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08 番痕(つがいこん)

   結婚なんて、誰としても同じだと思っていた。  だから初めてリネアの姿を目にした時、隣で小さく舌打ちをしたエドミュアと違い、イアンデは特になんとも思わなかった。種族が違っても性別が男であっても、別に誰でもいいと思っていたからだ。  そんな投げやりな気持ちになっていたのは、ここ数日、ろくに眠れず疲れ果てていたせいもあるかもしれない。  人手はまるで足りないのに、やらなければいけないことは山積みだった。その上、異種族の妻を迎えるように言われて、我儘な貴族の面倒までみなければいけないのかと、半ば絶望した気持ちになっていた。  しかも王宮からやってきた偉そうな外交官は「相手方からの強い要望による婚姻のため、気に入らなければ破談にしていい」という不可解な条件を口にした。  王から下された命令にそんな内容はない。一体どういうつもりなのかさっぱりわからなかった。ややこしいことに巻き込まれつつある気配を感じ、さらに気が滅入った。  しかしこの婚姻は両国の同盟のために必要なものだ。それくらい、いくら政治に疎い自分でもわかる。  けれど自分は、ごてごてと無駄に飾り立てたあの貴族という生き物が苦手だった。  それに何より、「この世の全ては私のためにある」とでも言いたげな傲慢な態度が大嫌いだった。  だから誰が来たって同じだと思っていた。そんな結婚相手に望むことは、たったひとつだけだ。  どうかなるべく、邪魔だけはしないでほしい、と。  けれど現れたのは、いかにも真面目そうな男の兎獣人だった。今までに会ったことのある貴族たちとは、なんだかかなり、違う感じの。  派手さはまるでない。むしろ地味と言ってよかった。肩につくくらいの髪も、長い兎耳も、なぜか着ている服までまっ黒だった。袖口から覗く手は逆に白く、宝飾の類は一切ない。こちらを見つめる大きなラベンダー色の瞳だけが、彼が持つ唯一の色彩だった。  そんなリネアは、自分の予想を遥かに上回る人だった。  “完璧な妻”  それはかつて、兎獣人の外交官が口にした言葉だ。  城からの手紙を戦地で見たエドミュアが「いい人が来てくれました」と興奮していた。その時は半信半疑だったが、久しぶりに城を見て度肝を抜かれた。あの荒れ果てた城が、あり得ないほどに立派な貴族の城へと生まれ変わっていたからだ。  “完璧”の名は、誇張などではないと気づく。  しかも、それだけではなかった。 「おかえりなさい、イアンデ様」  微笑んで、リネアはそう言ってくれた。  その瞬間、無機質だったこの城に、鮮やかな光が灯るかのように感じた。自分の心にぽっかりあいた暗い穴の中までも、温かな光で満たされていくような。  まるで馴染みのない感情が怒涛のように押し寄せて、どうしたらいいかわからなくなった。  だから、さっき、リネアとの別れ際に。  あんな言葉を言ってほしくなかったし、あんな悲しげな顔で笑ってほしくなかった。  そう思った瞬間、頭にかっと血が登り、体が勝手に動いていた。  そして気づいたら、リネアが腕の中にいた。  酒が入っていたとはいえ、なんであんな大胆なことができたのだろう?  しかも、リネアに何を伝えた……?  まさか自分が、こんなに衝動的な人間だったとは……。  考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか大広間の前にたどり着いていた。  喧騒の漏れる扉を開けると、場内が、しん、と静まり返る。  不思議に思い会場を見回した途端、少年の高らかな声が響き渡った。 「イアンデ様が、帰ってきたぞ――!」  声をあげたのは、イアンデの従士――12歳の狼獣人レオだった。それと同時に、大広間を震わすような、大歓声と舌打ちが沸き起こる。  何が起きたか分からず立ちすくんでいると、突如太い腕にガッと肩を組まれて、奥の席に連行された。無理矢理どかりとベンチに座らせられると、ニヤニヤとした男たちの好奇の視線に晒される。  筋骨隆々の太い腕をイアンデの肩にまわしているのは分隊長のラグナルだ。背の高いイアンデよりさらに大柄な、麦わら色の髪と耳を持つ陽気な騎士だった。 「みんなで賭けてたんだよ。お前が戻ってくるか。なんだよ、お前、帰ってきちゃってさ……ゆっくりしてくればよかったのに」  ラグナルはイアンデがリネアに手を出すことに金を賭けていたらしい。「絶対勝てると思ったのに」と心底残念そうに肩を落としている。  レオだけがこのテーブルで、イアンデが戻ってくる事に賭けていたようだ。一人勝ちだったようで、大人たちから集めた銅貨を手に、キラキラと目を輝かせている。  そんな悲喜交々の男たちの様子を見つめていると、斜め前から鋭い視線を感じた。 「イアンデ様、珍しく顔が赤いですね。帰ってはきましたけど、さては、何かありましたね?」  探りを入れてきたのは蒼狼獣人のエドミュアだ。イアンデの軍の副官で、この中では唯一、子供の頃に王宮の兵舎で共に過ごした先輩騎士でもある。脳筋が多いノースエンド軍には珍しく、兵糧や金の計算も得意な頼りになる騎士だ。  そんなエドミュアが、敵軍を分析するような鋭い目で、ジッと自分を見つめている。 「……リネアに、番痕(つがいこん)をつけてしまった……」  イアンデの言葉で、周囲がざわ、とどよめいた。  隣に座るラグナルが、驚いてあんぐりと口をあける。 「どれくらいのやつだ? 血が出るくらいの?」 「いや、そこまでじゃない。おそらくすぐに、消えるとは思うが」 「どこに?」 「耳」 「初めてつけたにしては、目立つ場所だな」  狼獣人は自らの番に、“(あと)”をつける習性がある。動物が縄張りにするマーキングと同じように、自らの匂いや、噛み傷をつける。それらを総称して狼獣人は「番痕」と呼んでいる。  突然の衝動に突き動かされ、イアンデは匂いと噛み痕、その両方をリネアにつけた。ほとんど無意識のうちに、体が勝手に動いていたのだ。同意も得ずにこんなことをするなんて、まるで獣と変わらぬ野蛮な行為じゃないかと恥ずかしくなる。いやむしろ、野生の狼すら、相手の雌にここまで勝手なことはしないかもしれない。 「異種族のはさ、結婚しても番わないこともあるんだろ? お前はどうするんだ? 痕をつけたってことは、番うのか? リネア様と」 「……わからない」 「おいおい、そんなんで大丈夫なのか?」  ラグナルが心配するのも無理はない。番を決めるということは、生涯のたった一人の伴侶を決めることと同じことだからだ。  獣人にとって番とは、魂の片割れだとか、失われた半身だとか、生まれる前から結ばれると定められた『運命』の相手として語られることがある。  しかしたいていの狼獣人は、そんな神秘的な力は現実には働いていないと知っている。存在するのは、狼獣人特有の相手を一途に想う習性と、強い執着にも似た深い愛情だけだ。  だから狼獣人は、何に決められるでもなく、自分の『意思』で、自らの番を――生涯の伴侶を選ぶ。  そして狼獣人にとって、番痕をつけることは、求愛行為でもある。「貴方を番にしたい」と言葉で伝えるよりも、もっと強力で、明白な。  けれどそれがわかるのは、相手が狼獣人であれば、の話だ。  兎獣人のリネアはきっと、気付くことができない。  出会って間もない兎獣人相手に、こんな気持ちになっている理由が自分でもうまく説明できない。  番を持つつもりなんて、これっぽっちもなかったのだ。  これまで部下たちが番を持ち、幸せそうに笑う様を目の当たりにしても、番が欲しいだなんて、一度だって思ったことはなかったのに。  けれど思ってしまったのだ。あの時、なぜか、はっきりと。  この子を番にしたい、と。  イアンデが俯く中、エドミュアが冷静な声を発した。 「番、俺はいいと思いますけどね。リネア様を手放すのが惜しいのは理解できます。番になれば、ずっとここで働いてくれるでしょうし」 「いや、そういった理由じゃない」 「じゃあ、なんでです?」 「……わからない」 「またそれですか」  言葉を失う大人の男たちに反して、レオが少年らしく、純粋な疑問を投げかけた。 「番になるってのに、もっとこう……恋に落ちたとか、運命を感じたとか、そういうのはないんですか?」 「そういう感情は、よくわからない」  周りの男たちから漂う好奇心に満ちた気配が、不安げなものへと変わっていく。まともな答えが得られなかったレオもまた、眉を顰めてうーんと唸りながら首を傾げてしまった。  けれどその中でただ一人、ラグナルが薄茶の瞳をキラキラと輝かせ始めた。ニイ、と満面の笑みを浮かべると、イアンデの両肩を、岩のような分厚い両手でバシリと叩く。 「まあ、なんでもいいじゃないか! なんにせよ、番にしたいくらいの相手が見つかるなんてめでたいことだ! 話はよくわかった! 俺に任せろ。経験者としてアドバイスしてやる」  ラグナルは自信満々の笑顔でイアンデを見つめる。ラグナルには事あるごとに惚気話をする、心から愛する番がいるのだ。 「イアンデよ。俺は嬉しいぞ。自分の意思がないだの、心が凍っているだの、散々言われてきたお前の心を、ようやく溶かしてくれる相手に出会えたということだな!」  イアンデの肩を握る手に、骨を砕かんばかりの怪力をギリギリと込めながら、ラグナルは嬉しそうに声を弾ませた。 「番はな、本当にいいものだぞ。愛おしくて、温かくて、いい匂いがしてな。一緒にいるだけで、『あぁ俺、この人と出会うために生まれてきたんだ』って思えるくらい、心の底から幸せな気持ちになれるんだ。だから絶対に逃してはだめだ。もう一度、ちゃんと酒の入ってない状態で気持ちを伝えたほうがいい。伝えるなら一刻も早く。花でも贈ってさ。それらしい場所で、きちんとプロポーズするべきだ。であればこの際、理由なんてどうだっていい!」  ラグナルは、うんうん、としみじみと頷くと、父親が我が子にするようにイアンデの頭をわしゃわしゃと撫でた。  他の者たちからも「がんばれ」とか「うまくやれよ」とか言われながら、酒を注がれ、肩を小突かれる。男たちの激励にゆらゆらと身を任せていると、エドミュアが顰めていた眉をようやく緩めた。 「まあ、よかったではないですか。子供の頃の夢がようやく叶いそうで」 「夢? なんだそれは」 「昔よく泣いてたじゃないですか。『俺も家族が欲しい』って」 「そんなこと言ったか? 覚えていない」 「やっぱりそうでしたか。番は親子以上に深い繋がりだともいいますし。家族と呼ぶならこれ以上の相手はいませんよ。イアンデ様、頑張ってくださいね」  イアンデには、子供の頃の記憶はほとんどない。嫌な思い出ばかりで思い出さないようにしていたら、いつの間にか思い出せなくなってしまったからだ。  けれど子供の頃の自分をよく知るエドミュアから言われてみれば、そんなふうに言っていた気もしてくるものだから不思議なものだ。  王である父親からも、顔も知らない母親からも見捨てられ、イアンデはずっと存在しない子供とされてきた。下層街で死にかけていたところを運良く拾われ、王宮の兵舎に入れてもらえたことは感謝している。しかしその後は、早く死ねとばかりに戦争の前線にばかり送られながら、ただがむしゃらに生きてきた。邪魔な存在である自分が生き残るためには、役に立たなければいけなかった。  その過程で幸いにも、多くの仲間に恵まれた。王に実力を認められ、念願の貴族となり大きな城と領地まで得たのだ。自分の人生は、それで十分すぎるほどだと思っていた。  だからあの時、なぜ突然リネアと番になりたいと思ったのか、まるでわからなかったのだ。 (また、リネアに会えば、はっきりするだろうか)  イアンデは自分の手のひらを見つめた。つかんだリネアの腕の感触や、抱きしめた肌のぬくもりが蘇る。  そして思わず噛んでしまった、柔らかな耳の感触を。  ――野うさぎのように、追いかけたら驚いて逃げてしまうだろうか?  けれどあの手をしっかりと握っておかなければ、いつかどこかへぴょんと飛んでいってしまう気がする。  イアンデはなぜか、そんな予感がしていたのだった。

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