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05 北の果て城

   ノースエンド城に到着したその日から、リネアの城務に追われる日々が始まった。 (……天国の母上、見ていますか? 私は今、狼獣人の国にいます。そして、母上がどんなに偉大な人であったかを、痛感しています)  リネアは一瞬目を閉じて、亡き母への感謝の祈りを捧げる。10歳のリネアがヨハンソン家を切り盛りできたのは、自分が優秀だったからでもなんでもないと気づいたからだ。  それは、母が土台を築いてくれたおかげだった。金銭の管理から使用人の教育、物事が円滑に進む仕組み作りまで、すべてを整えてくれていたからだ。  なぜ気づけたかと言えば、ノースエンド城にはそのすべてがなかったからだ。  仕組みも、経験も、前例も。  あるのは混沌だけだった。  その上ノースエンド城は広い。建物だけ見ても、リネアの実家の屋敷の5倍はありそうだった。 (城内すべてを整備するのは、無理だ)  出来ることは限られている。リネアは早々に手の回らない場所は諦めることにした。代わりに人目に触れるであろう場所のみ、徹底的に磨き上げようと決める。  それでもやはり、やることは山積みだった。初日はあまりの道のりの険しさに、気が遠くなりかけていた。けれど徐々に作業を進めるうち、リネアはかすかな希望の光を感じ始めた。  使用人たちは気の良い働き者で、「リネア様、リネア様」と余所者の兎獣人の自分を偏見なく慕い、驚くほどに真面目に、忠実に仕えてくれる。  その熱意や素直さは、何ものにも代えがたいものだった。 (やる気があるのは、とてもありがたい。早急に、個々の技能を高めてもらうには……)  執事のロジェールが抱える仕事が多すぎるため、できれば教育は別の者に任せたかった。リネアが頭を悩ませていると、すぐ傍で一人の兎獣人の青年が声を上げてくれた。 「私でよければ、知っていることを皆さんにお伝えしましょうか?」  それは、リネアの侍従のオリバーだった。  彼は唯一、実家のヨハンソン家からついてきてくれたリネアと同い年の侍従だった。柔らかな茶色の髪の兎獣人の青年は、リネアに仕えるようになってから、もうかれこれ10年になる。 「オリバー、いいの? そうしてもらえると、すごく助かる」 「はい。ヨハンソン家にいた時も、新人の教育は私の仕事でしたので」  オリバーは得意げにフンと鼻を鳴らし、笑顔でドンと胸を張った。  自分の世話など、もうこの際必要ない。優秀な侍従であるオリバーなら安心して仕事を任せることができる。気心の知れた経験者がいるというのは、なんと心強いのだろう。オリバーが自らこの地に志願してついて来てくれたことに、リネアは心から感謝した。  上に立つ者は重要だと、リネアは実家で身をもって学んでいた。侍従頭やメイド長など、上の者を変えるだけで、同じ集団でも雰囲気がガラリと変わるのを見たことがある。自分もそのように使用人たちを導ける存在でありたいものだと、常々思っていたものだった。  一番問題なのは、荒れた城の整備だ。ノースエンド城の家具などの調度品は質が良く、綺麗に磨き上げればそのまま使えそうだった。一方で、布物は劣化が酷く使えそうになかった。  ロジェールはすぐさまイアンデに手紙を括り付けた鳥を送り、これから使用する金額の決裁をとってくれた。いくらでも使っていい、とは言われたものの、イアンデの金銭感覚がわからなかったし、あとでトラブルになるのも避けなければならなかった。  ありがたいことに提示した金額で了承をえられたため、職人を呼び城内の修繕をし、必要な備品を注文した。ソファやカーテンや絨毯やクロスなど、貴族の屋敷を整えるのに欠かせない品々を。  そして使用人にお揃いのお仕着せを作るため、すぐに仕立て屋を呼んだ。少しでも格調高く見せるために、男性は黒のセットアップ、女性は同じ黒のワンピースとフリルがついた白いエプロン。後日それぞれの体格にぴったりの服が届いた。  使用人たちはこのような服を着るのが初めてだったのだろう。試着すると「家族にも見せたい」と嬉しそうにはしゃいだ。その初々しい様子がなんともかわいらしく、リネアも嬉しくなった。  この城は原始的でやる事は山積みだが、手を加えると目に見えて良くなるため、リネアはやり甲斐を感じていた。使用人はやる気に溢れ、乾いた海綿が水をしみ込むように知識や技術を吸収してくれる。  城は古いが、さすが王族が住んでいただけのことはある。質の良い石材や木材が随所に使われていて、磨けば磨くほどに年月を経た独特な味が出た。調律はされていないがピアノもあったし、広間にはほこりで曇ってはいたがクリスタルのシャンデリアもあった。  この城で特に素晴らしかったのは、庭園にある硝子の温室だった。色が混ざった硝子ではなく、無色透明の一級品の硝子が全面に使われていた。  温室の中、屋根が外され雨が吹き込む一画に、以前誰かが植えたのであろう色鮮やかな花々が新たに芽吹き、雑草に紛れて生き生きと咲き誇っていた。  いずれ庭師を雇いこの中に温室菜園を作れば、寒い季節でも採れたての野菜や果物を味わえるかもしれない。いずれ整備して必ず使えるようにしよう、とリネアは心に決めた。 (魔王がいそうなお城って最初思ったけど、城は城でも、冒険小説に出てくるみたいな、宝箱がいっぱい隠されたお城みたい)  この城は可能性に満ちていた。新しい物に出会うたび、やりたい事が次々に湧いてきた。リネアは高揚感を感じ、楽しさすら感じていた。  周りから必要とされていて、役に立っていると実感できるのが嬉しかった。この先もずっと、こんな風に使用人たちに混じり、ただ城の仕事だけをして生きていくのも全く悪くないと思えるほどに。  目の回るような慌ただしい日々をバタバタと過ごすうちに、あっという間に10日が経ち、ついに王族が訪れる当日を迎えた。 (そういえば王族って、誰が来るんだろう)  王宮からの先触れには、高貴な身分の来訪者がいることは記されていたものの、防犯のためか王族が来ると言う情報すら伏せられていた。もちろん地位も名前もわからない。  イアンデからは一切連絡がなかった。おそらく今日は城主不在のまま、客人を迎えなければならないのだろう。  リネアは城内の最終確認をした後、仕上げにメイドたちと共に、温室から摘んできた色鮮やかな花々を花瓶に生けて、目に触れる場所だけ重点的に飾り立てた。地下墓所へと続く暗い廊下の燭台に火を灯していき、最後、エントランスホールの一際大きな蝋燭に煌々とした明かりを灯せば、メイドたちが「わぁ」と歓声を上げた。 「素敵になりましたね!」 「ほんと! リネア様から見て仕上がりはいかがですか?」 「本物の貴族のお城って、みんなこんな感じなんでしょうか? 美しゅうございますねぇ!」  手を取り合って喜ぶメイドたちと、リネアも喜びを分かち合う。  荒れ果てた城はその日、品のいい貴族の城に生まれ変わっていた。

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