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第57話 祈念
レイが調合した魔法薬を飲んだ後、クラウスの顔色はみるみる良くなっていった。調律後というのもあるが、やはり相性のいい魔力で調薬したものは効果が良く出るのだろう。昏倒剤の副作用が強く出なかったのも幸いした。
ベッドから降りて、皺だらけになった自分のシャツに目を落とすと、クラウスは一度着替えると言って衣装室に入っていった。やはり屋敷の主人となる者としては、使用人に無様な姿は見せられない、ということなのだろうか。そういうことを気にしてしまうところからやめていけばいいのに、とレイはテーブルの上を片付けながら思わなくもなかったが、確かクラウスはバスローブ姿で対応していたこともあったはずだ。一体どういうことなのだろうか。
クラウスの姿が衣装室に消えたところで、ドアがノックされた。もう誰も寝ていないので、レイは「どうぞ」と声をかけると、ドアの向こうからアルが姿を現した。
「夕食は、こちらにお持ちしてよろしいですか?」
レイは、わざわざ着替えに行ったクラウスのことを考えると、どう返事するか迷った。だがメニューは病人用になっているはずだから、わざわざ食堂で食べる必要もないのではないかとも思う。すると、アルがそっと音を立てないように近付いてきて、レイにしか聞こえないぐらいの声で話し始めた。
「レイ様のご夕食は、固形の物と二種類ご用意があるのですが、いかがいたしますか」
レイはその一言に涙が出そうだった。こちらへの配慮ある対応にじんわりと胸が熱くなる。
「俺はクラウスと同じものでいいですよ」
「レイ、君はきちんと食べた方がいい」
そっと答えたつもりだったが、クラウスが衣装室から声をかけてきた。驚きながら衣装室の方を見ると、手早くシャツだけを変えてきたクラウスが髪を撫でつけながら出てきて、アルに指示を出す。
「今日は部屋で取る。だが、明日からは食堂で構わない」
「かしこまりました」
レイが片付けていたテーブルの上の物をアルが回収すると、そう指示されることは織り込み済みだったのだろう、廊下からフットマンのリツトとメイドのリエカが椅子を一脚ずつ手に持って入ってきた。テーブルが窓際に移動し、クロスがかけられ、向かい合うように椅子が置かれた。テーブルのセッティングが終わると、使用人たちはさっと退出していき、部屋にはレイとクラウスが取り残された。
「わざわざみんなに見せるためだけに着替えるのって、手間じゃないか? 君は病人なのに」
そう言うと、クラウスがレイに視線を移し、しばらく眺めた後に、ため息を吐いた。
「……恋人には少しでもいい格好を見せたいというのは、きっと私だけではないはずだが」
クラウスの返答に、レイは自分の勘違いに気付いてこめかみを押さえた。
運ばれてきた夕食を、レイとクラウスは綺麗に平らげた。剥かれた果物すら残さず食べたクラウスを見ると、ここまで薬が効くのであったら、半固形でもよかったかもしれない、とレイはちょっと申し訳なさを覚えた。
「体調は? 吐き気や頭痛は?」
「ない。レイの薬は、私の中で万能薬になりつつある」
「過剰評価すぎて笑えない」
レイは苦笑しながら、アルが淹れてくれた食後のお茶に口をつけた。
「せっかくの休日だが、明日はどうする?」
レイがそう聞くと、クラウスはカップをソーサーに置いた。しばし考えるようにカップに視線を落とした。
「先方の都合もあるが……フォルトン氏に、お礼を」
クラウスから出た意外な言葉に、レイは目を見開いた。確かに、フォルトンには謝らねばならないし、心配もかけた。だが、クラウスがレイの友人に気を配ったという事実に、レイは嬉しさと恥ずかしさで胸がむず痒くなった。
「でも俺、まだ通信魔法機器をもらってない」
「おそらくもうしばらく時間はかかるだろう。長期休暇中だが、フォルトン氏はまだ寮にいるだろうか。直接乗り込んでみるしかないな」
悪戯心を滲ませながらクラウスが笑うので、レイも同調するようにニヤリと笑った。
「いいね、それ。でも日中は大学に行ってるかもしれない。行くなら夜に行こう」
「では日中は、何がしたい?」
クラウスが聞いてくるので、レイは少し考えた。むしろ夜の予定だって、レイのことを考えてくれた提案だっただろうに。この男とはほとほと自分に甘いのだから、困ってしまう。
「手土産を買うのと……もし可能なら、一度会いたい人物がいる。できればクラウス、君と一緒に」
そう言うと、クラウスが続きを促すようにレイの方をじっと見つめた。その視線を受けて、レイは少し迷いながらも、口を開いた。
「……ディートリヒ卿に」
クラウスの目が見開かれた。被害者が加害者に面会をしたいというのは、確かに意味が分からないだろう。クラウスの眉が寄り、一気に表情が険しくなる。
「私が面会を申し込んでも、拒否された。おそらく難しいだろう」
その主張に、レイは小さく首を振った。
「いや、あちらは俺を拒否できない。何故なら、あちらの主張は『深い仲であるレイ・ヴェルノットと話をする必要があってあのような犯行に及んだ』だからな。俺からの面会を断ることは、即ちその主張を崩すことになる」
レイはますます険しい顔になるクラウスに、一つの懸念を伝えた。
「ただ、俺が行くとなると、あちらの主張が正しいのではないかという憶測が飛び交いそうで、それだけが面倒だ」
ため息を吐くと、クラウスの視線が再びカップにそそがれる。そのまましばし熟考し、クラウスが口を開いた。
「……分かった。なんとかする」
「なんとかって――」
レイの言葉を最後まで待たずに、クラウスは立ち上がった。
レイはふと目を覚ました。昨日は互いの睡眠不足を補うために、何もなくベッドに入り、提案通りにクラウスはレイを抱き枕にして眠った。見上げれば穏やかに眠るクラウスの顔がある。それだけでレイは満足だった。
寝ぼけ眼でレイはクラウスの胸元に擦り寄って、もう一度寝ようとしたが、ノックの音で一気に覚醒した。無意識の行動でレイは顔をしばらく上げられなかった。
クラウスの瞼がぱっと持ち上がった。この男、寝たふりをしていたに違いない。寝間着のままクラウスがドアに近付いてぼそぼそと話をしていた。どうやらアルが朝食の時間であることを伝えに来たらしい。クラウスは呼ばれる前に起きていたのだから、起こしてくれればよかったのにと思わなくもなかったが、クラウスなりに寝かしてやりたいという気持ちが勝ったのだろう。
「……ちゃんと眠れたか?」
レイはベッドから降りながらクラウスに聞いた。ドアからこちらに向かって歩きながら、クラウスが口を開く。
「天使を抱きながら寝ると至福の夢を見るらしい」
先日からよくわからない比喩が多いこの男の戯言を聞き流しながら、レイは昨日着ていた服を手に取ろうとした。すると、クラウスがその手を取って、併設されている衣装室に引っ張って行く。以前使っていたレイの服がクラウスの部屋の衣装室にかかっているのが見えて、それを手に取ろうとすると、再びクラウスに阻止された。クラウスが指し示したのは、その隣にかかっている上等なスラックスとシャツとベストだった。明らかにレイのサイズで作られているのに、レイはそれを見た覚えがない。
「……あの時に頼んでいたやつか」
レイが裁判に行くにあたり、一式誂えた店の者とクラウスがカタログを見ながら話していたのを思い出し、レイはため息をついた。
「何着頼んだ」
呆れながら尋ねると、クラウスは黙って片手を広げて見せた。レイは再びため息をついて、諦念を滲ませながら呟いた。
「なんと、まぁ……」
「普段使い用だ。君があの店できちんと採寸してくれていて助かった。おかげですぐに注文できた」
そう宣うクラウスから「きちんと使え」という圧を感じる。レイはもう一度かけられている服に視線を移した。
「……普段使いにしては、なんとも煌びやかなものもありそうだが」
シャツの襟元に刺繍が入ったものや、少しレースが縫い付けられたようなものを指し示しながら言うと、クラウスが刺繍の入ったシャツを手に取って、レイに手渡した。
「大学に行くわけでもないが、少し出かけるとき用だって、普段使いのうちの一つだろう。夜会や観劇用ではない」
そう答えながら、今度は織の綺麗なスラックスとベストを渡してくる。夏用なのか少し生地は薄く、麻が混ざっているようだったが、その割には手触りは滑らかだった。サスペンダーすら新調したようで、最後にぽんと手渡された。
レイは、呆れたようにクラウスを見つめたが、じっとこちらを期待を込めて見つめ返してくる藍色の瞳に負けて、仕方なくそれに着替えた。先日、体に合わせて仕立てろと言われた理由がよく分かる。おそらくクラウスも、レイが機能的じゃない服を好まないことを分かっていたのだろう。肩の上げ下げや、しゃがむときでさえ何のストレスも無く行える。――悔しいが、これに関してはクラウスの言う通りかもしれない。
着替え終わったレイを、機嫌良さそうに見つめながら鏡の前に立たせたクラウスは、ヘアブラシを使って丁寧にレイの髪を梳き始めた。
「……クラウス卿? 何をなさっておいでか?」
レイの言葉に、クラウスは笑みを噛み締めながら黙々とレイの銀灰色の髪を梳かし、藍色のリボンで一つに結い上げた。レイは、あぁそのリボンをつけたかったわけね、と呆れたように笑った。
クラウスも、普段より少し外行きなのだろうと思われるような服を選んでいた。久々に見るベストを着用した姿は、長身のクラウスに合うすっきりとしたデザインなのにもかかわらず、華があって意味が分からなかった。
「これだから美形は」
「褒められているという認識でいいのか?」
レイが思わず零した一言に、クラウスは苦笑しながらそう言った。ベストの胸ポケットに、そっと青緑色のハンカチーフを入れるクラウスを見ながら、レイは肩をすくめ、背伸びをしてクラウスの前髪を掻きあげた。
「オールバックが似合うのも羨ましいな」
「あまり意識したことはないな。レイはそちらの方が好きか?」
聞かれて、レイは微笑んだ。
「どちらも好きだが、普段からオールバックにされると、少々困るな。美形が出すぎてしまう」
「君が困る姿を見るのはやぶさかではないが、ここぞというときまで取っておくとしようか」
二人で軽く笑い合って、衣装室を出た。
廊下に出ると、クラウスがエスコートのため肘を曲げて腕を差し出してくるので、レイはその腕を借りながら歩いた。この家でそんなことをされると、以前話した「助平心と下心」の話を思い出して、レイは密かに笑った。
朝食を取った後、二人はレーヴェンシュタイン家を隅々まで歩いた。それは、クラウスが元気な姿を皆に見せるためであったが、レイはこの屋敷を少し散策したことはあったものの、きちんと案内はされていなかったため丁度よかった。クラウスがレイを見つめながら歩く姿は、屋敷の者の目をそっと留めた。そのあたたかさを、クラウスがきちんと感じ取ってくれていたらいいなと、レイは思った。
現在闘病中のため医療施設に入っている現当主の部屋とディートリヒの部屋は、前を通り過ぎるだけにとどまったが、亡き母上の部屋と長兄の部屋は、中まで案内してくれた。埃一つなく、ベッドもきちんと整えられ、季節に合ったカーテンに取り換えられている部屋は、部屋の主の不在を享受しながらも、その痛みすらも大切に扱われているように感じた。
レイは、亡きクラウスの母上の部屋の床に手を着いた。部屋の中央からややベッドよりのその場所に、残存する魔力の痕跡をレイは感じ取っていた。おそらくここが、クラウスが母上を看取った場所なのだろう。微かに感じる、魔力の呪いの残痕と、深い悲しみと愛憎。すでに事件から四か月ほど経っているにもかかわらず残っているという事実に、レイは戸惑いを感じながら膝をついた。――ただ、義母上となる人の、安らかな眠りを祈って。
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