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02 逃げ出した姫君 (前編)

 婚約式の後、リネアはすぐに王都を離れる準備を始めた。南部の田園地帯で領主をしている母方の祖父が「もうこんな家にはいなくていい。こっちに来なさい」と声をかけてくれたからだ。  妹の婚約で喜びに沸く家族の中で、リネアの突然の婚約破棄に怒りを露わにしてくれたのはこの祖父だけだった。その優しい申し出に甘えて、身を寄せる事にしていたのだ。  リネアは王太子の婚約者ではなくなったため、王都にいる必要はない。  何よりもうこの家にいたくなかった。実家とも王家とも関係のない場所で、ただ静かにひっそりと暮らしたかった。  間も無く王都を立とうというある日、リネアは王宮に呼びつけられた。  通されたのはいつもの謁見の間ではなく王族専用の私室。密談をするのによく使われる部屋だった。ただでさえ身構えていたのに、さらに嫌な予感が胸のうちに湧き上がる。  リネアの向かいに座るのは、外交官のラウルだった。普段外国との交渉を仕事にする彼が、なぜここにいるのだろう?  リネアが疑問に思ううちに、その20代半ばの兎獣人の青年は、灰色の長い耳をピンと立て、演説めいた口調でリネアに語りかけた。 「リネア様にはぜひ、狼獣人の国に嫁いでいただきたいのです」 「狼獣人の国に、嫁ぐ……?」  リネアは呆気に取られてしまい、ただ同じ言葉をオウムみたいに繰り返すことしかできなかった。  王太子との婚約が解消されたのは5日前。王宮からは「同じヨハンソン家から娶るのだから」とリネア自身に謝罪も賠償も受けていない。  ーーそれなのにもう、別の家に嫁げと?  リネアは口元が震え出すのを感じた。湧き上がる感情は怒りを通り越し、虚しさとなって胸の中いっぱいに広がった。 「……私はもう、結婚は無理だよ……婚期はとっくに過ぎているし、貴族の妻に相応しくない」 「そんなことおっしゃらないでください! レンナート様とのことは残念でしたが、リネア様の貴族の妻としての資質は何一つ損なわれていないではないですか。リネア様以上に相応しい方がいないのです」 「目的は何? エリク様とイルヴァ様がいるのだから、今更私のような者が狼獣人に嫁いでも意味がないだろう?」  狼獣人の国と兎獣人の国の同盟のために押し進められた王族同士の婚約は、エリクとイルヴァにより達成された。結婚は秒読みとなっているはず。  ラウルの動きが、ピタリと止まる。  先ほどまでの勢いが、息を吹きかけられた蝋燭の火のように、ふっと消えさった。灰色の長耳もしゅん、と垂れ、リネアは不思議に思う。 「どうしたの?」 「……我々は、失敗したのです」 「失敗? どういうこと?」 「これから申し上げる情報は、内密にお願いします。実はエリク殿下とイルヴァ様の婚約が、解消されようとしています」 「え?……結婚しないってこと? あんなに素敵な、婚約式をしたのに? 二人は想い合っていたのではなかったの?」 「あの後イルヴァ様が、突然国に帰られてしまったのです」  兎獣人の王子エリクと、狼獣人の王女イルヴァは共に17歳。異種族だというのに美男美女を絵に描いたような二人は、まさにお似合いだった。  そして何より、政略結婚とはいえ二人は愛し合っているように見えた。婚約式で愛おしげに互いを見つめ合う姿を見て、リネアは羨ましく感じたことを思い出す。  しかし問題は、婚約式の後に起こったという。  エリクと二人きりでいたイルヴァは、突如部屋を飛び出しそのまま家臣と共に実家のグリムヴォーデンに逃げ帰ってしまったというのだ。 「二人の間に、何があったの?」 「エリク殿下は、兎獣人としてはごく自然な愛情表現のひとつとして、イルヴァ様にある“肉体的な接触”を試みました。それをイルヴァ様は、激しく拒絶なさった、とのことです」 「肉体的な接触って?」 「それが……詳細を私の口から言うのは憚られまして誠に申し訳ありません。ただひとつ、イルヴァ様の拒絶の理由の可能性を申し上げるとするならば、我々兎獣人は『万年発情期』と揶揄されるくらいに発情しやすい。対して狼獣人は基本、満月の夜しか発情しない」 「……それで私が、狼獣人の結婚相手に選ばれた、ということ?」  ラウルはその言葉を待っていたとばかりに、ピンと長耳を立て嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。 「その通りでございます! お父上より聞きました。リネア様は抑制剤で発情を完全に抑えることができるのだとか? 今は亡きリネア様のお母上も同じ体質でいらしたそうですね?」  「それは……その通りだけど……」  多産な種族である兎獣人は、その性の有り様が多様だ。子を産むことができる男性、子を孕ませることができる女性がいる。  その特殊な性は、発情の仕方も通常とは異なる。  リネアの母は、他の兎獣人と比べ発情しにくかったらしい。その母と全く同じ体質を、リネアもそのまま受け継いでいた。 「その上先方は『城の運営や管理ができる者を』などと条件をつけてきたのですよ。この要求もまた、大変厳しい! しかしそれもリネア様でしたら全く問題ありません。ほら、ここまでくると、もうリネア様しかおられぬ理由がおわかりになるでしょう……?」  ラウルは演説も仕上げとばかりに、ぐっと拳を握りしめ、声を張り上げた。 「リネア様には、ぜひ! この国の未来のために道を切り開いていただきたい。兎獣人でも、狼獣人の貴族の結婚相手となり得るのだと前例を作っていただきたいのです。そしてゆくゆくは、再び王族同士の婚姻を成功させるために」  ラウルの熱弁とは対照的に、リネアは顔から血の気がひいていくのを感じた。  狼獣人と兎獣人の貴族同士の結婚は、これまで例がない。  そしてこちらの有責で、薄れつつある両国の友好。  それを自分に、挽回しろということ?  あまりの重責に、身体が小刻みに震え出す。 「……先方は、それで了承しているの?」 「はい。リネア様でも問題ないと既に返答がきております。ヨハンソン侯爵の許可も先ほどいただきましたので、あとはリネア様のご意思を確認するのみ、となっております! 以上をふまえましてリネア様、この婚姻はいかがでしょうか?」  ラウルの有無を言わさぬ真っ黒な瞳が、じっとリネアを見据える。  リネアの父親は、王の意向すべてに無条件で賛同することで有名な人だ。この縁談を断るわけがない。きっと王が一言命じれば、満面の笑みで8人の自分の子全員でも見知らぬ異国に送り出すことだろう。  嫌だ、と言えたらどんなにいいか――。  リネアはこの通告を今すぐ拒否したかった。見知らぬ土地も、狼獣人も、どちらも恐ろしかった。  しかし、実質的にこれは下命だ。断れば王への叛逆にあたる。 「はい」と言わなければいけないのに、その簡単な一言をなかなか口にすることができない。  うまく呼吸すらできない中、思考だけが目まぐるしく回転する。  その時、もやもやしたもので埋め尽くされた頭の中に、一筋の光がぱっと差し込んだ。もしかしてこの縁談を断れるのでは? という希望の光が。 「ラウル。先方は、私が男だと知っているの? 狼獣人に私のような性がいるとは聞いたことがないけど、本当に私で大丈夫なの?」 「ああ! それについてはですね……」  ラウルの言いかけた言葉を、バタン! と大きなドアの音が遮る。ビクリと身を震わせたリネアは、思わず息をとめた。  この王族専用の部屋に、ノックもなく入って来れる者は――。

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