもらい、こんな青春みたいなことも味わえるのは、ありがたい話だ。
「文化祭では、一人一つは展示なり発表なりをする決まりだよ」
夕食を食べながら、ユウに教えられる。
「いや、俺はいいよ」
「例外は認められません」
「じゃぁユウは?何をやるんだ」
「僕は生徒会長だから。文化祭のポスターやプログラムを作ったり、当日は開会と閉会の挨拶もする」
「それだけ?」
「それだけって、失礼だなぁ」
生徒会長の仕事に真剣に取り組んでいるユウは、わざとらしく拗ねてみせた。
翌日。校舎と寄宿舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、金木犀のいい匂いがフワっと香ってきた。つい辺りを見回してしまう。昨日は匂いに気がつかなかったのに、どこから香ってくるのだろう。
犬のように鼻をクンクンさせ、匂いを辿っていくと、グラウンドの端に丸く刈り込まれた金木犀の木があった。俺は大きく深呼吸をして秋の始まりの匂いを吸い込んだ。
この匂いのせいで、ふと中学生のころの記憶が蘇る。
ばあちゃんが長年働いていた仕出し屋の息子が、どんなきっかけだったか忘れたが、俺に中古のギターをくれると言ってきた。俺はすごくうれしくて、翌日にはその人の家まで取りに行った。あのときも確か、金木犀の匂いがしていた。帰り道、ギターを担いで歩いて帰る自分が、まだ弾けもしないのに随分と格好いい存在になったように思えたのだ。
あのギターは、今、どこにあるのだろう?これから先も、金木犀の香りをかぐたびに、ギターを担いだ帰り道をきっと思い出す。一人で練習しただけで、誰にも聴かせたことはなかったけれど、俺はギターを弾くのが好きだったから。
「ユウ。俺、文化祭でやりたいこと、考えてみたんだけど……」
「おっ、なにか思いついた?」
なんだか恥ずかしく、とても言い出しにくい。目の前にある食べ終わった生姜焼きの皿を、意味もなく箸でつついたりしながら、やっと声に出す。
「いや、あの……、バンドでステージに立ってみたくって……」
「いい!すごくいいよ!僕、応援する!楽しみにしてるから」
「いや、違うよ。俺、ユウとやりたい。他に「バンドやろう」なんて持ちかけられる二年生はいないし。頼む、一緒にやってくれ」
「でも、僕は生徒会の仕事が……」
「分かってる。それでもユウとやりたいんだ」
俺にとって高校生活を味わえるのは、この一年間のみなのだ。半年してユウが十八歳になれば「お目付け役」の任務も終わり、新たな働き口を見つけなければならない。だからどうしても今のうちに、一般的な高校生らしいことをしてみたい。こんなお願いは一度きりにするから、任務を忘れて我が儘を言わせてほしい。
秘めた思いを、ユウに正直に言うことはできないけれど、ひたすらに拝み倒した。
「頼む、お願い。一生のお願いだよ、ユウ」
土下座も辞さない勢いだ。
「バンドかぁ。きっと楽しいだろうね。カイとステージに立ったらさ」
「だろ?絶対いい思い出になる。俺が保証する。だから、な?やろうぜ」
「うーん」と悩みながらも、コクリと頷いてくれた。
「でも僕、なんの楽器もできないよ」
子どもの頃、コーラスグループに入っていたという、おぼっちゃんらしい経歴のあるユウがボーカルに決定した。もちろん俺がギターをやるのだ。
他のバンドメンバーを探し、食堂内をキョロキョロと見渡してみる。
「あっ、カイ先輩。ユウ先輩も、こんばんは」
情報通の一年生カズだ。さらに同室のゲンとナツもいて、食事が終わり部屋に引き上げるところのようだ。
「おまえら、いいところに来た。文化祭なにやるか決めた?」
「いや、僕らは習字で四字熟語でも書いてお茶を濁そうかと……」
「よし、決まりだ。俺とユウとおまえら三人でバンドをやる」
先輩の権力を振りかざし、半ば強引に誘うつもりだった。勢いで巻き込んで、メンバーにしてしまうしかない。嫌がられても引いてやらない。そう思っていたのに、一年生は無邪気に話に乗ってくれた。
「えっ、めっちゃいいですね!やりたいです。ぜひぜひ」
ゲンとナツも、「うんうん」と頷いている。
担当は、リズム感がいいと自己申告するカズがドラム。バイオリンを習っていたというゲンがベース。楽器は未経験だというナツがサイドギターと、とんとん拍子に決まった。
「リーダーはカイね」
ユウが勝手に決める。
「それでリーダー、バンド名は決まっているんですか?」
「バンド名か。うーん、考えておくよ」
食堂の片隅でこんな簡単に、バンドって結成されるのもなのか、と俺自身が一番驚いている。
早速、音楽室にある備品の楽器を借りる手続きをとった。
次に、二十年以上前にヒット曲を出した四人組ロックバンドのナンバーを三曲やることに決めた。数年前の文化祭で使用されたらしいバンド譜が、音楽室に残っていたからだ。皆が知っている曲だし、CD音源も学園にあり、取り寄せる必要がない。
文化祭は来月開催だ。豊富に時間があるわけでもないのだから、こういう妥協は大切だ。
「特別に楽器が上手くなる必要はない。この三曲だけを完璧に演奏できるようになろう」
そのような意思の疎通の元、俺たちのバンドはスタートを切った。
談話室のパソコンは使える時間が限られているが、動画視聴が可能だ。このバンドのライブ映像や、どこかの誰かが載せてくれている演奏ハウツー動画を見ることができるのは助かる。
皆が学園内でスマホを持っていたら簡単にできることが、この環境では難しかったりする。俺のスマホを提供したいぐらいだが、そうもいかない。
放課後の音楽室で、皆で一斉に大きな音を出すのは、下手くそでも気持ちがよかった。
とりあえず通しで演奏し、失敗した箇所まで戻って何度もやり直し、成功すれば皆でハイタッチをする。まるで普通の高校生の青春みたいな時間だ。
カズはスティックを落とし曲を止め、ゲンのベースは早くなりがちでテンポを狂わす。ナツは自分の演奏に必死すぎて周りが全く見えていない。
俺はその度に彼らに声を掛け、励まし、アドバイスをして、笑いかける。自分でも意外なくらい立派なリーダーをやれている。
俺が頑張れている理由の一つは、ユウのボーカルが予想以上によく、成功が確信できたからだ。初めて聴いたときは、その才能に驚いた。
どこか淡々としていて、必要以上に声を張ったりしない歌い方が、曲にハマっている。声質が優れているのか言葉がしっかりと聞き取れるのも、歌詞が良いこの曲にはぴったりだ。
ユウが生徒会の仕事で練習に参加できないときは、俺と一年生の四人で練習をした。一年生達は個人練習も相当頑張っているようで、メキメキと上達していく。俺も負けていられないから、消灯時間ギリギリまで、ギターの練習に励む。
金木犀の香りは、いつの間にかどこからも漂ってこなくなったが、花が終わったことをグラウンドの端の木まで確かめに行く暇はなかった。
練習が進んで、皆だんだんと上達していったが、カズのドラムだけが躓きから抜け出せずにいた。
俺はリーダーといっても、技術的なことは何もわからないのだから、具体的なアドバイスはしてやれない。音楽教師も「ピアノなら教えられるけれど」と当てにならなかった。
その日は残暑がひと段落し、窓を開ければ気持ちのいい風が入ってきた。だから、音楽室の窓は全開になっていた。
何度か通しで練習した後、俺は手塚に電話をかけるため皆に休憩を告げて、こっそり温室へ移動する。
電話は短く終わったが、手塚は「バンドの練習頑張りなさい」と言い添えてくれた。スマホを仕舞い温室を出ようとしたところで、庭師が声を掛けてきた。
「さっき、おまえたちの演奏が聴こえたきたけど、ドラムのフッドペダルが上手くいってないみたいだな」
「アンタ分かるのか?ドラムのこと」
「あぁ、趣味程度だけどな。大学の頃バンドやってて、俺はドラムだった」
これはもう頼るしかない。
「頼むよ。カズに教えてやってくれ。目の前でアンタが何度かやってみせてくれるだけで、違うと思うんだ」
校舎内を歩くモスグリーンのつなぎ服姿は違和感が半端なかったが、音楽室でドラムの前に座る姿は様になっていた。
カズは何度も庭師に質問し、彼はその都度やって見せてくれた。言葉でも丁寧に説明を加えてくれる。人に教えるのが上手いようで、カズは感覚を掴むことができた。
庭師は俺たちバンドの救世主となった。
俺も負けていられないが、弦を押さえる指先にマメができて痛い。今日は特に練習し過ぎたようで、ヒリヒリとする。
風呂に入って頭を洗うときにも指先の痛みは影響した。ドライヤーをするにも痛いことが想像できたから、タオルで拭いただけの濡れた髪で部屋に戻った。
「どうしたの?髪、乾かさなかったの?」
文化祭の開会と閉会でするスピーチの原稿を書いていたユウに、問われた。
「あぁ、今日はいい、このままで」
「風邪ひくよ」
「大丈夫だから」
疚しいわけでもないが、俺は咄嗟に指を隠した。目敏いユウがそれに気が付き覗き込んでくる。
「指先、赤くなってるね。痛そう。ちょっと待ってて」
絆創膏でも貰いに行ってくれたのだろうか。ユウはいつでも皆に優しい。
予想に反し、保健室ではなく、脱衣所からドライヤーを持って戻ってきた。
「いいって言ったのに」
「僕が乾かしてあげるから座って、カイ」
「え?いいよ。じゃ、自分でやる」
「やってあげるから、座っててば」
さっきまでユウが原稿を書くために座っていた椅子に座らされた。
「やめろ、恥ずかしいだろ」
ユウはブツブツと文句を言う俺の後ろに回り込んで、手櫛で漉きながらドライヤーを当ててくれた。
「フフフ。スピの毛を乾かすより楽勝だね」
そう言われ、抵抗する気は失せた。
母親がいない俺は、風呂上がりに髪を乾かしてもらうなんて、今まで誰からもされたことがない。地肌をなでるユウの指が気持ち良くて、ドライヤーの熱が温かくて、心まで温かくなって、あやうく涙が出そうになった。
ユウにしたら犬の毛を乾かすのと同じ行為なのに、俺だけが変だ。
「はい、できあがり。サービスで歯も磨いてあげようか?」
「ふざけるな」
俺はユウにお礼も言わずに「これ片付けてくる」とドライヤーを仕舞いに脱衣所へ向かった。
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