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03 出会い (後編)
リネアはすぐさま席を立つ。会ったばかりで出て行けと言われるのは心外だが、事情があるのなら仕方がない。
執事のロジェールに付き添われ応接室を出た途端、エドミュアの声がドア越しに届き、リネアは慌てて歩みを早めた。
――このままでは、話の内容が聞こえてしまう。
兎獣人のリネアは、狼獣人よりも遥かに耳がよい。堪らず耳を塞いで応接室から遠ざかったものの、エドミュアの怒りを露わにした声にリネアは震え上がった。
「リネア様は男性だったんですか? 男を妻に推挙するなんて、ゾーデル公もラウル殿も、両国の外交官たちは我々が出した条件を把握しているんですか?」
聞こえてきた内容に、リネアは背筋が凍りついた。
(ええ? 嘘でしょ……? 情報の伝達に不備があったの? うわあ……)
リネアという名は女性名だ。子を産む性は兎獣人の貴族社会で女性として扱われる。そのため男のリネアも、女性名で名付けられた。そのせいでリネアが女性だと勘違いしたのだろうか? 女性を望む相手に男の自分をあてがうなんて、憤慨するのは当たり前だ。
(どうしよう……)
額に嫌な汗が滲む。ズキズキと痛みはじめた頭を抱えた直後、ラウルのよく通る声が、廊下を越えてリネアの耳に届いた。
「もちろんでございます。リネア様はそちらのご要望すべてを満たしておりますよ。男体ですが子を成せますので」
「子を成せる?」
「ご存知ないですか? 我が国ではさほど珍しくはないのですが」
「いませんよ。狼獣人に、そんな特異な体質の者は」
落ち着いた口調であるとはいえ、ラウルはいつもより少しだけ早口だった。おそらくこの状況を挽回しようと、内心焦っているのだろう。
ラウルはさらに、声にありったけの熱をこめながら、リネアの経歴を語り始めた。
幼い頃から妃教育を受けた者であること。そして実家の侯爵家を切り盛りしてきた経験があることなど。
「……と、このように、リネア様はすべての条件を満たす優秀なお方なのです! 必ずやガーディエ様の”完璧な妻“となられることでしょう!」
「しかし……いくら優秀とはいえ、男の妻なんて……」
戸惑うエドミュアの声に重ねて、バチンッと手を叩く音が響き渡った。続いて、外交官のゾーデルの落胆をにじませた声が届く。
「エドミュア殿の意見、ごもっともでございます。実は、我が主君である王妃殿下も、この婚姻にはエドミュア殿と同じ懸念を示されていたのですよ。ガーディエ公も同じご意見とあらば仕方ありません! 誠に残念ではございますが、ご希望とは違う、とのことで、この婚姻は、破談ということに――」
「待て」
流れるようなゾーデルの言葉を断ち切るように、鋭い声が重なる。腹の底に響くような低い声。
それは初めて聞く、イアンデの声だった。
「よい。破談にはしない」
「え? ガーディエ公……では、このまま婚姻を進めるということですか?」
「そうだ」
「よろしいのですか?」
「ああ」
一瞬しん、と静まり返った部屋に「ありがとうございます!」とラウルの明るく弾けるような声が響き渡る。
張り詰めた空気が幾分か穏やかになったものの、リネアは冷や汗をかいたまま身動きを取ることができなかった。部屋の隅で不安な気持ちで固まっていると、話を終えたラウルが軽やかな足取りでやって来た。
「リネア様、お待たせして大変申し訳ありませんでした。私どもの話は終わりましたので、イアンデ様が先ほどの応接室でお待ちです。私はこれで城を失礼いたしまして、お二人を引き合わせたとルーンバールの王宮に報告いたしますね」
ラウルは深々とお辞儀をすると、足早に部屋から出て行った。
リネアは大きく息を吐くと、重い腰を上げて立ち上がった。一人とぼとぼと廊下を歩く。
(行きたくない)
ラウルと同じように、このままルーンバールに帰れたらどんなにいいだろう。
聞こえてしまった会話で、自分が望まれていないことは嫌というほどわかった。辛うじてイアンデは受け入れてくれたものの、一体これから何を言われるのだろう?
震える手でドアを開けると、応接室にいたのはイアンデ一人だけだった。
おずおずと正面に腰を下ろすも、イアンデを直視することができない。
「ヨハンソン侯爵令息」
呼ばれただけで、身がすくむ思いがした。責めるような声色が恐ろしく、ビクリと体を強張らせた。
「はい」
「この婚姻は、貴国の強い希望により決まったと王から聞いた。両国の平和のために必要なものだということも。ただ、貴方を受け入れるにあたり、注意点がある」
「はい」
「貴方は城の管理運営の経験があると聞いた。執事のロジェールと共にこの城を整えて欲しい。だが、無理ならやらなくていい。難しいと感じたら、仕事など気にせず好きに過ごしてもらって構わない」
「え?」
イアンデの言葉が、聞いていた話とかみ合わない。どういうことなのだろう? 城の管理ができる者というのはイアンデが出した条件なのでは? しかもこの城は今、酷い有様だ。人手はいくらでも必要だろう。仕事をしなくていいようには、全く見えない。
「……でも、そういうわけには……」
「誤解しているようなので言わせてもらうが、無用な仕事を増やしてほしくないだけだ。俺には、貴方がどれだけの力をもっているのかわからない。できるのならば良いが、できないなら、何もしないでくれたほうがましだ」
冷たくピシャリと言い放たれた言葉に、リネアは呆気にとられる。イアンデにとって重要なのは、自分の仕事が増えるかどうか、それだけなのだ。リネアを気遣ってくれているなどと、一瞬でも思ってしまったことが恥ずかしかった。
(……まあ、そうだよな……いきなり結婚相手って言われたって、初めて会った異種族の人間なんて、信用できるわけない)
現状、既に自分はイアンデの言う「無用な仕事」を増やしている。時間を作ってもらい、他の仕事の手を止めさせている。
しかし突き放されても、無用な者と仄めかされても、逃げ出すわけにはいかなかった。エリク王子との約束のために、自分はこの人にしがみつかなければならない。
イアンデを、まっすぐ見つめる。
その瞳にあるのは、怒りや憎しみではない。むしろそうであったほうが良かったのかもしれないーーそう思わせるほどの、リネアの存在を拒絶するような冷たい眼差しだった。
リネアは嫌味にならない程度に、少しだけ口端を上げ、イアンデに笑みを向けた。笑顔には多少なりとも場を和ませる力がある。きっとないよりはましだろうと、その効果に縋った。
「ガーディエ様のお言葉、すべて承知いたしました。私からもひとつだけ、よろしいでしょうか?」
リネアは覚悟を決めて立ち上がると、怪訝な顔をするイアンデの横まで静々と歩き、すっと跪いてこうべをたれた。
「約束は必ず守ります。仕事は力を尽くしますし、ガーディエ様のお邪魔は決していたしません。私は妻としてこの地に参りましたが、愛していただかなくても結構です。ですので……」
今にも声が震えそうだった。しかし情け無い姿を見せるわけにはいかないと、腹の底に力を入れ声を絞り出した。
「どうか両国の王族が結ばれるまでは、この婚約を破棄しないでいただきたいのです」
婚約、と口にした瞬間、今まで見てきた婚約式の、幸せな恋人たちの姿が頭をよぎった。
自分はある意味、プロポーズをしているのと同じだ。
けれど並べたのは、酷い内容ばかり。
冷たい条件。愛情の欠片もない言葉。
そんな現実を前に、夢見てきた理想が、ガラガラと崩れていく音が聞こえる気がした。
けれどこれ以上に相応しい言葉を、リネアは見つけることができなかった。
イアンデがソファから立ち上がる。床に落としたリネアの視界が、濃い影に覆われた。
「立て」
頭上から降る静かな声。リネアは立ち上がるも、頭を上げてよいものか戸惑った。
「この婚姻は王命だからな。俺も約束は、必ず守る」
イアンデの顔は見れなかった。その声もまた、プロポーズを受けたばかりの者からは程遠い、冷たい声だった。
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