57 / 69

第52話 夕暮

 放り込んだ煙幕用の魔法薬瓶を投げ返され、レイは内心舌打ちをした。クラウスの対応速度が速すぎる。隠密魔法薬を使用して投げても、対応されたら意味がない。  投げ返された魔法薬瓶は、廊下の壁に激突し、空気中に煙幕を広げた。研究室にも流れ込んだが、すでにクラウスにより展開された結界によって、煙幕はほぼ意味を成さなかった。  魔法薬士が魔術師と相対する上で必要となってくるのが、初見殺しである。オリンと対峙した時のように罠に嵌められれば一番よかったが、なかなかうまくこちらに有利な状況を作ることができない。  レイは仕方なく、41口径の小型ピストルを取り出した。唯一タールマンより返却されたこのピストルに装填してある弾丸は、古代魔法による解除魔法を封じてある。可能ならもっと近距離で使用したかったが、こちらには結界を破壊できる手段があると知らせるのも、相手の無理を引き出せるかもしれない。レイはそれに賭けた。  ピストルのセーフティを外し、結界のギリギリに近付いて発射する。パンッ! と乾いた発射音と共に放たれた弾丸は、クラウスの結界に着弾した瞬間爆ぜ、結界を粉々に打ち砕いた。  抱えていた青色の氷属性の中級攻撃魔法薬瓶に浮遊魔法を施し、研究室内に広がった煙幕の中に展開した後、浮遊魔法を凝縮して爆発させるようにクラウスめがけて発射した。煙幕を抜けた先から次々とクラウスの魔力により叩き落された魔法薬瓶が氷壁を作り連ねていく。  なんとかあの氷壁を利用してでも近付かねばならない。そう考えたところで、クラウスの魔力が槍のように伸びてくるのが見えて、レイは身をよじって回避した。抜け目なく攻撃をしかけてくるあたり、容赦がない。  レイは小型ピストルに弾丸を装填し直してから、氷属性の攻撃用魔法薬瓶を2つ、指の間に挟むように携えた。次で決めなければ、レイはもうクラウスに捕縛されるだろう。国王との賭けに負けることになる。  国王と交わした賭けの内容は、2つ。自分が諜報部にとっても有用な人間であることを証明すること。そして、クラウスとの約束の期限まで、身を隠し通すことだった。ただ、後半部分については、再開された裁判において国王がクラウスと交わした賭けの内容を知り、レイが苦情を申し立てた。同じ期日までにレイは見つかってはならず、クラウスはレイを見つけなくてはいけない。それはつまり、どちらかの希望は聞くつもりはないということか、と。すると、国王はにやりと笑いながら、こう言ってのけた。 ――見つかった場合において、クラウスを倒せれば、賭けに勝ったことにしてやる、と。  後出しで条件が変更されるは横暴であることを主張すると、入念な準備ができるように、費用はこちらが持ってやる、と言い放った。『王の秘術官候補』であるクラウスに、一介の魔法薬士であるレイがどう対抗すればいいのだと絶句すると、タールマンが「貴方の劣等感を払拭するには、丁度いい条件でしょう?」と言い始め、これは、タールマンの入れ知恵ではないかと、レイは勘ぐった。  レイは、クラウスと共にいるために、見つかった上で勝つ必要があった。なんとしてでも。  せめてあと1週間あれば、新しい銃の手配もできただろう。そうすれば、彫金士を頼み、魔法薬を封緘した弾丸を量産して、もう少しマシな戦い方ができたはずだ。フェリンブル伯爵家の私兵につかった昏倒剤の副作用を、もう少し強く出るようにしておけばよかっただろうか。そうすれば、尋問に時間がかかり、結果として時間稼ぎになったかもしれない。いや、そんな非人道的行為を、レイは選択することはなかっただろう。悔やんでも仕方がないことだ。  少しでも、クラウスの意識を逸らしたい。レイはなにか無いかと身の回りを探った。研究室のドアの付近にあるゴミ置き場で空のトマト缶を見つけ、そっと拾い上げた。形が悪いが、振りかぶって遠くの床に叩きつけるように投げつける。  カンッ! カランッ! と軽い音を立てて転がっていくトマト缶と反対側から、レイは走った。 走り出した瞬間、隠密魔法薬が切れたが、もう構わなかった。煙幕から躍り出て、クラウスに照準を定めた瞬間、クラウスの魔力がレイに襲いかかる!  純粋な魔力操作に対し、このピストルの効果があるかは分からない。可能なら、結界を使われたところを破壊して魔法薬瓶を投げつけたかったが、やむを得ない。  そう判断した瞬間だった。  レイの魔力が、コントロールを失って伸び上がるようにクラウスの魔力にしがみついていくのが見えた。意識を伴っていない魔力の動きに、レイは動揺を隠せなかった。レイの魔力がクラウスの魔力に触れた瞬間、クラウスの魔力がまるで制御下から抜け出したようにレイの魔力に寄り添い、互いに縺れ、絡み合った。まるで結び目を作るように、強固に、複雑に、混ざり合いたいのに混ざれないもどかしさを表しているようだった。  耳の奥に響く、もの悲しくも澄んだ共鳴音。制御を失ったクラウスのむき出しの感情が流れ込んでくる。――やっと会えた。嬉しい。悲しい。離れたくない。もう、二度と。  互いの魔力が、争いを望んでいないと、訴えるかのように離れようとしない。互いの本音が殻を破って主張し合っている。  レイは、クラウスの魔力に汚染がないことにほっとしていた。ここ一か月ほど、どんな状態だったのかを確認できないのがもどかしかった。だが、コンディションが悪すぎる。それでも尚、レイが苦戦する程の精度の高いコントロールを見せていた。そこに至るまでの研鑽は、いったいどれほどのものだったのだろう。  もし、クラウスがこの一か月の間に、誰かと調律していたならば、きっとレイは成す術もなく捕まっていた。――あぁやはり、実力の伴った者が、クラウスの隣にいるのがふさわしいのではないだろうか。クラウスは、レイ以外とでも調律できるのだから。  欲張りだろうか。我儘だろうか。それでも、クラウスの隣を渡したくないというのは。 「レ――」  クラウスの声にハッとする。攻撃をしなければいけない。互いの魔力が絡んで魔法を使うことができない。逆に言うなら今がチャンスだ。レイの手の中にある魔法薬瓶をクラウスに投げれば、それですべてが決着する。  レイは自身の奥底に、クラウスを傷つけたくないという気持ちを押し込んだ。重い脚を一歩引いて、魔法薬瓶を振りかぶろうとした瞬間だった。  絡んだ魔力が、レイの体を留めようと張りつめた。ぶちりと、レイの体から魔力が剥がれるような感覚と共に、レイは込み上げる息苦しさを吐き出そうと強く咳き込んだ。口の中に上がった生暖かい液体が、口元を押さえた腕に勢いよくかかり、驚愕する。腕に広がる暖かさの正体を認識した瞬間、レイはそれを隠したくてしゃがみこんだが、遅かったようだ。 「レイッ! レイッ!」  クラウスの手が、レイに伸びる。抱きしめられ、触れるクラウスの体温に、レイは震えた。絡み合う魔力が、二人を包んでいくのが分かる。剥がれたレイの魔力も、そっと戻ってきていた。  ……あぁ、クラウスだ。レイは安堵の中で、一筋の涙をこぼした。――終わってしまった。レイの望みは、叶わない。暗転する世界の中で、レイは心にそっと鍵をかけた。  ――『……無理に離れようとすると、死ぬぞ』  祖父の言葉を思い出しながら、レイの意識は浮上した。まさか、自分の魔力に反抗されると思っていなかった。魔力のコンディションが悪かったから起こったことだったとしても、訓練を受けている魔法使いとしては、魔力を制御できないというのは、とんだ恥晒しもいいところだった。  目を開ける。知らない天蓋が見える。いかにも高級そうなところは、クラウスの部屋の天蓋と比べても引けを取らなそうだな、などと思いながら視線をウロウロさせると、左隣でクラウスが寝ているのが見えた。疲れが滲んだ目元にかかる綺麗な白金髪を掃おうとしたら、左手にはクラウスの指が絡んで動かせなかった。左手を動かさないようにころりと横を向いて、右手でクラウスの髪を触る。余程深い眠りに入っているのか、クラウスはぴくりとも動かず眠っていた。 「……起きた?」  そっと優しい声音で話しかけられ、レイは仰向けに戻って声の主がいるだろう右の方を向いた。バネッサが柔和な笑みを浮かべながら、椅子に腰かけこちらを見ていた。返事をしようと口を開くが、喉が絡んでうまく声が出なかった。それを見てか、バネッサがそっと唇に人差し指を当てて、無理にしゃべらなくていいと伝えてくる。 「簡単に説明するわよ。貴方の喀血の原因は、無理やり魔力が剥がれた影響で肺が傷ついたせい。でも、もう治療してあるから、心配しないでいいわ」  静かに伝えてくるバネッサに、レイは理解した、とゆっくりと頷いた。バネッサも頷いて、話を進める。 「ここは、王宮。タールマン様が転移魔法で移送したの。貴方とクラウスが、どうしても離せなかったから、事情が分からない病院には移送できなくてね。貴方たちの次は、私、最後にオリン。何度も転移を繰り返して、流石に疲れたのか早々に姿は見えなくなったわ。……いえ、見えてないのは普段もかしら」  バネッサが皮肉を混ぜながら言うので、レイはくすりと笑った。バネッサには、いつも心配しかかけていないように思う。彼女の懐の深さは、どこか安心する雰囲気を醸し出していた。バネッサの視線が一度クラウスに向き、またレイに戻る。 「……ずっと、寝てなかったの。貴方が隣にいて、やっと眠れたみたい。もう少し、眠らせてあげて」  レイが頷くと、バネッサはうんうんと大きく頷き、部屋を出て行った。その背を見送って、レイは顔だけクラウスの方を向けた。クラウスの立場から見れば、一か月前に結婚を約束していた恋人を突然攫われ、一方的に別れを切り出されたのだ。気が気でなかっただろう。  クラウス越しに見る窓からは西日が差し込んでいる。差すような陽の光が、クラウスの髪に反射し、レイの視界を照らしていた。  レイは、レーヴェンシュタイン公爵領で二人で登った丘の夕日を思い出していた。クラウスが片膝をついて、レイの手を取り、優しく真剣な眼差しで愛を説いた。――今日の結末を知った上で、あの瞬間に戻れたとして、レイはクラウスを拒絶できただろうか。隣に立つのはふさわしくないからと、断ることができただろうか。そんな意味のないことを考えていた。  ゆっくりと、クラウスの瞼が持ち上がる。そのまましばらく自身の手の中にあるレイの手をじっと見つめて、はっと頭を持ち上げてレイの瞳を見た。信じられないとでもいうかのように見つめてくるクラウスに、レイは喉のつまりをとってから微笑んだ。 「眠れたか?」  その一言に、クラウスはそっと枕に頭を戻して頷いた。レイは絡まりあった魔力にそっとお願いするように、クラウスに魔力を流した。すんなりとレイの魔力が解け始め、少しずつクラウスに流れていく。簡単な解析魔法で読み取れる内容を見ながら、レイは呆れたように呟いた。 「……こんな状態で戦ってたのか」  クラウスが視線を泳がす。クラウスの魔力が、怒らないでという子供のようにレイの魔力を追いかけ、もだもだとしながら今度はレイ自身に絡みついた。 「前に言わなかったか? 検査数値を下げたら身体能力強化魔法つかってぶん殴るって」  そう言うと、クラウスはふっと笑った。 「言っていたな」  安心したような笑い方をするクラウスの顔を、レイはじっと見つめた。その視線に気付いてか、クラウスもレイの視線を受け止めるように見つめ返してきた。  クラウスがレイの言葉を待っている。それが分かるから、レイは口を開きたくなかった。今夜ぐらいは、甘い夢を見ていたい。そんな願望を押し殺すのに、もう少しだけ時間が欲しかった。  そんな一抹の希望は、クラウスが視線を切ったことで砕かれた。 「レイの……賭けの内容を聞いた」  伏し目がちに切り出され、レイは小さく息を吐いた。 「……そうか」  レイは、そのたった一言を絞り出すのがやっとだった。クラウスの縋るような視線が、レイの瞳を射抜く。藍色の瞳が、こちらを見つめているという事実が、レイにとってはただそれだけで幸福だった。 「何故、リミッター解除剤を使わなかった?」  責めるでもない問いかけに、レイは再びクラウスの方に体を向けて答えた。 「あれは、本来の俺の力ではない。その力を使って君の隣を勝ち取っても、意味がない。あれは、俺自身の殻を破るための試験だったから」  言葉にして、レイは目を閉じた。 「すまない、クラウス。俺では、君と共に行くことが、できそうにない。タールマン様も、そう判断しただろう。どう考えても、俺を諜報部に迎え入れるメリットが、見当たらない」  短い沈黙の後、レイの左手からクラウスの指が離れた。目を開けると、クラウスがそっとレイを抱き寄せようとしているところだった。背に回るクラウスの腕の感触に、レイの魔力がそっと震えた。 「……覚えているだろうか。私が、あの丘で君に話したことを」  クラウスの言葉に、レイの心は再びレーヴェンシュタイン公爵領の丘へ羽ばたいた。風が草木を揺らし、西日に負けないぐらい熱い藍色の眼差しを思い出す。焦がれる、幸福の時間を。  ――『……もっと強くあろうとする君を尊敬するし、尊重したいとも思う。ただ、そうあろうとする君の隣で、君を支えるのは私でありたい。万一折れてしまったとしても、君を受け止めるのも私でありたい。どうか――』 「レイ」  クラウスの声が、レイを現実に引き戻す。その瞳は、記憶の中の熱をそのまま帯びていた。 「私は、我儘なんだ。『どうか、私の我儘に付き合ってもらうわけにはいかないだろうか』」  その一言に、視界がぼやける。心にかけた鍵が、容易に開いてしまう。レイは、目から感情が零れないように、必死に瞬きを繰り返した。  背に回った腕に力が入り、クラウスの顔が近付く。 「レイ、共に強くなろう。君が安心できるように、私も一層努力しよう。二人で無理なら、皆の力を借りよう。今までは一人だったかもしれない。だがこれからは、お互いの弱さを補って、分かち合っていこう。どうか、独りになろうとしないでくれ」  焦点が合わないぐらい近いクラウスの瞳に、レイは目を閉じた。両の目から流れ落ちる雫に、クラウスが唇を落とすのを感じながら、レイは震える唇を開いた。 「もし、強くなる前に、“その時”が来てしまったら? お前は、俺のために生きることを選択してくれるか?」  我ながら、狡い問いかけだと思う。だが、今回の別離はここから始まった。切っても切れない話なのは、クラウスも分かっていたはずだ。どんな答えが返ってくるかわからない恐怖で、レイは目を開けることができなかった。  ほんの一呼吸の間に、そっと、レイの後頭部に手が添えられた。 「――その時は、レイ。私のために、一緒に逃げてくれ」  予想してなかった答えに、レイは目を見開いた。綻んだ目をしたクラウスの顔が視界一杯に広がっている。 「返事は?」  意地悪く促してくるクラウスに、レイは破顔した。 「イエス以外、聞くつもりもないくせに」 「もちろん、そう返ってくることを見越して聞いたからな」  見つめ合って二人で笑い合い、答えを確かめ合うように、唇が重なった。  約束の期日まで一か月を切った、ある夏の夕暮れのことだった。

ともだちにシェアしよう!