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07 狼たちの宴 (後編)

(一通り、挨拶は終わったかな)  リネアは公壇に、一人ぽつんと取り残された。ふう、とようやく一息つき、男たちが大声で笑い合う様を眺める。  ここには兎獣人は誰もいない。大勢の男たちの笑い声が、酷く遠くから聞こえる気がした。自分だけがよそ者だと気付いた途端、心の奥底に寒々しい孤独感がひたひたと押し寄せてきた。  気持ちを紛らわせようと、ゴブレットにつがれた琥珀色の液体をぐっと口に含んだ。その瞬間、熱い炎で喉が焼かれたようになりゴホゴホとむせる。自家製のエールだろうか? 強すぎる酒だったが、今の自分には必要に思えた。そのままゴクゴクと一気に飲み干して、苦い気持ちごと流し込んだ。  酒が回り、頭がふわふわと浮き立つのを感じながら、ぼんやり大広間を眺める。談笑する兵たち。その間を縫うようにして進む酒を持った給仕女たち。初めて見る娘たちばかりだった。彼女たちは今日、臨時で雇われたのだろうか?  そんなことを考えていると、他とは少し、違う動きをしている男が目についた。  その騎士は立ち上がると、一人の給仕女の肩に腕を回した。二人は身を寄せ、男たちの間をすり抜けるように進んで行く。そしてそのまま、大広間の外へと消えていった。  どうしたのだろう、気分でも悪くなったのだろうか?  あまり体調が悪いようにも見えなかったが、付き添う女性に腕を回して、寄りかかるようにして出て行った。リネアが心配に思っていると、また別の男女が1組、寄り添い合って出て行った。続けざまに2組。何か事故でもあったのだろうか?  不安に思い、隣に戻ってきたイアンデに尋ねた。 「イアンデ様、あの者たちは、どこに行くんですか? 体調でも悪いんでしょうか」 「あの者たち?」  リネアの視線の先を目で追ったイアンデは、ちょうど大広間のドアから出て行こうとしている二人を見つめた。途端、決まり悪そうにぐっと顔を顰めた。 「……あいつらは、体調が悪いわけじゃない。大丈夫だ」 「そうなんですか? では……どこに行くんでしょう」 「……なんと言えばいいか……あいつらはこれから、一緒に出て行った相手と……その、夜を共に……しに行く」 「夜を、共に……?」  曖昧にぼかされた言葉の意味する行為を察して、リネアは目を丸くした。 「狼獣人でも……その、満月でもない日に、そのようなことをするんですか?」  常に発情できる兎獣人とは違い、狼獣人は満月の夜しか発情しないと聞いていた。他の日に性衝動が起こるなど、リネアは聞いたことがなかった。 「……命のやりとりをした戦の後は、神経が昂る者が多い。獣の頃の本能が、刺激されるためらしいが……」  イアンデは、言いにくそうにしながらも、狼獣人について説明してくれた。番がいる者は相手がいるが、独身者は、あのように同意を得てくれる相手を見繕い、気を鎮めるのだという。  宴に臨時で雇われた給士女たちは、これを目当てに来ているようなものだという。憧れの騎士の誰かと番になれるかもしれない数少ないチャンス。その意気込みは凄まじく、募集を掛けた瞬間定員はすぐに埋まり、全員が気合を入れて仕事に臨むらしい。  雇い主も「これも昔からよくある出会いの一種だ」と、給士が仕事中に騎士と姿を消しても黙認するのだという。  なんて大らかな習わしなのだろう。 「なるほど……」  リネアはイアンデの話を聞き、ちょうど扉の外へと消えて行く3組目のカップルを見送りながら唸った。狼獣人の宴には、このような暗黙の慣習があったのか。きっとルーンバールの人々は誰も知らないだろう。あとで国への報告書に必ず記載しなければ、とリネアは密かに意気込んだ。  イアンデは決まり悪そうに、ちびちびと酒をすすっていた。その横顔を、リネアはジッと見つめる。  すると不意に頭の中に、ひとつの素朴な疑問が浮かび上がってきた。 「イアンデ様は、あの方たちとは、よろしいのですか?」 「何がだ?」 「戦いの後は、神経が、昂るのですよね?」  リネアが広間にいる何人かの給士女に目を向けると、イアンデは目を見開いて慌てた。 「何を言っている! 俺には必要ない」 「……そうなんですか?」  リネアは首を傾げ、なぜ必要ないかの理由を想像しようとした。けれどなぜだか、うまく考えがまとまらない。  再びゴブレットを手に取る。なみなみと注がれたエールに口をつけ、ごくごくと一気に飲み干した。  その姿を見つめたイアンデが、ぎょっとして眉をしかめる。 「大丈夫か? 顔が赤い」 「そうですか? 大丈夫ですよ。こう見えて酒は結構強いんです。慣れると美味しいですね、これ」 「いや、もう休んだ方がよさそうだ。部屋まで送ろう」  暗に帰れと言われていることに気づいたリネアは、それ以上言い返すことができずに口をつぐんだ。大人しくコクンと頷くと、イアンデに手を取られて立ち上がる。二人で手を繋いだまま、扉に向かって歩き出した。  大広間を出ようとすると、背後から誰かが吹いた口笛が、ピュウと飛んできた。イアンデが鬼のような形相で振り返る。 「そんなんじゃない!」  怒鳴りつけたというのに、なぜかドッと歓声が上がる。その声を遮るように、イアンデは勢いよくバタンッと扉を閉めた。  廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。蝋燭が点々と灯る薄闇の中、イアンデの大きな手に引かれ、無言のまま歩いていく。 『そんなんじゃない』  先程放たれたイアンデの声が、頭の中で繰り返し鳴り響く。  その言葉の通りだ、と思った。大広間から寄り添って出て行った者たちのように、この先リネアとイアンデが「そんな」関係になることはない。  王宮に命令された政略結婚。利害のみで繋がった形だけの結婚相手なのだから。 『夜を共に』『戦の後は神経が昂る』  イアンデから聞いた言葉が、頭の中をぐるぐると飛びまわる。 「必要ない」とイアンデは言っていた。  必要があっても、「できない」のではないか、と気づいた。  自分が婚約者として、ここにいるせいで。  リネアは少し前を歩く、イアンデの大きな背中を見つめながら思った。  ――もしも自分が、この体でこの人を慰められたら。  リネアは自分のぺたりとした平らな体を見下ろした。男に腕を回され出て行った、狼獣人の女性たちのたおやかな体や、妹のロザリーの兎獣人らしいふわふわとした耳や尻尾を思い出す。  男性はやはり、あのような女性に惹かれるのだろう。そのどちらとも、自分の体は似ても似つかなかった。  それなのに婚約してしまった手前、イアンデは誠実に、こんな自分に操をたてようとしてくれている。  ――こんなことまで、イアンデ様に強いていいのだろうか?  リネアは、たどり着いた自室のドアの前に立ち、「では」と立ち去ろうとするイアンデに向かって声をかけた。 「イアンデ様」 「なんだ? やはり気分が優れないか?」 「いえ、そうではありません。お伝えしたいことがありまして」  リネアは暗がりの中、不思議そうに見下ろすイアンデの金色の瞳を見上げた。 「イアンデ様が、国のため、平和のために、私のような異種族の伴侶を受け入れてくださったこと、素晴らしいお心映えだと感じています」  リネアは微笑みを絶やさないよう、顔に神経を集中させた。今の自分の顔には、王妃になるために身に着けた完璧な笑顔が浮かんでいるはずだ。幼い頃から妃教育を受けてきて良かった、と心から思った。 「しかし私は、イアンデ様に私などのために、我慢をしないでほしい、とも思っています。大広間には魅力的な方々がたくさんいました。どうか私のことはお気になさらず、イアンデ様が気に入られたどなたかと夜を共にし、これまでの戦いの疲れを癒していただけたらと」  リネアの言葉を聞き、イアンデが息を呑むのが分かった。 「は……?」 「私はイアンデ様の妻となるべくこの地に参りました。ここでの仕事に大変やりがいを感じていますので、仕事のみの妻、という立場で十分だと思っています。怒ったりは決してしないのでご安心を。大丈夫です。身の程は、わきまえていますので」  言い終えると、視界が少しだけ滲んでくるのを感じた。酒のせいで、きっと涙腺が緩んでいるのだ。  気づかれてはまずいと思い、俯いたまま早口で「おやすみなさい」と言うと、逃げるように自室に入ろうとした。 「待て」  パシリと手首を掴まれる。リネアは手を振り払おうと抵抗するも、イアンデから強い力で掴まれ、腕はびくともしなかった。 「は、離して、ください」 「なぜそんな事を言う? 俺たちは婚約した。それなのに、俺が他の者の元に行くなんて、あるはずがないだろう?」 「だって……」  手首を掴まれたまま、リネアは言葉を詰まらせる。視界がますます滲んでいくのを感じ、声が震えそうになるのを必死に耐えた。 「私は、男ですし…………」 「知っている。だからなんだ? それになんの問題がある?」  イアンデは掴んだ手をひくと、リネアを胸に抱き寄せた。逞しい腕に抱きしめられて、リネアは一瞬息が止まる。長耳の先端にイアンデの熱い息がかかり、ぞくりと背筋が震えた。  耳に唇が押し付けられる感触がすると、硬質な歯があたり、そのまま柔らかくカプ、と噛まれた。 「んっ……なっ……何をするんですか!?」  抱きしめる腕に力がこもる。イアンデの胸に顔を押し付けられて、身動きがとれない。酒とイアンデの香りが混ざり合い、頭がクラクラする。 「俺はこのように、異種族だろうが、男だろうが、何の問題もない。この結婚を、仕事だけの関係にするつもりも、ない」  リネアが驚きすぎて返答できずにいると、イアンデは体を離し、決まり悪そうに目を背けた。 「俺はリネアと番になるつもりだ。良かったらリネアも、考えてみてほしい」  イアンデは固まったリネアに一度だけ視線を向けるも、何も言わずに足早に階下へと去って行った。  リネアは一連の出来事に、呆然とする。 「え……?」  何が起こったかわからなかった。  その瞬間、この結婚に関して盛大な勘違いをしていたことに、リネアは初めて気づいたのだった。

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