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第19話 嫉妬

 体の奥にこだまする共鳴音にレイが顔を真っ赤にして俯いていると、モートンがまるでタイミングを見計らったかのように、「では、私はこれにて失礼いたします」と恭しく一礼して、玄関から出て行ってしまった。カチリと施錠する音が重く響いて、レイは余計にクラウスの顔を見ることができなくなった。  握られた手の熱さはワインに酔っているせいだろうか。コーヒーカップを持ち上げると、すでに中身は空になっていてそのままソーサーの上に置いた。クラウスも、レイの手は握ったままで、自身のコーヒーを飲み干す。 「レイ」 響く艶やかな低音に、レイは緊張した。恐る恐るクラウスを見ると、クラウスの威圧的な笑顔に心臓が大きく脈打つ。クラウスがレイの手からそっとセリル製の洗髪剤を取り上げた。 「今夜使いたいか? それとも、明日か?」 ――曰く、今日一緒に入るか、明日一緒に入るか、と聞かれているのが分かる。必ずどちらか選ばなければならないだろうか。レイは眼鏡のずれを直しながら、聞いた。 「えっと、明日と言った場合は――」 「このまま客室に連れていく」 「今日と言ったら――」 「シャワーの後に客室に連れていく」 クラウスのはっきりした物言いに、レイは自身の額に握りこぶしを当てた。 「決定事項か」 「……正直、一度目がなし崩しで始まってしまったから、二度目はもう少し時と場所を考えたかったが、うかうかしていると君に悪い虫がつきそうだ。それに……お互いの気持ちは、さっき確認できたと思っているが、それは私の誤解だったか?」 クラウスの言い草に、レイは唖然とした。 「そ、の、言い方は、ズルすぎる!」 レイの主張は、クラウスに少し苦しそうな表情をさせた。それが少し申し訳なくて、レイはまた視線を逸らした。 「狡いのは君だろう。好きだと言ってくれているのに、私の気持ちには応えてくれない。大学に帰られたら、私にはそうそう手が届かなくなってしまうと言うのに、君を狙っている者がいる場所にむざむざ送り出せと言うのか?」 クラウスの悲痛な声が聞こえてくる。安心したいという気持ちがひしひしと伝わってくる。でも、まだ先行きがわかっていない状態で返答しろなんて、それもまた残酷ではないだろうか。 「クラウス、クラウス。焦るな、君の気持ちは分かった。でも、こんな進み方をしたら、君が後悔するのが目に見えている。俺はそんな選択の仕方は出来ない」 握られている手を解かないように、レイは足に力を入れて立ち上がった。コーヒーのおかげで少し酔いが覚めたようで、今度は膝が抜けなかった。 クラウスのバツが悪そうな顔を見ながら、レイはクラウスに近寄って、抱き寄せた。 「この洗髪剤は、アイツが魔法薬士としての覚悟を見せたかった、そういうことだ。催淫作用は無いし、俺に対する好意とかそういうのでは──」 「君がそんなだから不安なのではないか!」 言葉を遮り、クラウスも立ち上がってレイを強く抱きしめた。彼の魔力が放したくないとレイを包み込む。その魔力から感じる寂しさに、レイは言葉を失った。 「何故君は、他人からの好意にそう鈍感なんだ」 クラウスの声が震えている。不安と嫉妬で、クラウスの魔力がレイにまとわりついてきていた。レイは静かに息を吸って、ゆっくりと伝える。 「……そうじゃない可能性を捨てられないからだ」 レイはクラウスの背中をそっと撫でた。 「グランディールが俺に好意を持っているかなんて、本人から聞いたわけじゃないんだ。確証がある何かがあった訳ではない。なら俺は、一人の魔法薬士として関わるよ。それは、分かるだろう? だが、クラウスが嫌なら、もうセリル・グランディールに近寄らない。でもそれで、本当にクラウスの気は晴れるのか?」 レイの言葉に、クラウスは黙り込んだ。レイはそのままクラウスの背を撫でながら、彼が落ち着くのをただ待っていた。何往復彼の背を撫でたかわからない頃、クラウスがレイの首筋に顔を埋めながら、呟くように答え始める。 「……そんなことを、望んではいない。私は、魔法薬士としての君の矜恃も、考え方も、尊敬している」 「知ってる」 「君を閉じ込めたいのに、それを私自身が望んでない」 「それも知ってる」 「君に関わる不埒な感情を持っている奴だけを排除できる手立てがないだろうか」 「突然物騒だな」 レイは笑った。クラウスも小さく笑っているのがわかる。レイを包んでいるクラウスの魔力が、少し元気になって背を撫でるレイの手を追いかけてくる。 「君が魅力的なのが悪い。全部君が悪い」 「そこについては承服しかねるなぁ」 「分かってくれ。君が眩しいんだ。だから、不安で堪らない。……君が、私に対して好意を持ってくれているのは、私も分かっているんだ」 レイはクラウスの背を撫でる手を止めた。暫し考え、首筋に顔を埋めたままのクラウスに頭を寄せる。 「だから、確かな形が欲しい?」 クラウスが少し躊躇って、そのまま頷いたのが分かった。 レイは悩んだ。言ってもいいんだろうか。未来の担保もない、目の前の男を自ら手放さなければならないかもしれない未来が来るかもしれない。その時に自分は耐えられるんだろうか。それならば、いっそのこと最初から手にしないほうがいいのでは? 保身に走って、目の前の好きな人の不安を取り除いてあげられない後悔と、不確かな不安に備えて全てを無くしてしまう後悔と、どちらの方をとる? レイは口を開いた。 「好きだよ。クラウス」 クラウスがより深くレイを抱きしめた。クラウスの魔力がまた不安そうに擦り寄ってくる。レイは笑いながらため息をついて、また背中を撫でた。 「『言わせてしまった』なんて思うなよ。言うのがちょっと早くなっただけだ。ただ、結婚までは急いてくれるな。俺もクラウスも、お互いを知らな過ぎる。俺は、幻滅される自信があるから」 「……例えば?」 クラウスが顔を上げて首にキスを落としてくる。くすぐったくて体が反応を返す。レイは少し考えて、どの程度から小出しするかを考えた。 「週の半分は家に帰ってない、とか」 「学校に泊まるのか?」 「仮眠室があるからそれで済ましてしまうことが多い」 「何故?」 「……大体、オーバーヒートを起こすから」 むっとした顔をしてレイの顔を見てきて、ほらやっぱりそんな顔をする、と思った。すると、思わぬ方向性の反応が返ってきた。 「オーバーヒート時の顔を、どれだけの人に晒してるんだ」 「大体倒れる時は、ゼミ内で倒れるから……ゼミにいる奴らは大体見ている、かな?」 そう答えると、とても微妙な表情をされて、額にキスを落とされた。 「オーバーヒートは、免れないのか?」 「研究してると、割と高確率で起こす」 「予防策は?」 「ない。長時間の抽出作業が無ければ可能だが、やっている内容的に難しい」 クラウスの顔が、まるで苦虫を嚙み潰したかのような表情を浮かべており、レイは首を傾げた。確かに魔力回路のオーバーヒート自体はそんなに良い事ではないだろうが、自分にとっては仕方のない体質なので、それを禁止されるとどうしようもなくなってしまう。 クラウスがため息をついて、レイの髪にキスを落とすと、また強く抱きしめてきた。 「怒らないで聞いてほしいんだが」 クラウスがそう前置きして口を開いた。 「君の……オーバーヒート時の表情は、煽情的で、他の人に見せたくない」 言われて、レイは全身の血が熱く駆け回るのがわかった。こいつはいったい何を言っているんだ。羞恥に震えて口を開くがなんと言えばいいか分からず何度も口を開閉してしまう。その様子を見て、クラウスはため息をついた。 「自覚がない、とは……やはり罪な男だ」 「意味が……分からん!」 魔力が羞恥に震えて、レイの周りを漂っている。それを知ってか知らないでか、クラウスは細い目をさらに細めてレイを見据えた。 「詳しく言うと、魔力のコンディションが悪くなった君がキスを強請ってきたときの表情にそっく―――」 「言わなくていい、頼むから、本当に、それ以上は」 頭が爆発しそうで、レイはクラウスの肩に顔を埋めた。もう顔を上げられそうにない。絶対わざとだ。確信犯で言っているに違いない。 それを尻目にクラウスがそっと耳元でささやく。 「幻滅したか? 私は、結構嫉妬深いらしい」 熱っぽい声に、レイは身震いした。レイの周りに漂う魔力が反応して、クラウスの魔力にすり寄っていくのが恥ずかしい。耳まで熱くなりながら、レイは首を振った。その反応をみて、クラウスが嬉しそうな声を出した。 「なら、そうそう、お互い幻滅するようなことはないのではないか?」 今度は、クラウスがレイの背中をぽんぽんと宥めるように叩いてくる。 レイは先ほどの爆弾発言を真摯に受け止めようと努力したが、オーバーヒートについては本当にどうしようもない。これは新たな不安の種になってしまうのではないだろうか。 「クラウスは……俺に研究をやめてほしいか?」 「それはない」 即座に入る否定に、レイはほっとした。背中を叩く手が止まって、しっかりと背に手が回った。 「それは、君の生きる目標だ。それを蔑ろにはできない。ただ、その研究によって君が……その……」 「俺が痴態を晒すのが嫌だ、と」 レイの一言に、クラウスが苦笑いしたのがわかった。 「その鋭い皮肉も、君の魅力でいいんだがな」 「俺はお前の性癖が歪んでしまってないか心配になったよ」 クラウスが一度レイを驚いた顔で見て、満面の笑みを見せた後、また抱き着いてきた。そのよく分からない行動にレイが首を傾げると、クラウスが噛み締めるように笑い始めた。 「君のその砕けた話し方も、私は好きだ」 「あ、すまない。油断すると、口が本当に悪くなってしまって」 「いや、もっと出してほしい。気を許してもらっているのが分かって、私は嬉しい」 クラウスの魔力がレイを包み込む。雑に扱われて喜ぶってどういうことだよ、と思いながら、レイは呆れたように笑った。 互いの胸のつかえがとれたのか、その後はお互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合った。ふと視界に入った壁掛け時計を見て、レイはクラウスの肩を軽く押した。 「そろそろ動こう。テーブルはどうしておくのがいいかな。明日の朝、モートンが困らない程度には片付けておこう」 そう言って離れようとするレイの手を掴んだ。まだ何かあったかと思ってクラウスに視線を移すと、眼前にセリル製の洗髪剤が掲げられており、洗髪剤越しに見るクラウスの表情は満面の笑みだった。 「で、どうする?」 聞かれて、レイの顔が引きつった。どうやら意地でも引く気はないようだ。レイは頭を振りながら深くため息をついた。この男の嫉妬心は本物だ。そして、それが満更でもないと思っている自分も、救いようがない程、手遅れのようだ。 「……わかった、クラウス、今夜使ってもいい、が、これは魔法薬士として、きちんと検証もしたいんだから、邪魔するなよ」 「お気に召すままに」 クラウスは洗髪剤の小瓶をカウンターの上に置いた。その間にレイは空になったコーヒーカップを魔法で浮かせてキッチンに持って行った。クラウスは人差し指をくるりと回しながらテーブルクロスを浮かせて空中で綺麗に畳むと、そのままテーブルとイスも魔法で浮かせて店の隅の方に移動させた。クラウスが魔法を使っているところを見ると、レイは少し感慨深い気持ちになった。 「長く魔法を使ってなかったから、勘が衰えてないか?」 「むしろ、とても使いやすくて驚いているよ。レイと触れ合っていたせいかもしれない」 言われて、レイも自分の魔力を観察した。調律したと言うほどではないが、普段よりもなんとなく使いやすい。まるで魔力の機嫌がいいような、よく分からない感覚だった。 「魔力の相性がいいと、こういうことも起こるのか」 「私も同じことを考えていたよ」 クラウスが同意するので、レイは「おや?」首を傾げた。クラウスがレイの行動を見て、手で制した。まるでこちらが言いたいことは分かっているから皆まで言うなとでも言うかのように。 「……先に断っておきたいんだが」 「言いづらいこと言うとき、割とそうやって前置きが入るよな」 茶化すようにそう言うと、クラウスは苦い顔をしながら笑い、続けた。 「レイ、今まで出会った中で、君との相性が一番いい。運命を感じるほどに」 クラウスの言い方に笑いながらレイは先ほどクラウスがカウンターの上に置いた洗髪剤を手に取り、浴室に向かいながらこう言った。 「――なら、きっと運命なんだろうさ」

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