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第51話 交錯
研究室の床下に隠された通路を行くと、地下水路へつながる脱出口があるのは知っていた。レイは迎撃に失敗した時のことを考え、この通路にも罠を仕掛けていた。
その通路はとても狭く、成人男性だと中腰にならないと進めない。オリンやクラウスぐらい身長が高い人物だと、それだけでも窮屈だろう。デリンほどの高齢者にも厳しいと思うが、スペースが足りなかったのだろうか、とレイは思った。
レイが脱出口に続く通路の罠を確認していると、水路の音が響くその通路に、脱出口の方から微かに正午を知らせる音楽が聞こえ始めた。音だけは聞こえるのかと、こちら側からしか開かない機工の脱出口の蓋を覗くと、懐かしい魔力の波動を感じた。
その魔力は、脱出口の蓋の魔法機工を読み取ろうと、魔法機工を刺激しないように優しく脱出口を包み始めていた。――クラウスが、この蓋の先にいる。手を伸ばしてしまいたくなる衝動をぐっとこらえて、レイはその場にへたり込んだ。胸の鼓動が大きく鳴って苦しい。レイの魔力がクラウスを求めてざわめいているのを感じる。
この脱出口は、外側からは絶対に開かない。それは、レイがこの脱出口の存在を教えてもらった時に感じた確かな信頼だった。何故なら、もともとあった機工を、おそらくルミアがこの場所を発見した時に手を加えたのだろう痕跡があったからだ。中にいる愛する人を守るための、不器用な優しさをレイはその脱出口に見ていた。世界最強の、伝説の魔術師が施した魔法機工に、人間の枠を超えられない者がどう対抗できるというのだ。
震える体を引きずるように、レイは来た道を戻った。頭上にある研究室の床板を押し上げて研究室を覗くと、赤いランプが激しく光っていた。侵入者を知らせるランプの速さが目に痛くて、レイはそのランプを止めようと、よじ登るようにして研究室に入り込んだ。
「脱出口にいるのがクラウスだから、侵入者はオリンか」
胸の苦しみを少しでも緩和しようと声を出し、レイはゲホッと咳き込んだ。
『とにかく、封印を施して合流する。そちらの状況は?』
小型通信魔法機器から聞こえるクラウスに反応したいが、すぐ近くにレイがいる可能性も考慮すると、声は出せない。オリンは小型通信魔法機器がついている左耳の後ろを指でノックするように音で信号を送った。――研究室、前、到着。
すると、バネッサより指示が飛ぶ。
『中の様子はうかがえる?』
――ノー。短く、否定の信号を送った。レイが中にいるのか、そうでないのか。それすらも分からない状況でクラウスの到着を待っていいのか。判断に迷った、その刹那。
≪降れ、夜の静けさよ。沈め、白き波の底。眠れ、誘え。心に息吹を求めてならぬ。胸に抱く子、安らかなれど……≫
驚くほど大きく、異国の歌のようなものが研究室から聞こえ始めた。明らかにレイの声だが、何語かも分からない上、肉声とは思えない響きだった。通信魔法機器がその音を拾ったのか、小さくバネッサが『え、何?』と呟いたのが聞こえた。
『――オリン、古代魔法だ』
クラウスの言葉に反応し、オリンは研究室の扉を即座に蹴破った。古代魔法は、完成させたらどんな効果をもたらすか分からない。対処が分からないものは、発動前に潰すしかない。
飛び込むように研究室に突入し、所せましと置かれた機材や薬棚、調合台が目に入ったが、レイの姿は見えなかった。しかし、響き渡るレイの声の出所を辿ると、通信魔法機器が二つ置かれており、重ねるようにレイの声が流れていた。
「研究室に突入しました! レイの姿は見え――」
言いかけて、机の上に丸められた白衣の隣に置かれた紙に目を落とす。簡潔に書かれた一文に、オリンは顔を歪めた。――クラウスに振られた気分はどう?
「くそっ!」
吐き捨てた瞬間、蹴破ったドアがバタンと乱暴な音を立てて閉じた。振り返って閉じられたドアを見ると、ドアの内側に刻まれた魔法陣が煌々と輝いているのが見える。
≪――浸りし大地に、旅逝く傍ら。眠り根よ張れ。揺れる揺れる、影と祈りは、深き淵へと、共に参らん≫
見渡しても、レイの姿は見えない。ドアの魔法陣にナイフで傷をつけた時には、詠唱はすでに止んでいた。
突如、地面から6本の太い魔力の根が伸び上がる。オリンは襲い掛かる根を防ぐために、上級結界を瞬時に展開した。魔力の根はその結界に巻き付くと、そこから更に細い枝根を伸ばして結界を覆いつくした。ぎしり、ぎしりと結界が悲鳴を上げ始める。
「な、なん――っ!」
やがて結界に亀裂が入る。オリンは慌てて結界の構成を変えて修復を試みるが、一度入った亀裂が直りきるよりも早く、細い根が結界の中へ侵食した。するりと伸びた根の先から、黄色い花が咲き乱れ始める。その瞬間、オリンの意識はふつりと途切れた。
『オリン!? 応答して、オリン!』
バネッサの声が、左耳に装着されている通信魔法機器から流れた時には、クラウスは地下水路から地上へ出たところだった。クラウスは身体能力強化魔法を増幅させて走った。自分の周りの空気が一気に動いて風が巻き起こるのも構わず、隠れ家の入り口へと急いだ。
『え、うわ……カメラ付いている。これ、見えてるんですか?』
左耳から流れてくる懐かしい声に、クラウスの足が止まりかけた。声をかけたくても、何と言えばいいかも分からない程、感情が波打って言葉にならない。
『あぁ、見えている。その角度だと、ちょうどお前の顔が見えるな。だが、この映像を見ているのは私一人だ。クラウスやバネッサは見ておらん。タールマンは、そっちに行っているはずだが、分からんな』
突然、割り込むように国王が話し始めた。
『なるほど。なら、今の一連の情報は連携されてないんですね』
『あぁ、されてはおらんよ。お前がオリンに書いた手紙の内容もな』
『わー……あれを陛下に見られたのは、ちょっと恥ずかしいですね』
親戚同士のように気安く話す二人の会話を聞きながら、クラウスの胸の奥が、じわじわと燻っていく。
『あぁ、今度はお前の視点で見るのもいいかもしれないな。チョーカーを外して自分で巻いてくれ』
『……これ、拒否権ないんですか?』
『あるわけないだろう』
小さなため息とともに、何かを探っている音が聞こえる。クラウスは走りながらその会話を聞いていた。
『もう少し右……あ、そうか反転しているのか、左だ……そう、それでいい』
『これ、首元痒いです』
『あ、やめろ! そこらへんにマイクがある!』
『すみません! でも、そういうの早めに言ってください!』
まるでじゃれ合うかのような話し声が、途切れない。
『ほれ、クラウスが来るぞ。クラウスには書いてやらんのか』
『え、あ、いや……だってもう陛下が手紙のことバラすから、意味なくなっちゃいましたし』
『では渡さなくていいから、どう書く予定だったか書いてくれ』
『えー……』
クラウスは、国王から公爵家の後継者になれと詰められていた時に、よくレイとの馴れ初めから情事に至るまで根掘り葉掘り聞き出そうとしていたことを思い出した。この人は、どんな手段を使ってでも、クラウスの心をざらつかせることを楽しんでいる節がある。
『ぶはっ! ヒーッ! これは、お前……性格悪いなぁッ! げほっ! げほごほっ!』
『そんなに笑わなくてもいいでしょう! 絶対言わないでくださいよ!』
『言わない言わない……ごほん……あー……でもせっかくだから見せてやればいいんじゃないか? たぶん効くと思うぞ』
『ここまでバラしてるのにですか?』
『どうだ? クラウス。気になるだろう?』
突然話を振られたが、クラウスはこの男の正しい対応を心得ていた。無駄話は、取り合わないに限る。
『……全くもって面白みのない。レイよ。本当にこんな男は辞めておいた方がいい。人生楽し――』
クラウスは国王の話を遮るように咳払いをした。それが聞こえたのか、国王が噛み締めるように笑っているのが聞こえてくる。
目的地に到着すると、消火栓の前でバネッサが声を潜めてこちらを見ているのが見えた。手で待つように指示が入り、壁に沿うように置かれていた棚を、バネッサが手で移動させようとしているのを見て、クラウスもその棚を横から押した。ズッという重い音とともに棚が動き、その後ろに暗い通路が現れた。
『――クラウス』
左耳から、自分を呼ぶ愛しい者の声が脳を揺らす。
バネッサから、ハンドサインで突入指示が入った。クラウスは、そっとできた棚と壁の隙間に身を滑り込ませながら、レイの言葉の続きを待った。
『あまり、寝てないと聞いた』
誰から? という疑問が頭を擡げるが、クラウスはすぐに理解した。フォルトンはレイに会っていたのだ。きっとそれで、自分のことをレイに伝えたのだろうと簡単に推測出来た。
「……レイは」
クラウスは、恐らくオリンが通ったのだろうルートを確認するように照明魔法を発動した。手のひら大の明かりを浮かべ、照らし出される張り巡らされた糸の隙間を壁を蹴って身を捻りながら移動する。
「色仕掛けが上手くなったそうだな?」
その一言に、通話を聞いていた全員が噴き出したのが聞こえた。まだ出会ってそう日が経ってなくとも、この一言を聞いて、レイがどんな顔をしているのか容易に想像がつく。あの綺麗な青緑色の瞳が一瞬丸くなって、少し恥ずかしそうに視線が泳ぐ。そのあとすぐに呆れたように笑いながら、こう言う。――こっちが真面目に、
『こっちが真面目に心配してるってのに、何言ってんだか』
予想通りのレイの反応に、クラウスは苦笑しながら照明を移動させ、先の道を照らした。ところどころ風魔法で抉られた箇所がある。溶けずに残った氷柱が照明に照らされて鈍く輝いている。罠の解除漏れがあるかもしれないので、クラウスは身体能力強化をかけて、敢えて風魔法で抉られた新しい傷を踏みながら進んだ。一秒でも早く、レイのところに辿りつくために。
「この一か月間、私がどんな思いで君を探していたと思っている」
こちらのその一言に、通信魔法機器から返答はなかった。もしかしたら、戦闘準備に入ったのかもしれない。すでに聞こえていないのかもしれないが、それでもクラウスは、見えぬレイに話しかけた。
「離れない道を、二人で探すわけにはいかなかったのか? 何故一人で抱え込もうとする? 君を失うぐらいなら――」
『死をも辞さない?』
こちらの言葉尻を奪うように、レイの声が通信魔法機器から流れた。その響きが、記憶の中のレイの泣き声を呼び起こす。マルキオン教授を危険に晒してしまったと、自責の念に潰れてしまいそうになりながら、子供のように泣きじゃくったレイの声と重なった。
クラウスは、そこで初めて自分の認識が間違っていたことを痛感した。――レイは、怒っている。クラウスがレイを守るために覚悟を決めていることを憂い、守られるしかない自分と、守ろうとしているクラウスに、怒っている。
魔力を通じてこちらの状態を感知し、察しが良くて、レイがこちらの気持ちを組んで行動してくれていただけなのに、分かりあえていると誤認した落ち度だった。出会って日が浅いのに、理解していると思いあがっていたものだ。
『クラウス』
レイの芯のある声が、通信魔法機器から流れた。
『俺にお前を、殺させるな』
その言葉を最後に、レイの返事は返ってこなかった。その一言に、どれだけの願いが込められているのか、自分は知らなければいけない。本気でぶつからねばならない。
クラウスは隠密魔法を重ね掛けした。音もなく、オリンがつけただろう新しい傷を辿るように踏み抜いて出来得る限りの速さで駆け抜けた。
『……レイ、まだ聞こえているな? 返事はしなくていい。ただ、先程と同じ手は禁じる。以上、励め』
国王の指示が飛び終わったのは、クラウスが研究室に到着した直後だった。万一同じ手で準備していた場合、もう他の準備はできない。それは国王も分かっていることだろう。つまりこれは、視界を共有しているはずのレイに対する指示に見せかけた、クラウスへの助言に違いなかった。助言を与えないといけないと思われるぐらいの何かが、待ち受けていることを肝に銘じろ、と暗に言われている。
――先ほどと同じ手は来ない。つまり、古代魔法の禁止と捉えるべきか。
クラウスは開け放たれている研究室のドアから、そっと中を覗いた。レイは魔力を感知できる。重ね掛けした隠密魔法がどこまでレイの感知能力に対抗できるかわからないが、正解が分からない以上、こちらとしては対策の取りようがない。
研究室は狭く、争った形跡は見られなかった。奥の方に寄せられた机の上に、オリンが横たわっているのが見える。そのオリンの胸の上に、折りたたまれた紙切れが載っていた。あれが、先ほど国王と話していた手紙なのだろう。そして、横たわるオリンの上に、青色の魔法薬が入った瓶が浮いていた。
オリンまで、およそ5歩の距離。この間にどれだけの罠があるか分からない。そう判断した次の瞬間、宙に浮いていた青色の瓶にかけられていた浮遊魔法が解かれた。支えを失うように落下する青い瓶が、オリンに向かって落下していく。
「――っ!」
タイミングとして、確実にクラウスが到着したことが露呈している。レイの感知能力の高さを思い知りながら、クラウスは地を蹴った。オリンに触れる前に瓶を空中で受け止め、自身はオリンに跨るように机の上に着地した。素早くあたりを見渡すがレイの姿はない。
刹那、開け放たれたドアの向こうから、突然現れた白色に鈍く光る瓶が研究室に投げ込まれる。クラウスはオリンと机を覆うように結界を張りながら、投げ込まれた瓶に魔力を絡めて掴み取り、廊下へと投げ返す。廊下の壁に瓶が直撃し、鈍く砕ける音とともに煙幕が広がった。あっという間に廊下から入り込む煙幕が一気に部屋を白く染め上げ、クラウスは視界の確保とレイが仕掛けてくる方向を知るために結界の範囲を押し広げた。研究室の奥側から部屋の半分程度まで押し広げられたドーム状の結界内は、視界が良好になる。同時にクラウスは部屋全体に素早く魔力を流して、罠がないか確かめた。魔力の反応が返ってこない。研究室に罠の類はないとみて、クラウスは机から飛び降りた。
カチリ
小さく入口の方から聞こえたその音は、クラウスの記憶の音と合致した。――拳銃のセーフティを外す音だ。レイは拳銃を所持している。それが、クラウスの肝を冷やした。
パンッ!
拳銃の発射音の割には乾いた軽い音が響いた瞬間、クラウスが張った結界が砕け散った。
「ッ!?」
何が起こったか、理解が追い付かなかった。以前タールマンがクラウスの結界を解除しようとした時でさえ、魔力と構成の対抗時間があった。しかし、今の一瞬で結界が破壊される意味を、クラウスは理解できなかった。
煙幕がゆっくりと押し寄せてくる。クラウスは再度結界を展開しようとした瞬間、視界の端で煙幕が揺らいだ。煙幕の切れ目から一瞬きらりと光ったバレット型の瓶は、見覚えがあった。レイの魔力が瞬時に練り上がるのを感じる。煙幕の中から浮遊魔法を爆発させて発射されたバレッド瓶が6つ、クラウスめがけて飛来する。クラウスは魔力を鞭のようにしならせて飛来した瓶を全て空中で叩き落とした。叩き落とした先から氷壁がそそり立つ。クラウスは先ほどレイの魔力を感じ場所に魔力の鞭を伸ばしたが、すでにそこにはいなかった。
いつでも結界を張れる準備をしながら、結界が破られた時に聞こえた拳銃の音から銃の種類を割り出していた。掌の中に納まるほどの二連発ピストル。遠くに飛ばすほどの威力は無く、ほぼ接射で使われるものと予想される。その分、外れないため殺傷能力は高い。万一そのピストルに何か秘密があるのであれば、本来レイが使いたい間合いは、あんな遠くではないはずだ。
――ならば、誘い込む。レイが体術を使っているところは見たことが無いが、暗殺されそうになった際に、セリルが非魔法使いの暗殺者と対峙していたことを考えても、恐らく得意としていないのだろう。彼の体の細さも知っている。であれば、接近戦での部はこちらに有利と見て間違いない。魔法薬さえ注意すれば、制圧できる。
氷壁で死角も作った。もうすぐ煙幕も近付く。来い、来い!
カンッ! カランッ! と軽い音が鳴り、床を何かが跳ねて転がる。視界の端で見たそれは、トマト缶だった。
逆サイドからレイが煙幕を切り裂くように躍り出る。手に握られているのは、予想通り銃口が二つついた小型のピストルと、魔法薬の瓶だった。
クラウスが魔力をレイに向かって放出した、その時だった。
二人の動きが、ぴたりと止まる。いや、止まらざるを得なかった。体がいきなり動かなくなった。手を伸ばせば届くぐらいの距離で、二人して何が起こったのか分からなくて、ぽかんとお互いの目を見ている。
『……どうした?』
国王が見かねて声をかけてきたが、どう説明すればいいかクラウスも分からなかった。
クラウスがレイに向けて放った魔力は、空中でコントロールを失った。むしろ、レイの魔力がクラウスの魔力に向かって伸びて、宙でいきなり絡まった。絡まった途端、体も動かせなくなってしまった。
レイの眉が寄って、唇を噛んでいる。魔力を感覚的に感知できるレイには、何が起こったのかが分かったようだった。
「レ――」
呼びかけた瞬間、レイがハッとした顔をした。そのまま、力を入れて一歩後ろに無理やり下がる。それに伴ってクラウスの魔力が引っ張られたのは分かった、刹那。
ゲホッ
レイが強く咳き込んで、腕で口元を押さえた。ジワリと袖に赤い血が滲み、その場にしゃがみこむ。
「レイッ! レイッ!」
クラウスはレイに手を伸ばした。体が自然に動き、先ほどのような硬直もない。レイに近付けば近付く程、レイとクラウスの魔力は絡み合う。レイを抱きかかえようとした時に気付いた。身体能力強化魔法が勝手に解除されている。もう一度かけ直そうとしても、魔力が絡み合っているため練り上がらない。魔法が、使えない。
『タールマン』
「仕方ないですね」
国王の呼びかけに、すぐ後ろからタールマンの返事が聞こえた。
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