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第11話 屋敷より
離れから屋敷までは少し距離がある。なに、この体調ならば歩いて戻れるだろうとたかを括って歩き始めた瞬間、猛烈な吐き気が私を襲う。思わず口を押さえて姿勢を前屈みにするが、最後の食事から時間が経っていたこともあり、ただ胃液だけが指の隙間をすり抜けていった。
ヴェルシュには、見つかっていないだろうか。
すぐに後ろを向いて確認するが、恐らくもう部屋に戻ったのだろう、入り口にヴェルシュの姿はなかった。
「っぐ…!ぁ、かはっ…」
広がる薄黄色の液体の上に膝をつけば、庭の手入れをしていた使用人が駆け寄ってきた。
「アヴァール様!どうか気を確かに、そこに離れが」
「駄目だ」
「しかし、屋敷まではまだ距離が…」
「ヴェルシュに、ばれるわけにはいかないんだ…すまない、汚れてしまったが手を貸してくれないか?屋敷に戻って、身支度をせねば」
使用人は何か言いたげだったが、それは視線で制する。私が今守りたいのは己ではない、ヴェルシュとの平和な時間なのだ。その為なら、病に冒された体で多少歩くことなど何の問題もない。
使用人の手を借りてやっと立ち上がると、そのままゆっくりと屋敷へ向かった。
屋敷に辿り着いてからの記憶はほぼない。
汚れた寝間着を着替え、軽く湯浴みをした。その後は寝室のベッドに横になり──気付けば、昼を過ぎていた。
「ん……今は、一体何時だ」
目を覚まし、側近に声をかける。すると彼は懐中時計を取り出し、淡々と時刻を読み上げた。
「14時を過ぎたところでございます」
「そうか…ヴェルシュは?」
「貴方様が来られないことに大変戸惑い───叱り飛ばしてやる、と仰っていました」
体調こそまだ万全ではないが、口端が自然と釣り上がるのを感じた。
「そうだった、ヴェルシュは気は長くとも、約束を守らない奴には厳しいやつだったな…」
側近が額の濡れタオルを取り替える。冷たい心地良さに目を閉じていると、側近が口を開いた。
「…本当に、よろしいのですか?ヴェルシュ様にお伝えせず」
「いいんだ。今の私にヴェルシュより大切なものなどない…共に過ごせるならば、それで良い」
どうしても、ヴェルシュのことを語る時は夢でも見ているような気分になってしまう。それは己の前世の記憶がそうさせるのか、それとも今の私がヴェルシュを愛しているからそうなってしまうのか、はたまた両方か。
そんなことを考えながら深く深呼吸をすると、額からタオルを取って身体を起こした。
「まだやり残した仕事があるだろう、手を付けなければ」
「もう、私共で終わらせております」
「とはいえ、私が確認しなくては完了しないだろう。執務室へ行こう」
そう言ってベッドから降り、窓辺のカーテンを開ける。西にいくらか傾いた太陽の光が、やけに眩しく見えた。上手く目を開くことができない。
「夜には、顔を出さなくてはな…」
寝室を出て、執務室へと足を向ける。
しかし体調は幾度も悪くなり、筆を進めるのがこんなにも難しいとは予想だにしていないことだった。
仕事をやっと終えた頃。日は既に沈みきっており、空は深い藍色に染まっていた。ゆっくりと立ち上がると、着衣を軽く直して離れへと向かう。
「あぁ、そこの君。夕食だが──私はぶどう酒だけでよい。ヴェルシュには白身魚を出してやってくれ」
「アヴァール様、何も召し上がらないのですか?昼も何も口にしていないと言うのに…」
「では、体調が少し良くなったら夜食にパン粥でもいただこう。それでいいかい?」
安心させるように、穏やかな声音を意識しながら使用人にそう告げると、彼女は心配そうに、それでも仕方がないと言うように頷いた。
ゆっくりと、それでも確りとした足取りで離れへ向かう。
私が来なかったことをヴェルシュはきっと叱るだろう、しかしそれを想像するだけでもなんと愛おしいことか。
離れに到着する。──愛しいヴェルシュ、早く顔が見たい。心配させてしまったね、怒っているだろう。
そんなことを考えながら、ヴェルシュの部屋の扉を叩いた。
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