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第5話 人の心など、
それがどれだけ切実なことなのか、ヴェルシュにはまだ分かっていなかった。長命種故、これまでに願ったこと─とはいえ、小さなものではあるが─はほぼ叶っている。
「…人間の気持ちなど、分からないさ」
ぽつりと独り言ちるように言うと、ヴェルシュもサラダに手をつけ始める。
しかしヴェルシュにはひとつだけ、心当たりがあった。
───50年ほど前に生を共にした人間。その最期を看取れなかったことだけが、ヴェルシュの心残りであり、今でも叶うならば、と願ってやまない願望であった。
もしかすると、それと似ているのかもしれない。彼が、ヴェルシュを望んで傍に置きたいというその気持ちは。
「人間の命は短い。私など、終わりがもう知れている身であるしね。分からなくて当然だろう」
アヴァールはそういうと、肉の最後のひとかけらを飲み込み、ぶどう酒に口をつけた。ごくり、と喉を鳴らしながら飲み干す。その横顔を、ヴェルシュは知っているような気がした。
「さて、食事も終わったし私は残した仕事に戻ろう。ヴェルシュは…そうだな、寝支度をするでも本を読むでも、好きに過ごしてくれ」
白いナプキンで口元を拭けば、その部分が赤紫に染まる。ぽいと椅子の上に放り投げると、それではまた夜に、と言い残してアヴァールは去っていった。
ヴェルシュの皿には依然サラダが残っており、なんと身勝手な男かと呆れた声をあげそうになった。が、ヴェルシュが暇を潰すためのものは一応用意があるらしい。
「…読んだことのない本なら、良いのだが」
閉められた扉、それでも返事するように呟くと、ヴェルシュはまたサラダを口に運んだ。
食べ終えると、寝支度を整え始める。湯浴みは、使用人が用意した薔薇の花びらの浮かぶ風呂で済ませた。長い髪を乾かすのは当然時間がかかるが、夜風に任せることにした。
昼とは打って変わって、幾分か涼しくなった部屋の中。そよぐ風に当たりつつ、閨に用意された本棚を見れば、見たことのない言語の本までもがずらりと並んでいた。
コンコン、と軽いノック音が響く。次いで扉が開かれれば、そこに立っていたのはアヴァールだった。
「どうかな?私財を注ぎ込んだ、私のコレクション達なのだが」
「ふむ、読書家なのか。人は見かけによらぬものだな、これは退屈せずに済みそうだ」
ヴェルシュはそのうちの一冊を手に取り、パラパラと数ページ捲る。懐かしい、母国語で書かれた御伽噺の本だった。
「読書家?私が?君のために用意したに決まっている」
すでに寝間着に身を包んだアヴァールは、部屋に入るとベッドの上に座った。そして、また酔っているかのような声音で語る。
「…その本だけは、よく知っているよ。昔、読んでくれた者がいてね……自分でも読めるようにと、その言葉を必死に勉強したものさ」
そこまで言うと、彼はぱたりとベッドに倒れ込んだ。
「なあ…私に、読んで聞かせてはくれないか?」
「何をそんな赤ん坊のようなことを」
「君からしてみれば、人間などほぼ赤ん坊じゃないか」
「はあ…お前は人間の中でも随分と身勝手で、横暴で、わがままなんだな」
「それが許されてきたからね」
今度こそ、呆れの滲む声で言うと、ヴェルシュはベッドに腰掛けた。
そして、どこか懐かしむような、心持ち先ほどより優しい声で語り始めた。
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