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第14話 現実と夢の狭間で
「ヴェルシュ様」
アヴァールの寝室を出て離れに向かおうとすると、艶やかな毛並みをした狼の獣人に声をかけられる。彼こそが、アヴァールの側近であった。
「君か。先程はすまなかった、気遣い感謝する」
部屋を出てもらっていたことに対して軽く頭を下げると、彼もまた同じように頭を下げた。
「いえ、そのくらいは…。それよりも、貴方様にお伝えしたいことがあるのです。離れへの道すがら、お話致しましょう」
夜もとっぷり更けてしまい、外は庭の光と月にだけ照らされている。この国の月はどこよりも美しく見える。そして何より、欠かさず夜がやってくる。冷たい風に肌を切られるような日もあるが、ヴェルシュはこの国の月が一等好きだった。
「…して、話とは?」
「アヴァール様には、言うなと口止めされていたのですが…今の貴方がたを見ていると、どうにも運命を感じずにはいられないのです。出会うべきだったという"運命"を」
月を見上げる。今日は猫の爪のように細く鋭い三日月が輝いており、触れたならば怪我をしそうだ、とふと思った。
「君の言う"運命"とは、なんだ?」
風が吹き、庭の草木がザァッと騒めく。ヴェルシュが足を止め、乱れる髪を押さえながら彼の方を向けば、彼もまた真摯な瞳で、こちらを見つめていた。
「…アヴァール様には、前世の記憶があるのです。詳しい話をお聞きしたことはありませんが…ですが、お二人の出会いに、アヴァール様がヴェルシュ様を買われたことに、何か関係があるのでは、と……」
彼は「浅い考えかもしれませんが」と付け加えると、にっこりと笑った。
「わたくし共はいつだってアヴァールさまの幸せを願っております。だからこそ─── こんな夢物語を、語ってしまうのかもしれませんね。さ、離れに着きました。今夜は少し冷えます、暖かくしてお休みくださいませ」
離れの出入り口の前、恭しく頭を下げる彼に軽く会釈をする。そして彼の後ろ姿が小さくなった頃、ヴェルシュはぽつりと、独りごちた。
「…前世、か……」
ヴェルシュの声音に憂いと迷いが混じる。
ぎぃ、と音を立てて離れに入ると、妖精族の使用人が待ち受けていた。どうやら彼女がヴェルシュの身の回りの世話を任せられているらしい。
「待たせてしまったか、すまない」
「いいえ、これがわたくしのお仕事ですから。今日はもうお休みになられますでしょう?湯浴みの準備は出来ております、どうぞごゆっくり」
彼女は角の生えた頭を下げ、ゆっくりと離れから出て行った。
ヴェルシュは一人残されてしまったが、逆にそれは都合が良く、また彼らもそれを知っているようだった。ヴェルシュには今、考えなければいけないことがたくさんあるのだ。
自然と歩みは閨へと向かう。恐る恐る扉を開けると、本棚に手を掛けた。
手に取った本は──『つぼみとエルフ』
ベッドに腰掛けて緩やかにページを捲る。何度も、何度も読み返す。そしてその内、最後のページに隠されていた紙がはらりと落ちた。
「この文字……あいつがいつまで経っても覚えられなかった字じゃないか…」
そう、それは五十年以上前。友に故郷の文字を教えた時に、どうしても読めなかった字。その紙には、それが幾度となく書かれているのだ。まるで覚えようと、忘れないようにしようとでも言うように。
「──やはり、お前なのか……?」
まだ確証が得られたわけではない。それでも、ヴェルシュの心は今希望と絶望とが綯い交ぜになっていた。
ふと、設置された鏡を見る。鉄の首輪がヴェルシュに不釣り合いで、どうしても目に入ってしまう。
目に、入ってしまったのだ。
その首輪に施された───楓の葉の意匠が。
「これは、楓…アヴァールお前、…っそうだったのか…!」
ぐしゃりと髪を掴む。
どうして気付いてやれなかったのか、アヴァールはどんな気持ちでヴェルシュを見ていたのか──…。
想像しようにも出来ない苦しみに、息が荒くなる。今すぐにでも確認に行きたい、しかしそれは叶わないとヴェルシュは知っていた。
「いいや…話を聞くのは明日、アヴァールの調子が良くなってからでもいい。早く、休まなくては」
ヴェルシュは本を閉じると、手早く寝支度を済ませる。ベッドに入った頃にはすでに日付が変わっており、疲れからの眠気がヴェルシュを襲った。
その晩、ヴェルシュは夢を見た。
かつての友と、楓の苗を植える夢を。
「なあヴェルシュ、俺がいなくなってもこいつは大事にしてくれよ。お前が忘れん坊だからこの木を植えるんだからな。世話しながら、俺のことを思い出してくれよ───…」
かつての美しい記憶の反芻。
目を覚ませば、ヴェルシュの瞳からは一筋の涙が流れていた。
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