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02 逃げ出した姫君 (後編)
「ラウル! リネアが来ているのだな?」
姿を見せたのは、エリク王子だった。煌めく銀髪をサラサラと靡かせながら、息を切らせて走り寄ってくる。
イルヴァとの婚約式の後、エリク王子は人前に姿を見せていなかった。久しぶりに目にしたその姿は、以前より少しやつれたように見える。しかし美貌の王子と謳われたその美しさは健在で、影の差すような儚げな姿すら、彼自身の魅力を引き立てているかのようだった。
「リネア、迷惑をかけてすまない……私が不甲斐ないせいで……」
「エリク殿下」
リネアは慌てて立ち上がり膝を折って家臣の礼をとる。エリク王子は「よいのだ、楽にするように」とリネアにソファに座るよう促すと、立ち上がったラウルの代わりに、リネアの向かいに腰を下ろした。
「私が失敗していなければ、こんなことにはならなかった。本当に迷惑をかける。イルヴァにはいくら手紙を送っても返事がないし、来訪も拒否されているのだ。私のせいで、両国の溝がさらに深まってしまった」
銀色の長い耳をしゅんと下げたエリクを見て、リネアは息が詰まった。慰めの言葉をかけようとした途端、隣に立つラウルがエリクに顔を寄せ、ひそひそと何やら耳打ちをする。
「そうか……そうだな。リネアに伝えておかなければならないな。イルヴァが去ったあの日、私と彼女の間に、何があったのかを」
「よろしいのですか?」
エリクは頷き、ごほんと咳払いをする。
悲しげに銀色の長い耳を垂らしたまま、膝の上で握った手に視線を落とした。
「イルヴァは素晴らしい女性だった。顔合わせのたび、彼女は愛していると言ってくれた。だから私たちは想いあっているのだと思い込んでいたのだ。あの日、愛しく思う気持ちを彼女に伝えようと、腰に手を回して抱き寄せた。彼女の鼓動は早鐘のようで、今思えばこの時、イルヴァは怯えていたのかもしれない。しかしそんな初々しい姿すらも愛しく思えて、震える彼女の唇に、そのまま私は、口付けをしてしまった……」
悔しげに唇を噛むエリクを見つめながら、リネアは息を呑んで次の言葉を待つ。
通常の兎獣人であれば、婚約式の後に二人きりになればもう結婚したも同然とそのまま床入りを済ませてしまう者も少なくない。この後エリクの行為は、どのようにエスカレートしたのだろう?
しかしそこでエリクの言葉は途切れ、部屋にしん、と沈黙が落ちた。
エリクは黙ったままだった。
リネアは不思議に思い、たまらず声を上げた。
「これで終わり……ですか?」
「ああ。そのすぐ後にどん、と胸を押されてしまってな。床に頭をぶつけて少しの間動けずにいたら、気づけばイルヴァは部屋からいなくなっていた。それ以来彼女には会えていない」
「では、口付けまでと……?」
「そうだ」
「唇と唇が触れるだけの?」
「ああ。一度だけ」
予想よりも遥かに控えめな“肉体的な接触”。
リネアは開いた口を手のひらで覆った。
狼獣人とは、これほどまでに貞節を重んじる種族なのか? その程度の口づけであれば、子供向けのお伽話の挿絵にも出てくるだろう。エリクとイルヴァは共に結婚適齢期。もう子供という歳ではない。
王族としての義務を放棄してまで、出て行く理由になるのだろうか?
エリクはその優しい人柄で多くの人々から愛される王子だ。
エリクとは王室の行事で顔を合わせる機会が多く、子供の頃からリネアを実の兄のように慕っていてくれた。
彼は優しいだけでなく、心の強さも持っていた。
令嬢やメイドたちと人目も憚らず浮気を繰り返すレンナートに「兄上には婚約者がいるでしょう!?」と唯一抗議してくれたのもエリクだ。憤慨したレンナートに殴りかかられても彼は一切引かなかった。
リネアはレンナートの度重なる裏切りに心を痛めていた。だからエリクの真っ直ぐな行動に、当時心が救われたのを思い出す。エリクにはずっと恩を感じていたのだ。
そんなエリクが、婚約者の嫌がることを強要するような人物にはどうしても思えなかった。
「ラウル。狼の外交官は、イルヴァ姫の拒絶の理由をなんて言っているの?」
「それが、我々も再三問い合わせているのですが『大変遺憾である』と繰り返すばかりで埒があかないのです。我が国としては、これ以上正攻法では手の打ちようがありませんでした。それでリネア様の縁談が、突破口として上がったのです」
ラウルが言葉を切ると、エリクが縋るような眼差しをリネアに向けた。
「リネア、難しいことを頼んでいるのは重々承知だ。優秀なそなたならなんとかしてくれるのではないかと、期待をかけずにはいられない私を、どうか許して欲しい。もしも可能であれば、グリムヴォーデンの様子を探ってきてはもらえないだろうか」
一国の王子に深く頭を下げられて、リネアは息が詰まった。
どうしたらいい?
狼獣人に嫁ぐだけではなく、このような密命まで課せられてしまうなんて。
妃教育では様々なことを学んだが、こんな訓練はしたことがない。上手くできるかは、まるでわからなかった。
けれどこれは王家からの命令だ。
一貴族である自分に、そもそも拒否権などあるわけがない。
どんなに断りたいと願っても、最初から選択肢はひとつしかないも同然だった。
「……かしこまりました」
「本当か?」
「はい。エリク様やこの国のために、お役にたてるよう力を尽くします」
本来ならエリクは、このような同意の場を設けることなく無理矢理リネアを従わせることができる。
こんな風に前もってリネアの意思を聞いてくれるのは、エリクの持つ優しさゆえなのだろう。
せっかくもらった機会だ。
ひとつだけでも、何か未来への希望を残したい。
自分はこれから、この先の人生すべてを捧げろと言われているようなものだ。ほんの少しでも、自分の未来に望みをかけることを、許してもらえないだろうかと。
「エリク殿下。ひとつだけ、お願いしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「ああ! 何でも言ってくれ。私にできることであればなんでもしよう」
エリクを見つめ、リネアは大きく息を吸う。
自分の婚姻は、将来的に王族同士の結婚を実現させるための、あくまで通過点にすぎない。
だったら、きっとーー。
「もしも私が、エリク様とイルヴァ様の復縁を成功させることができたなら、私のその後の身の振り方を、私自身に自由に決めさせていただけませんか?」
「自由に、とは?」
「グリムヴォーデンに留まるにせよ、ルーンバールに帰るにせよ……あるいはもっと、どこか別の国に旅立つにせよ……まだはっきりとはわかりませんが、私は自分で、自分のその後の人生をどうするか決めたいのです」
王族同士の結婚が成立すれば、もう自分と狼獣人との結婚は必要ない。それだけでなく、リネア自身すら、もう必要なくなる。
――その時だけだ。私がようやく、すべてから解放されて、自由になれるのは。
リネアの必死な思いを、エリクは感じとってくれたのだろう。青空のような澄んだ瞳にリネアの姿が映る。そこには、深い感謝の色が宿っていた。
「わかった。必ずリネアの希望通りにしよう。大変なことをさせて本当にすまない。心から感謝する」
その後エリクは一通の封筒を取り出した。
リネアに手渡されたのは、イルヴァ姫への手紙だった。
「リネアの縁談の相手は、イルヴァの兄君だそうだ。もしもイルヴァと直接会うことができたなら、手渡してもらえないだろうか」
リネアは頷き、退出の礼をとり部屋を出る。
――大変なことになった……もしかしたら王太子妃になることより、ずっと大変なことに。
イルヴァ姫の行動の意味。
届かないエリクの手紙。
意味をなさない狼の外交官たちの言葉。
わからないことだらけだった。
リネアは重くのしかかる思いを抱えながら、暗い廊下を歩いていた。
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