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04 仕事
イアンデは、これで話は終わりだとばかりに、応接室のドアに向かって足を踏み出した。
リネアは慌てて、イアンデの背中に声をかける。
「どちらに行かれるのですか?」
「先程、王から出兵要請があった。我々はこれから、西の国境に馳せ参じねばならない」
「これから? 今すぐですか?」
「そうだ。すぐ出られるよう、兵たちを外で待たせている」
リネアは戸惑った。まだほとんどと言っていいくらいに大事な話ができていない。城の仕事は? それに何より、結婚の予定は? 勝手に話を終えられては困る。リネアはまだわからないことだらけだった。
「えっと、では、しばらくお会いできないということですね? あの最後に、お伺いしたいのですが……」
イアンデは開いたドアに手をかけたまま、リネアの方を振り返る。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「あとの細かいことはロジェールに聞いてくれ。仕事については、何日後だったか、王族の誰かがここに来ることになっている。それまでに城をなんとかしてほしい。金はいくら使っても構わない」
イアンデはそれだけ言うと、勢いよくバタンとドアを閉め去って行った。
「…………お気をつけて」
遠ざかる足音に向かって声をかけてみたものの、狼獣人のイアンデにはきっと聞こえないだろう。
リネアは行き場のない気持ちを抱えたまま、応接室に、ぽつんと取り残された。
(なるほど。〈王の忠犬〉は、王命とあらば、やって来たばかりの婚約者がいても、命令の場所へと真っ先に駆けつける)
しばらく呆気にとられていたものの、ハッと我に返る。
(……そうだ、私も、仕事をしなくちゃいけない)
何から手をつけたらいいのかさっぱりわからなかった。自分でもできそうなことを見つけるために、まずは状況を把握しなければならない。
リネアが応接室を出ると、ちょうど廊下の角から執事のロジェールが姿を現した。
「ロジェール。これからよろしくね。この城のこと、良かったらいろいろ教えて欲しい」
そう言って笑みを向ければ、ロジェールは驚いたように一瞬、息を止めた。そして灰色の尖った耳をしゅんと下げ、深々と頭を下げる。
「リネア様。イアンデ様から聞きました。今このタイミングで、リネア様のようなお方がこの城に主人として来ていただけたこと、誠に、感謝してもしきれません……」
イアンデの冷たい態度とは対照的に、ロジェールが歓迎してくれたことを意外に思った。頭を上げたロジェールの灰色の瞳は、心なしか潤んでいるように見える。
「……あと10日で、この城を、一般的な貴族の城のレベルまで仕上げることは可能でしょうか……?」
「10日? なんでそんなに急に?」
「その日なのです。王族の方が、城の地下墓所にお参りにいらっしゃるのは。この城は、古くは王族の方々が住まわれていた城だそうで、その先祖代々の墓が、地下にありまして」
リネアは目を丸くした。
この荒れ果てた城を、たったの10日間で、通常の城と同じ状態にする?
先程見てきた城の状態が、リネアの頭に瞬時に映し出された。
絨毯の敷かれていないむき出しのエントランスホール。色褪せたカーテン。壁のシミ。天井に張った蜘蛛の巣。私服の不慣れなメイド。ソーサーに載った曇った銀のスプーン。
可能か、不可能か。そのどちらかで答えなければならないならば、考えるまでもなかった。
(そんなの、無理だ)
イアンデは全く知らないのだ。こういった城を整えるのに、どれほどの労力が必要なのか。知っていれば、このような無茶なスケジュールで使用人に丸投げできるはずがない。
この城は今、明らかに人の手が足りていない。もしくは技量がない。どちらなのだろう? いずれにせよ現状は、貴族の城としてはあり得ない状態だった。
先程集まった応接室は、辛うじて掃除だけは行き届いており、整えよう、という気遣いが見てとれた。
使用人は何もやっていないわけではない。きっとやる気がないわけでもない。けれどやるべき仕事が上手く回っていないのは明白だった。
原因は何だろう?
時間がない。すぐに調べなければならなかった。
「ロジェール。この城の使用人たち全員に挨拶をしたいのだけど、できるかな? いつが都合がよい?」
「かしこまりましたリネア様。今すぐにでも」
ロジェールに階下に案内される。
ずらりと並んだ迫力満点の狼獣人たちを見上げ、リネアはごくりと息を呑んだ。老若男女の使用人たちは、女性ですらリネアより全員背が高い。
きゅっと身がすくみそうになったものの、心を奮い立たせてニコリと笑みを浮かべた。
隣のロジェールが声を張る。
「こちらはリネア様です。イアンデ様の婚約者として、この城に来てくださいました。皆、指示に従うように」
「これからよろしくね。早速なんだけど……」
リネアは全員と面談をしたい、と持ちかけた。別室に移動し、一人一人に話を聞いていく。聞けば聞くほどに、リネアは内心焦り始めた。近隣の農村から集められた使用人たちは、もとは牛飼いや農婦などをしていた者たちばかり。全員が、貴族の屋敷で働いたことのない未経験者だった。
イアンデは城主になる前、王都に屋敷があったという。しかし遠征につぐ遠征で、寄り付くのはもっぱら合間の戦勝祝いの宴だけ。常勤の使用人はロジェールと料理人の2人だけで、こんなにもたくさんの使用人を雇い入れたのはつい最近――5日前にこの城に来てからが初めてとのことだった。
ということは、この使用人たちはほぼ全員、雇われてからまだ数日しか経っていない新人ということだ。
全員との面談を終えると、リネアとロジェールは執務室で向かい合った。
「ロジェールの他に、使用人たちの監督役をできる人はいるの? 副執事は? 家政婦長は? もしかして一人で全員の教育も任されているの?」
「私だけです、リネア様。でも、彼らへの教育ができていないのは、私の力が及ばないせいです。リネア様のことも、せっかく来てくださったのに、十分なおもてなしができずただただ申し訳なく」
「ううん。城の整備に、使用人の教育でしょ? とてもじゃないけど一人で抱えきれる仕事量じゃない。ロジェールはよく頑張っているよ」
「…………お優しい言葉をありがとうございます……」
再び涙ぐむロジェールの前で、リネアはこの先、どうすべきか考える。
城を整備するためには、最低限の備品が必要だ。内装の修繕に職人も入れなければならない。あとできれば追加で使用人を――経験者を雇いたい。
それには金が必要だった。
「ロジェール、お願いがある」
「はい、なんなりとお申し付けください」
「イアンデ様にいくつか確認して欲しいことがある。でももう、イアンデ様は出立してしまったでしょう? 戦地のイアンデ様と連絡のやりとりをする手段はあるの?」
「はい。連絡役が鳥を連れておりますので」
リネアはさらさらと羽ペンを走らせる。心配そうに見つめるロジェールに、一枚の書き付けを手渡した。
「ロジェールには取り急ぎ、これをお願いしたいのだけど、大丈夫かな?」
「かしこまりました。拝見させていただきます」
ロジェールが真剣な顔で、すばやく文字に目を走らせる。
しかし最後の文にピタリと目を留めると、戸惑った眼差しをリネアに向けた。
「リネア様。こちらに書かれたイアンデ様への確認事項は、早急に鳥を飛ばし承認をいただきます。ですが、最後の一文は、どうしてですか? こんなことする必要は、ないように思うのですが……」
「時間があまりないから確実な方法をとりたくて。私はイアンデ様にあまり良く思われてなくてさ。こんなことまでお願いして、ロジェールに迷惑かけてごめんね」
「いえ、私は一向に構わないのですが、これではあまりにも、リネア様が……」
リネアは「大丈夫だよ」と言い、ロジェールを安心させるように微笑んだ。
最後の一文にリネアが書いたのは、これからすることは全てロジェールからの発案としてイアンデに進言するようにとのことだった。そして何か問題が起こればすべて、それはリネアのせいだと報告するようにと。
(余所者の私から言ったら、内容に関わらずイアンデ様は反対するかもしれないし。ロジェールはイアンデ様からの信頼が厚いようだから、彼からの意見として言ってもらえたらとても助かる。でも全部ロジェールがやったことにしたら、責任押し付けてるみたいだし。せめて私は、泥をかぶらないと)
使用人には、なるべく伸び伸びと仕事をしてほしい。イアンデにも、信頼する使用人に安心して仕事を任せ、自身の任務に専念してほしい。
つまりこれが一番、効率的な方法なのだ。
(そして私が、失敗をしなければいい)
リネアはため息をついた。
何だか最近、無理難題ばかりが降りかかってくる気がする。けれど目の前のことから順番に乗り越えていかなければ、目的の場所に辿り着くことは永遠にできない気がした。
(イルヴァ姫に会えるのは、いつになることやら……)
婚約者には放置され。仕事は問題が山積みで。
こんな初手でつまずいた状態から、一国の姫君に会うことなどできるのだろうか?
リネアが見つめた窓の外には、広々とした野原のような庭園が広がる。その先には、白い雪の筋が残る青々とした山脈が聳え立っていた。
目的の場所は、遥か彼方、霞がかった空の向こう。
そんなどこにあるのか見当もつかないような、遠い場所にあるように思えたのだった。
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