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03 出会い (前編)
輿入れが決まってから10日後、リネアは馬車の中にいた。
もう何日も、こうして馬車に揺られ続けている。国境は越えたものの、目的地はそのさらにその先。
北の果て と呼ばれるリネアの嫁ぎ先の領地は、その名の通り狼獣人の国グリムヴォーデンの最北の地だった。
少し後ろを走る別の馬車には、外交官のラウルが乗っている。輿入れは秘密裏に行われるため、実家から連れて行く使用人は最小限。移動はできる限り目立たないように、ひっそりと行われた。
馬車の中でリネアは暇で仕方なく、薄暗い壁を見つめ続けていた。
「イアンデ・ガーディエ様……」
リネアの夫となる、狼獣人の名だ。
彼の経歴は、出発前に王宮の外交官から聞かされていた。リネアは目を閉じて、その人物像を思い描く。
狼獣人の国・ノースエンドの城主。
グリムヴォーデン王の息子だが、正嫡の子ではない。イルヴァ姫の兄といっても腹違いの兄だ。
イアンデは武勇に優れ、数々の戦争に勝利した〈グリムヴォーデンの牙〉と呼ばれる英雄だという。
一方で、彼には影で囁かれるもう一つの名があった。〈王の忠犬〉。王命とあらばどんな任務だろうと確実に遂行する。そんな人物らしい。
そのような従順な人だから、この結婚も仕方なく引き受けたのだろうか? 突然異種族の妻を娶れと命令された彼の心情を想像して、リネアは密かに同情した。
(せめて、先方の要望には応えられるといいのだけど)
出された条件のひとつは『城の運営や管理のできる者』というものだった。
その点については、リネアは全く自信がない、というわけではなかった。亡くなった母親の代わりに、子供の頃から実家のヨハンソン家の仕事をしていたからだ。
リネアの母は、「才色兼備」「良妻賢母」そんな言葉がぴったりな人だった。貴族の妻として、家政だけではなく侯爵家の領地経営までもを取り仕切っていた。
けれど11年前、母は突然この世を去った。父はすぐに第2夫人を正妻に迎えたが、彼女は毎夜社交に繰り出すばかりで、屋敷の仕事は全くやらなかった。
小評議会の参議を務める父は王宮に入り浸り屋敷にあまり帰ってこない。顧みる者がいなくなったヨハンソン家を取り仕切ることを余儀なくされたのは、当時10歳の長子であるリネアだった。
早朝からはじまる王宮での妃教育。その後は夜遅く瞼が重く落ちてくるまで屋敷の管理業務が続く。そんなやるべき事で山積みの日々を、夢中で過ごした11年間。
(その経験が、少しでも役にたてばよいのだけど)
狼獣人との結婚は、平和のために必要なもの。
両国に燻る火種はいくつもある。領土問題、貿易の不均衡。イルヴァ姫の件も、狼の王がその気になれば戦争のきっかけになり得た。
平和のためには多少の犠牲が必要ということだ。それがたまたま、自分だったというだけで。
――気に入ってもらうのは無理でも、せめてなんとか、結婚だけはしてもらわないと。
白い結婚だろうがお飾りの妻だろうがなんだって構わない。今回の婚姻を成立させなければ、イルヴァ姫とエリク王子の仲を取り持つ任務の出発点にすら立つことができない。
リネアは孤独な馬車の中で、イルヴァ姫への手紙が入った鞄を抱き寄せた。そして不安に沈む心をどうにか奮い立たせる。
白樺が乱立する暗い森を抜けると、馬車は目的地に到着した。
初めて目にするノースエンド城は、まるで冒険小説の魔王でも出てきそうな、真っ黒な化粧石で作られた不気味な古城だった。
「ヨハンソン侯爵令息様、ラウル様。ようこそお越しくださいました」
城の前でリネアとラウルを出迎えてくれたのは、品の良い黒服に身を包んだ狼獣人の青年だった。20代半ばくらいだろうか。ロジェールと名乗った背の高い執事に案内され、二人は城の中に足を踏み入れる。
「大変申し訳ありません。城の準備が間に合っておらず、こんな状態で」
申し訳なさそうに謝るロジェールに、リネアは「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。けれど、心の中では真逆の感想を抱いていた。
全く大丈夫などではなかった。ロジェールの言葉は、単なる謙遜ではなかったからだ。
廊下の壁や床には至る所にシミやヒビがあり、未修繕箇所が放置されているのが目についた。カーテンは色褪せ、絨毯は黒ずみ、劣化したものがそのまま使われている。リネアは実家を取り仕切ってきた経験があるからこそ気づいてしまった。この城の状態は、只事ではないと。
リネアは廊下を歩きながら、どんどん不安な気持ちになっていった。兎獣人にしか聞き取れないほどの小さな声で、ラウルにひそひそと囁く。
「ラウル。この城、最近何かあったの?」
「ガーディエ様はまだ領地を継がれたばかりで、この城に住み始めたのはごく最近のようですよ。それまでこの城は、長らく主人が不在だったようです。だからでしょうか。少々、荒れているようですねぇ」
いや少々どころではないだろう、とリネアは心の中で異を唱えた。
通された部屋もまた、広い空間に古びたソファとテーブルがぽつんと置かれただけの殺風景な応接室だった。
調度品の埃は取り去られ、窓は磨かれ、かろうじて清潔に保たれてはいる。暖炉は燃えているものの、すきま風の冷たさが勝り外気と変わらず震えるほどに寒い。
私服の狼獣人の女性が出してくれたお茶のティーカップを手のひらで包み、リネアはかじかむ指先を温めた。
(この城、なんか……いろいろ、大丈夫なのかな……)
寒さからなのか不安からくるものなのか、悪寒に震えながら待っていると、バタンと勢いよく扉が開いた。
「お待たせして申し訳ありません。リネア様。ラウル殿」
入ってきたのは体格の良い3人の狼獣人だった。
はじめに入ってきた男は赤毛、その次の男は藍色の髪、最後の男は一番大柄で、目の覚めるような純白の髪だった。ピンと尖った耳も真っ白で、同じ色のふさふさとした尻尾が揺れている。
「ゾーデル様。お久しぶりでございます!」
ラウルがそう叫ぶやいなや、赤毛の狼獣人と親しげに話し始めた。ゾーデルと呼ばれた男はおそらく20代後半くらいだろうか。どうやらラウルと同じ外交官らしい。
二人の会話を聞きながら、リネアは正面に座った狼獣人を覗き見た。
(純白の彼がきっと、イアンデ様だ)
リネアがすぐにわかったのは、かつて見たグリムヴォーデン王の絵姿と瓜二つだったからだ。その絵に描かれていたのは、乙女の夢すべてを詰め込んだような美形の王で、きっと美化して描かれたのだろうと画家の技量に感心したものだった。けれど王の息子であるというイアンデを見て、あの絵には誇張など何もなかったのだと気付き、思わず目を見開いた。
イアンデは、思わず見惚れてしまうほど整った顔立ちをしていた。けれどそれ以上に印象的だったのは、体中に漲るような底知れぬ強さだった。革の胴衣の上から見てもわかるほどに盛り上がった筋肉は、数々の戦いを乗り越えてきた証なのだろう。鋭い眼光を放つその瞳は、かつて見たイルヴァ姫と同じ、狼の王の血を引く者だけが持つ金の瞳だった。
(この方が、私の結婚相手……)
挨拶をしなければ、とリネアが口を開こうとした瞬間、隣のラウルがにこやかに声を上げた。
「こちらはリネア・ヨハンソン侯爵令息様です。私は外交官のラウルと申します。ガーディエ様、この度は我が国との婚姻を受け入れていただき、誠にありがとうございました」
イアンデの隣に座った藍色の髪の狼獣人が、片眉をヒクリ、と吊り上げ、口を開く。
「俺はノースエンド軍の副官のエドミュアという者です。今回の縁談について、主君のイアンデと王宮との調整役をしていました」
エドミュアの表情は氷のように冷たい。感情を殺した冷ややかな声がリネアに向けられる。
「ヨハンソン侯爵令息様。大変申し訳ないのですが、少しの間、席を外してもらえないでしょうか? ラウル殿に内密に話さなければならないことがあります」
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