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09 たった一人 (前編)

 窓の外が徐々に白み始めたのを感じると、リネアはぐぐっと伸びをして、ふわぁと(から)の欠伸をした。重たい頭を持ち上げて、寝台からむくりと起き上がる。 (なんだか、眠った気がしない……)  実際横になっていただけなのだから仕方がない。  イアンデの爆弾発言のせいで目が冴えてしまい、結局一睡もできなかったからだ。  噛まれた右耳はジンジンして。抱きしめられた体はイアンデの温もりがまだ生々しく残っていて。思い出すたびに恥ずかしさが込み上げてしまい、敷布の上でごろんごろんと一晩中寝がえりばかりうっていた。  けれどそんな夜も、明ければ必ず朝がやって来る。 「どうしよう……」  どんな顔をしてイアンデに会ったらいいかわからない。「考えて欲しい」と言っていたけれど、一体なんて返事をしたらいいのだろう?  妻として女性が来ると思っていたイアンデとは、貴族の同性婚によくある白い結婚で、自分は“仕事のみをする妻”になるのだと思っていた。  けれど、イアンデの考えは違った。  リネアと「(つがい)になるつもりだ」などと言っている。  獣人にとって“番”とは、自らが決めた生涯でただ一人の伴侶のことを言う。  そのため、結婚はしても、番にならない獣人は多い。相手を複数持つのが当たり前の兎獣人は、その最たる種族だろう。  リネアはこれまで、「たくさんいる中のひとり」になる可能性しか考えてこなかった。  元婚約者のレンナートは、たとえ正妃のリネアが居ても歴代の王と同じく側妃を持つに決まっていた。リネアの父も正妻のリネアの母の他に第2夫人や第3夫人がいた。リネアには母親の違う弟と妹が6人いる。  だからイアンデもまた、正妻は王命で決められたリネアだとしても、他の相手を複数持つのだと思っていたのだ。  イアンデがなぜリネアと番になると言ってくれたのかはわからない。愛する相手ならともかく、自分はただの政略結婚の相手だ。イアンデにとっては、自らを縛り付けるだけで何の利点もないように思える。  イアンデが望む形があるのなら、それがどんなものだったとしても、いくらでも努力したいと思うが……。 (でも、番になるってことは、つまり……)  不意にイアンデの逞しい体に組み敷かれる自分自身が頭に浮かび、恥ずかしさがぼっと間欠泉のように吹き出した。心の中でわ――っと声を上げながら、もわもわと頭に浮かんだ妄想を慌てて掻き消す。  性に奔放な兎獣人は、結婚前に異性とどうこうなることは珍しくない。けれどリネアには、そういった経験が全くなかった。家族や乳母以外とは手すら繋いだことがなかったのだから。  だから手を繋いだのも、抱きしめられたのも、昨日イアンデにされたのが初めてだったのだ。 (番になるって言っても、イアンデ様は一体、どこまでを想定しているのだろう?)  もしもそんな雰囲気になったら、できるのだろうか?  自分に。  そしてあの、イアンデに。  そんなことを考えながら、リネアはイアンデと二人、昼下がりの庭園を歩いていた。  空はリネアの心のもやもやがそのまま現れたかのように、どんよりした雲が隙間なく覆い尽くしている。  宴の翌朝、突然イアンデから「庭園に出ないか」と誘われて、今、二人きり。  ノースエンド城の周りには、自然の野原のような素朴な庭園が広がる。曇り空の下、少しくすんだ緑の上を吹き抜けた風が、イアンデの純白の髪をサラサラと靡かせた。同じ色の尻尾がファサリ、ファサリと揺れるのを目で追いながら、リネアは少し後ろをついて行く。  イアンデは突然ぴたりと立ち止まると、ひょいと脇に手を伸ばし、そのままの動きでリネアに振り返った。 「リネアは、粉雪草を知っているか?」 「えっと……すみません、あまり植物について知識がなく……」 「これだ」  ぐい、と差し出された一輪の花を、驚いて反射的に受け取った。ほんのり甘い匂いが鼻を掠める。 「……これが粉雪草ですか? 名前のとおり、まるで粉雪が積もっているようで、とても綺麗ですね」 「そうだろう」  リネアは唐突に渡された花を不思議に思いながら、少し首を傾げてイアンデを見上げる。  イアンデが眉間に深い皺を寄せたまま、言いにくそうに口を開いた。 「昨夜は急にあんなことをして、すまなかった。酒を飲んでいて、どうかしていた……」 「いえ……あ、お酒、ですか? そっか、そうですよね……結構飲まれていましたもんね。なるほど……」  リネアは自分の耳が、しゅん、と力を失うのを感じた。  そうか昨日の言葉は、酒のせいだったのか。  それなら確かに理解できる。酔うと人格が変わる人やすっかり記憶をなくす人を、今まで何人も見てきた。酒の力は恐ろしい。心にもないことを口走ってしまっても全く不思議はない。 「では、昨夜イアンデ様がおっしゃっていたことは、今のイアンデ様のご意志とは違う、ということですね?」 「え? いや、あれは、本気だ!」  当たり前のように言い返されて、リネアは面食らう。 「え? 酔っていたからじゃなくて?」 「そうだ」 「……別に、変更しても大丈夫ですよ? 無理をしているのでは?」 「していない。全く」 「本当ですか?」 「なんだ? 随分と疑うな」 「だって……」  リネアは混乱した。  ノースエンドに来た時に聞こえてしまった会話と、イアンデが昨夜言ってくれた言葉が、頭の中で上手くつながらない。自分は望まれない妻なのでは? 別に大事にする必要なんてない。結婚さえしてもらえれば、今までのように放っておいてもらって構わないのだ。 「あの、わからないんですが」 「何がだ?」 「イアンデ様はなぜ昨夜、番になるだなんて言ってくれたんですか? そこまでのことをする必要なんて、全然ないのに」  自分たちは両国の友好のために、とりあえず結婚した状態であればいいだけだ。  なのになぜ、わざわざ距離を縮めようとする? 「……俺は妻の他に、相手を持つ気はないからだ」 「別に気を遣っていただかなくてもいいんですよ? 結婚後に他の相手を持つことは、よくあることですし」  イアンデの耳がピクリと動き、表情が一段と険しさを増した。リネアの一言が、彼の中の何かに火をつけてしまったのか、その瞳に怒りがにじむ。 「貴方の種族には、よくあることなのか?」 「はい。兎獣人は複数の相手を持つのが一般的なので、番になることはあまりありません。……もしかして、この国は違うんですか?」 「狼獣人は、結婚後に他の相手を持つことはあり得ない」 「え? そうなんですか? でも……」  辻褄が合わない。イアンデは王の非嫡出子して生まれたと聞いた。同じ歳の正嫡の兄弟もいたはずだ。  それは王に正妃の他に、同時期に別の相手がいたことを意味している。 「俺のような生まれはな、この国では例外中の例外なんだ。そのせいで、子供の頃は散々な目にあった。結婚後に相手を複数持つなんて、当人は楽しいのかもしれないが、巻き込まれた方はたまったものではない。だから俺は、そんなことは絶対にしないと決めている」  吐き捨てるように言い放ったイアンデを見て、リネアは息を詰めた。  その憎しみのこめられた言葉で、昨日の宴でのエドミュアの言葉を思い出す。 『小さい頃はよく泣いてたんですよ。自分も他の子たちみたいに、家族が欲しいって』  リネアの頭の中に、悲しげな顔をした白毛の狼獣人の少年の姿が浮かんだ。  彼はずっと待っていた。他の子供たちと同じように、父親と母親が迎えに来てくれるのを。  けれど、彼の元には誰も来なかった。  可哀想な狼獣人の子供。 「家族が欲しい」と泣く少年の願いは、一度も叶うことはなかったのだ。

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