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第38.5話 刻骨銘心 ※
「すまない……リミッター解除剤の副作用で……魔力のコンディションが悪い。それで精神的に、弱っているだけだから……大丈夫だ」
そう言ったにもかからず、クラウスはレイをずっと心配そうに抱きしめた。
鼻が詰まるぐらい泣いて喚いて、少し落ちついた頃、慰めるようにそっと落とされるキスを受けながら、レイは嗚咽を漏らした。優しくされるのが、嬉しいのに嬉しくなかった。目を擦ろうとするレイの手をとり指を絡めてくるクラウスに、縋るように視線を送ってキスを強請る。優しく微笑む恋人が、目尻から流れる涙を追いかけてキスを落としてから唇を重ねるので、少しだけ口の中に塩味が広がった。
その度に、なぜ自分はこんなに弱いのか。無力感に押しつぶされそうだった。
「だいじょうぶ……ごめん」
レイがそう謝るたびに、クラウスはキスをする。
「もう、平気だから」
強がるたびに、唇が塞がれる。キスをされるたびに滑り落ちていく涙を、クラウスが掬い上げる。涙で顔に張り付いた髪を漉いてくる優しい指先に、愛しさが募るのに辛い。弱っている自分を見られているという屈辱感も相まって、顔を逸らしてもクラウスは愛しそうに見つめてくる。
その瞳が、さっきの見た悪夢と重なって、呼び水となってまた涙が出てくる。いつか、この優しい男を、自分が殺してしまう日が来るかもしれない。その恐怖が脳裏から離れない。
「クラウス」
両手を伸ばしてクラウスの頬を触ると、彼の細い目が嬉しそうに更に細くなる。「どうした?」とわずかに首を傾げながらレイを見降ろすその男の背中に手を回して、レイはぎゅっと引き寄せた。クラウスの鍛えられた体の重みが胸にのしかかる。それでも、その苦しさも今は心地よかった。クラウスの首筋に顔を摺り寄せ、溢れてしまいそうな恐怖を、一緒に飲み込むつもりで肺いっぱいに息を吸い込んだ。
この恐怖は手放せない。手放してはいけない。そうやって自分を戒める。幾重にも理性で鍵をかけて、また虚勢を張る。そうでなければ、もう一度立ち上がれそうになかった。
「大学から帰ったレイの匂いは――」
突然クラウスが話し始めて、レイの思考が一時的に中断された。
「いつも、何かの薬品の匂いがする」
そう言われて、ハッとして手を離した。いつもベッドに入る前には風呂に入るか洗浄魔法をかけるので、すっかり失念していた。というよりも、そんな風に思われていたことを今言うのはどうかと思う。手を離したのに、クラウスはレイから離れようとせず、思いきりレイの髪の匂いを嗅いでくる。
「バッカ! やめろ!」
クラウスを引き剥がそうとするが、当の本人はレイの背にしっかりと手を回して放そうとしない。焦るレイを見てか、クラウスが面白そうに笑っているのを見て、レイは感情の置き場に困ってまた目尻が濡れ始めた。
「君が、頑張っている証拠だ。誇らしいよ。今日みたいな無茶は、あまり歓迎できないが」
すんっと鼻を鳴らすレイの目尻に、クラウスがまたキスを落とす。まるで、レイから零れたものは全て自分がもらいたいとでも言うかのように。
それでも、レイの心は晴れない。頑張っても、いつまでたっても届かない。早くクラウスの隣に立てるような自分でいたいのに。今日みたいなことが起こらないような、誰にでも誇れるような自分でありたいのに。誰かを危険に晒してしまうような弱い自分なんか、見捨ててほしいのに。クラウスはレイが捨てたいものをひとつ残らず拾おうとする。
放っておいてほしい。そばにいてほしい。矛盾だらけの感情で、むき出しになった幼い自分が駄々をこねている。
「クラウス、俺……怖い」
感情に任せて言葉を発するのは、好きじゃない。でも、今日だけ許してもらえないだろうか。氾濫した川のような感情の渦に、歯止めが利かない。
「……教授に、謝らないと。巻き込んで、すみません……ごめんなさい」
「レイ、それを言うなら、私が謝らねばならない。もとはと言えば、私の呪いが原因だ」
クラウスの真剣な瞳が、レイを射抜く。しかし、耳に届く優しいクラウスの言葉が、今のレイには重く響く。静かに首を振るレイに、クラウスは歯痒そうにつぶやいた。
「私の中で、君がくれた言葉はどれもあたたかく輝いているのに、私はそんな言葉を君にかけてやれない」
涙で顔に張り付いた横髪をクラウスの指がそっと払い、レイに深く口付けた。鼻が詰まっていて息ができない。それでも、レイは息が続く限りクラウスの唇を受け入れた。泣いた後で肺がひくつく。ひくつくたびにクラウスが口付けしながら髪を撫でた。
言葉をかけてやれないからと、行動で安心させようとするこの男の体温に、レイは余計に涙が出てきた。
唇が離れ、クラウスは自分の首元を緩め始めた。
「――レイ、ここからは……私のわがままだ」
レイに体重をかけないようにクラウスが身を起こして、シャツのボタンを外していく。
「君はきっと、そんな気分にはなれないだろう。だが君のその辛さが、本当に魔力のコンディションの悪さによるものなら……私が君にできることは、一つしか思い浮かばない」
シャツが脱がれ、クラウスの鍛えられた体が晒される。天蓋のせいで半分暗いベッドの上で、部屋の奥の光がクラウスの裸体が照らす。
「レイ……私に、抱かれてくれ」
響く低音、こちらの様子を窺うように見下ろす藍色の瞳、かき上げられる光る白金髪。――あぁ、ずるい。そんな誘い方は、ずるい。
レイのひくっと肺が震える。レイは涙をこぼしながら、クラウスを自身の体へ招くように両手を伸ばす。レイの手に誘われるように、クラウスの顔がゆっくり下りてくる。そっとクラウスの背に腕を回して、レイはクラウスの口づけを受け入れた。
心と体の乖離が酷い。嬉しい。悲しい。苦しい。こんな状態の自分を、この優しい男に抱かせてしまうのが、申し訳ない。せめてこれぐらいは、と自分の中に洗浄魔法をかけようとするが、魔力が練り上がらない。しばらく眠っていても、これだけクラウスと密着していたとしても、まだ魔力が言うことを聞いてくれない。
「ク――」
彼の名を呼ぼうとした瞬間、クラウスは人差し指をレイの唇の上にそっと乗せた。クラウスの魔力が練り上げられ、レイの下腹部に手が添えられる。クラウスの魔力がそっと広がってあたたかさを感じ、腹の中がもぞりと動いて、洗浄魔法がかけられたことが分かった。
ずっと調律するときはレイにさせていた行為なのに、と思ったが、レイは合点がいって瞼を閉じた。クラウスの言う「抱かれてくれ」とは、そういうことなのか、と。レイの意思を尊重する癖に、これは自分のわがままだから、レイの方から受け入れる必要はないという意思表示に、彼の何とも言えない不器用さを感じる。
「……っ」
込み上げてくる感情に、レイはまた涙を流した。こんなに優しくされる価値が自分の中に見出せない。いつかきっと、自分の弱さがクラウスを殺すだろう。マルキオン教授が助かったのは、本当に運が良かっただけだった。次がそうとは限らない。
「レイ」
呼ばれて目を開けると、少し辛そうなクラウスの表情が瞳に映る。
「愛している」
クラウスの優しい魔力が、レイを包み始めた。安心してほしいと、クラウスの魔力がレイに伝えようとしてくる。
クラウスが深く口付けしながら、レイのシャツのボタンに指をかけた。普段は焦らすように外すそれを、今日に限っては迷いなく外していく。
晒される素肌に、クラウスの掌が滑るたびに体は熱を帯び、心は底に沈んでいく。思考を許さないように、クラウスが休みなく体に触れてくる。余韻に浸ることも許さず、心の恐怖なんかより、自分を感じろと主張するように。
レイは涙をこぼしながら喘いだ。「泣いていい」「大丈夫だ」とクラウスの魔力が顔を撫でる。クラウスがレイのズボンをおろして、心の状態とは裏腹に勃ち上がるそれを口に含み始める。――やめてほしい。続けてほしい。相反する感情に、レイの思考は完全に停止した。
腰から上がってくる快感に、頭の中は甘さで充ちているのに、どうにも達することはできない。最後の一線が、どうにも超えない。腰は勝手に跳ね上がり、体は何度も頂点を求めているのに、心が二の足を踏む。
クラウスの指が後ろの穴をそっと押し広げながら滑り込み、レイの嬌声は更に高くなった。いつもなら魔力で慣らす行為も、今日はクラウスの筋張った指だった。それでも知り尽くしたように、レイの中の一番敏感な部分に正確に躊躇いもなく触れてくる。魔力よりも確かな前戯の刺激に、レイは打ち震えた。前と後ろ、両方からあがる感覚に、レイは目尻から涙をこぼし悲鳴のような嬌声を上げながら熱を吐きだした。
レイの魔力が弱く反応して、クラウスの魔力へそろりと寄っていく。それが分かったのか、クラウスの表情がどこかほっとしたように見えた。
口元を拭いながら、クラウスが口の中の物を飲み下して、サイドテーブルにあるグラスに手を伸ばそうとした。その腕に静かにレイは手を添えた。藍色の瞳がこちらの様子を窺うように見つめてくる。レイは小さく首を振り、クラウスの顔に触れてそっと引き寄せた。先ほどまでレイを咥え込んでいた唇に自身の唇を重ねて、舌を割り入れる。苦く複雑な味が広がるが、それをクラウスの口の中からなくなるまでレイは離さなかった。
それは、恐怖を抱いたままの、ちょっとの強がりだった。――伝われ、伝われ。俺も、お前が欲しいって。
震える指先で、クラウスの首筋を撫でる。唇を離さないまま、再びクラウスの指が充分に解された穴にのびた。体が、魔力が、柔く溶ける。
「レイ、挿れるぞ」
クラウスの低音が鼓膜に響く。それは自身のわがままという体を装った、有無を言わさない雰囲気を纏った、確認だった。この男は、最後の最後まで、優しすぎる。気遣いが沈んだ心に沁みる。
レイは応えた。でもそれが声にはならなかった。掠れて音に乗らない言葉がクラウスに伝わったかは分からない。――来て、クラウス。
クラウスがそっとあてがった自身を、レイの中に差し入れる。ゆっくりと進んでくる感覚に、レイは声を上げながら目からまた涙がこぼした。いい加減止まれよ、と自分でも思う。そう考えられるぐらいには、歯止めが利かなかった感情の波が、少しずつまとまってきている。クラウスが根元までレイの中に入れ込むと、はっと息を吐きながらレイの頭を跨ぐように両手をついた。
はたりと落ちてくる温かい水滴に、レイは目を奪われた。きれいな雫がクラウスの瞳から一粒だけ落ちた。
「……なんで」
なんでお前が泣くんだよ。その言葉が続くことはなかった。クラウスの唇がレイが言葉を紡ぐのを阻んだ。クラウスの魔力が、レイの魔力を飲み込むようにぎゅっとつかんで離さない。
伝わってくる。――愛してる。離さない。こんな思いはもうさせたくない。
「レイ、私も、怖い」
唇が離れ、髪を撫でながらクラウスがこぼした。
「今日の爆破事件の被害者が、君だったらと考えると、私は――」
その言葉が、またレイの心を震わせる。そうやってレイを想う心が、いつかクラウス自身に向けられる刃になる。いざとなったら、レイのために死ぬと、お前は言うんだろう!
レイの目から溢れる涙を見て、クラウスはまた目尻にキスを落とし始めた。
「ぅ……っ! うぅ……ぅ……!」
クラウスが腰を動かして、レイは嗚咽を混ぜた嬌声を上げた。愛しくて、苦しくて、痛感する。レイ自身が傷つくのも、クラウスの傷になる。
――あぁ、ちくしょう。強く、強くなりたい。クラウスが傷つかないぐらい、強くなりたい。
ままならない現状に、反吐が出る。
「くら、ぅ、す! く、ら――っ!」
泣きながらレイは彼の名前を呼ぶ。腰を持って動くクラウスの息が上がり始め、動きが少しだけ強くなる。眉が寄って、クラウスの口からも掠れた声が漏れ始めた。
何度も何度も揺さぶられ、良いところに当てられ続ける。泣き声が完璧に嬌声に変わるまでに、そう時間はかからなかった。一度絶頂を迎えた体が、また快楽を主張し始めるだけの間、腰が振られ続ける。レイが快感に震えるたび、魔力がクラウスに絡みつこうとしていく。そのたびにクラウスの魔力がレイの魔力を捕まえて放そうとしなかった。以前クラウスが言っていた「レイを閉じ込めておきたい」という本性を表すかのように。
「――っ! レイ、出す……っ! 中、にっ!」
ドッと重い感情と熱が、中に吐き出されるのをレイは感じた。レイの体がぴんと硬直して、くたりと脱力すると同時に、レイの意識は落ちていった。
翌朝、目覚めた時は、普段先に起きているクラウスはまだレイの隣にいた。ふと自分の体を見ると、全身キスマークだらけなのは予想通りだったが、腹の中の異物感がすごかった。体の表面は拭かれていたのか寝汗以外の不快感はない。
顔を擦った後に自分の掌を見ながら自身の魔力を観察する。魔力回路を流れる魔力のざらつきもなく、むしろスムーズで、言うことを聞きやすい。きちんと調律されている。昨日は意識を手放してしまったせいで、きちんと調律出来たか確認することができなかった。記憶の奥にこだましている澄んだ悲しい音が、きっと調律音なのだろう。
レイは隣で小さく寝息を立てている美男を見た。昨日の夜はクラウスの顔を見るだけで心乱されていたが、今は自然と心が凪いでいる。昨日の精神不安定は、本当に魔力のコンディションが悪かっただけなのか、乾燥エルヴァンローズとの相乗効果によるものなのかは分からない。それでも、昨日の出来事は心にこびりついて剥がれ落ちることはきっとないだろう。
起こしてしまうかもとは思ったが、レイは頭の中で構成を整え、魔力を練り上げた。途端、やはりクラウスの目がぱっと開いた。そして、あとは行使するだけの状態の魔法を邪魔するように、クラウスは起き抜けにレイの手首を掴んで口を開く。
「待ってくれ」
朝の挨拶よりも先に、クラウスはそう言った。レイが瞬きをしながら藍色の瞳を見つめ返し、言い訳を口にした。
「昨日は、準備をさせてしまったし、俺が綺麗にすればいいかと思ったんだが……何かまずかったか?」
そう言うと、クラウスは口ごもった。レイが怪訝な顔をしながら手を腹にのせようとすると、また同じように手首を掴んで腹から離す。その謎の行動に、レイは首を傾げてクラウスを見た。
クラウスは、少し悔しそうな顔をしながらため息をつく。
「……私が君の中にいた証拠を、君に消されるのは……少し、寂しい」
今まで調律後の洗浄をレイにさせなかった理由の説明に、納得する反面、この男が示す価値観が、なんとも可愛くて笑えてしまう。
「では、なぜ昨夜のうちにしなかった? 以前はしただろう?」
ルミアの家の客室で行った調律では、朝起きた時にすでに洗浄は行使されていた。にもかかわらず、今回していない理由がレイには分からなかった。
レイの言葉に、クラウスがじっとレイの瞳を見つめた。レイはクラウスの言葉を待ったが、クラウスは黙ってレイの上に覆いかぶさり、首筋にキスを落とし始める。そのままクラウスの唇がするすると降りていき、レイの胸を甘噛みした。
「おい、お前、まさか――っ!」
まるで前戯のような触り方に、焦りながらクラウスの頭を引き剥がそうとすると、クラウスは少し拗ねたような顔をしながら口を開いた。
「昨日のような抱き方は、本意じゃない」
その一言が、二回戦の開幕を知らせる音となるとは、レイも思ってはいなかった。
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