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09 たった一人 (後編)

(勘違いしてた。イアンデ様は別に、私を気遣ってくれてたわけじゃない)  イアンデが見ているのは、過去のイアンデ自身だ。幼い頃のイアンデと同じ思いをする子供を、もう決して、産み出さないために。  ――なんて残酷なんだろう。  孤独の中で育ち、家族を切望していたイアンデにあてがわれたのは、意にそわぬ自分のような相手だった。たった一人しか選べないなら、イアンデはもう、こんな自分を選ぶしかない。 「申し訳ありません、イアンデ様に、そのような想いがあったとは、全く知らずに……」  愛し合うことができる狼獣人の女性と結ばれることができたなら、大人になり自分の家族を持つことにより、イアンデの夢は叶ったのだろうか?  けれど今のままでは、その夢を叶えることはできないだろう。ここにいるのは政略結婚のためにやってきた、イアンデの好みとはほど遠い自分だからだ。  ーーごめんなさい。ここにいるのが私で。  リネアはもらった粉雪草を、ぎゅっと胸の前で握りしめた。本来この花をイアンデからもらうべきなのは、きっと自分ではなかった。鼻の奥がツンとして、何だか視界が勝手にじわじわと滲んでくる。  でも泣き顔なんて見せたらイアンデを困らせてしまう。自分にそんな迷惑をかける資格なんてない。絶対に泣いてはダメだと、必死で堪えた。 「リネア、だから俺は……なんと言えばいいか……」  イアンデは気まずそうに言葉を途切れさせる。よろよろと視線をさまよわせ、言うべき言葉を必死に探しているようだった。  そして心を決めたように、深く息を吸い込む。  イアンデが何かを言いかけたその時。ついに曇り空から、ぽつぽつと雨が降り始めた。  まるでリネアの代わりに、涙を流すかのようだった。まばらに降り始めた雨は、瞬く間に土砂降りに変わる。目を開けているのが難しいほどに、激しい雨が降り注いだ。 「ここにいてはまずいな。リネア、走れるか?」  イアンデに手を取られ、走り出す。踏み込んだ靴に泥水が染み込み、ぐちゃぐちゃと汚い音を立てた。  二人は大きな木の下に駆け込んだ。  限界を超えて走ってしまい、息が苦しい。イアンデはリネアの顔を心配そうに覗き込んだ。 「急にこんなに走らせてすまない……大丈夫か?」  リネアが声を出すことができずにいたのは、息が切れていたせいだけではなかった。  雨が降ってきてくれて良かった、と思った。  耐えきれずに溢れてしまった雫が、濡れた頬に、じわ、と溶けていくのを感じたからだ。 「ごめんなさい……イアンデ様……」 「ん? 何がだ?」 「……何も知らずに、馬鹿みたいに、無神経なことばかり言って……」  狼獣人の結婚に対する想いは、自分が考えるような軽いものではなかった。  イアンデは政略結婚であてがわれただけの自分と、番になろうとまでしてくれているのだ。異種族の男の、好きでもない自分なんかと。  その覚悟に、報いなければならないと思った。  リネアはほんの一瞬目を閉じて、胸の中の迷いを手放した。  代わりに生まれた揺るぎない想いを胸に、すぅ、と静かに息を吸う。  そして怪訝な顔で見下ろすイアンデの瞳を見上げ、精いっぱいの想いを込めて微笑んだ。 「私でよければ、イアンデ様の、番にしてください」  イアンデが目を見開き、濡れた耳毛をぶわりと逆立てた。耳先から、ぽたりと一滴雫が落ちる。まるで一瞬時が止まったように、降りしきる雨音が不意に消え失せた気がした。 「いいのか……?」 「はい。イアンデ様が望んでくださるならば、喜んで。家族になりましょう。私たち」  ――イアンデ様は、私しか選べない。  だから、この人の夢を叶えることができるのは、私だけだ。  きっと、自分にだって、少しくらいはその力があるはずだ。  自分はイアンデの役に立てる。彼が幸せになる手助けができる。今まで積み重ねてきた様々な知識や経験がある。この先も自分は、このノースエンドにたくさんの利益をもたらすことができるだろう。だってまだ、手をつけられていないことは山ほどあるのだ。城のことだけでなく、領地経営だって、なんだってできる。  城主の妻として、持てる力のすべてを尽くして。  リネアを見つめたイアンデは、眩しそうに瞳を細めた。濡れたリネアの髪にそっと触れる。 「……だいぶ濡れてしまったな」  イアンデはポケットから麻布を取り出すと、リネアの濡れた頰にぐしぐしと擦り付けた。ゴワゴワした布で乱暴に拭われて、リネアは堪らず声を上げる。 「あの、イアンデ様、少し、痛い」 「え? あっ、すまない! ついいつも馬にやっているのと同じ調子で」  ばっと手を離したイアンデの毛先から、水しぶきがピッと飛び散った。イアンデだってずぶ濡れだった。なのに自分のことなど後回しで、リネアの世話を焼こうとあたふたする姿がなんだかおかしい。リネアは堪らず吹き出した。 「ふふふ。イアンデ様も、私と同じくらい濡れているのに」 「いや俺は、これくらいの雨、慣れているから」 「少し、失礼しますね」  リネアもポケットからハンカチを取り出した。イアンデの濡れた顔をそっと拭く。髪の先、頭の上の濡れた耳も、背伸びをして丁寧にぬぐった。  ひととおり拭き終えると、ハンカチは水でぐっしょりと重くなった。 「わざわざ、すまない」 「いえいえ、こちらこそ。なかなか止みませんね。雨」  大粒の雨が地面を叩きつける音が響く。雨音は激しくなるばかりで、なかなか収まりそうになかった。  雨空を見上げるイアンデの凛とした横顔を、リネアは見つめる。  ――たとえ私たちの間に、激しい恋情はなくとも。  こんな風に穏やかな関係性の中で、日々を過ごしていけたなら。  自分のような者でも、イアンデの孤独な心を、ほんの少しでも満たすことができるだろうか?  ちょっとまだ仕事の他の――番としての役割、というのは、何ができるかはいまいち、わからないけれど。 (それはまあ、また、おいおい考えていこう)  雨は次第に弱まり、まばらに落ちる水音だけがかすかに聞こえてくるほどになる。すると雲間から明るい陽の光が差し込んで、濡れた地面を煌めかせた。  イアンデとリネアは見つめ合うと、輝く地面に一歩足を踏み出し、並んで家路についたのだった。

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