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01-1.大公の幼馴染は番を認めない
* * *
翌朝、事件は起きた。
アーサーの出勤を見送った途端、カイルはメイドに水をかけられた。汚いものを見るような目を向けられ、バケツを両手で握りしめたメイドの目には悪意が込められていた。大慌てで近くにいたメイドたちが彼女を捕獲するが、彼女は諦めていなかった。
彼女の名はダリア。苗字はない。平民出身のメイドだった。
「離して! あいつがいけないのよ!」
ダリアはヒステリックに声をあげた。
しかし、誰もダリアの味方をしない。ダリアの行為は間違っており、誰もが擁護をすることのできないことをしでかしたのだ。
「なにをするのですか」
カイルは突然のことに驚いていた。
しかし、動揺はしなかった。
アーサーが出勤をした途端になにかしらの事件は起きると想定していたからだ。大公家で働いている若い女性の中には、結婚をしていなかったアーサーと結ばれ、大公夫人になることを夢見る者がいることを知っていたからだ。
しかし、水をかけられるとは思わなかった。
「出て行って! アーサーはアンタなんかと番にならないわ!」
ダリアはヒステリックに叫ぶ。
その言葉にカイルは動じなかった。
「番契約は済ませました。それに主人を呼び捨てにするのは常識外れでしょう。大公閣下と呼ぶのが正しいかと思いますが」
「アタシは許されているのよ!」
ダリアはメイドに押さえつけられながらも、口を閉ざさない。
……特別な関係だと思い込んでいるタイプか。
厄介な人に目をつけられたと自覚する。
騎士をしている時にも似たような性質の女性から追いかけられている同僚を見たことがある。その都度、女性の言い分は違っていたことを思い出した。
……厄介だな。
対処はできる。しかし、思い込みが激しいタイプの人間を相手にするのは非常に疲れる。特にダリアのように行動を起こすタイプは厄介だった。
「アタシはアーサーの幼馴染だもの!」
「事実ですか?」
「当たり前じゃないの!」
ダリアは主張した。
それに対し、カイルは困ったように視線をダリアから外す。
「彼女の言い分は正しいのですか?」
タオルを持って走ってきたメイドに対し、カイルは問いかける。
タオルを受け取りながら、メイドの返事を待つ。
……即答しないということは事実か。
認めたくはないものの、事実なのだろう。
「……ダリアは大公閣下の乳母の娘です。幼い頃から共に育ったという意味では、幼馴染と呼べるでしょう」
メイドは困惑したように答えた。
どうやら、ダリアの思い込みによる発言ではないようだ。
カイルはそれを聞き、納得したように頷いた。
「アーサーから厄介ごとに巻き込まれるとは聞いていました。彼女のことも含めていたのでしょう」
カイルは呆れたように言った。
それに対し、ダリアは諦めていないようだった。
「オメガなんて汚らわしい! 大公夫人にふさわしくないわ!」
ダリアはカイルの元の性別がアルファであることを知らない。
だからこそ、偏見を口にした。
……オメガに対する偏見は消えないものだな。
国策としてオメガを保護する動きが始まりつつある。オメガは性別問わず、子どもを産むことができる貴重な存在だ。少子化に悩む国として保護をするように動くのは当然だった。
そうしなければ、オメガの地位は低いままだ。
……なにも悩みのないベータの考えは羨ましいものだ。
それを知っているからこそ、カイルはダリアに冷たい視線を送った。偏見を抱いている多くの人間はベータだ。アルファでもオメガでもなく、第一の性別通りに生きていることが許されている大勢の人々である。
羨ましかった。
カイルには手に入らない生活をしている人々が妬ましかった。
「オメガに対する偏見は国王陛下の政策を非難するのも同然ですよ」
カイルは淡々とした声をかける。
それに対し、ダリアは理解ができないと言いたげな顔をした。難しい言葉は使っていないのだが、冷静ではないダリアにはなにを言っても伝わらなかった。
「国王陛下とか関係ないわ! ただ、あんたはアーサーにふさわしくないって話をしているのよ!」
ダリアの主張は一方的なものだった。
……話にならないな。
カイルはため息を零した。
……威圧するか。
アルファの威圧はまだ使える。オメガに成ったばかりの為、今はアルファとオメガの性質を両方抱えている不安定な状態だった。
そんな中、威圧を使えば体調を崩すのは目に見えていた。
それから、ダリアに近づいていく。誰もカイルを止める者はいなかった。
突然の動きに対し、ダリアも驚いていた。
「貴族ではない貴女なら、アーサーにふさわしいとでも?」
カイルは言葉遣いをあえて崩す。
威圧をするような視線をダリアに向ければ、ダリアは息を飲んだ。アルファの威圧を受けたのだ。まともに息さえもできず、その場に座り込む。
……威圧はダメだ。
カイルは威圧をするのを止めた。
ベータのダリアには効果が強すぎた。
「俺は子爵家に落ちぶれたとはいえ、元は公爵家の出身だ。言葉には気を付けろ。俺はアーサーとは違って、メイドの安否など気にもしない」
カイルはダリアの頬を掴んだ。
顔を握りつぶすのではないかというほどに力を込める。
「解雇通知を出してほしいならば、そう言え。俺は自分に逆らうようなメイドはいらない」
カイルは用件だけを告げるとダリアから手を離した。
それから、目の前でわざとらしくダリアに触れていた部分をハンカチで拭く。そのハンカチをダリアを抑えていたメイドに渡し、洗濯をするように告げた。
「カイル様。この者にはよく言い聞かせておきますので。どうか、ご容赦くださいませ」
慌ててカイルの前に飛び出してきたメイド長は、ダリアの頭を掴んで強引に頭を下げさせる。ダリアの母親だ。
「ママ!」
「メイド長とお呼びになさい!」
「でも、アーサーと結婚できるのはアタシだって言ったじゃない!」
ダリアは泣き喚く。
本気でその言葉を信じていたのだろう。
……メイド長とその娘か。
縁故採用は問題の種になるとして実家では採用していなかった。どうしても、甘えが出てしまう。この二人もその類だろう。
「そのような無礼な言葉を口にしたことはありません!」
メイド長ははっきりと言い切った。
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